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第9話

 涼子が呼ばれる時は必ず母も呼ばれる。安殿と涼子と都喜子、不自然な三人による新しい生活が暫く続いた。


 母の都喜子も春宮坊宣旨として安殿に仕え始めたのだ。母は控えめに傍らに座り、安殿もとても機嫌がいいので涼子はそれでもいいと思っていた。相変わらず安殿は母のことを都喜子ではなく薬子と呼び、周りの者もそう呼び始めた。


 涼子の元に安殿の渡りが多いと聞いた事情を知らない父は素直に喜び、身を大宰府に置きながらも色々と心を砕いて何かと差し入れをしてくれる。今日も新しい着物を作るようにと蘇芳、青、赤など様々な色の反物を届けさせ涼子を喜ばせた。


「ねえ、今日母上がお見えになっていると聞いたのだけれど、どこにいらっしゃるのかしら? こんなに綺麗な布を頂いたから見ていただきたいの」


 馴染みの女房に涼子は何気に尋ねたが、その場の空気は硬く一変した。


「どうしたの?」


 涼子は思いがけない雰囲気に女房の顔を順番に見ていったが、皆目を合わせようとせず、誰も口を開くものもなかった。


「何があったのか言いなさい」


 古参女房の廣島に涼子は命じた。廣島は目を彷徨わせ、しぶしぶ口を開いた。


「都喜子様は皇太子様にお一人で来るようにとのお呼びがかかったので…」


「母様は安殿様付きの女官になったのですもの…それだけよね?」


「…」


 廣島の沈黙が雄弁に物語った。あまりの事に抱いていた反物を涼子は落としてしまい、一つが藍の線を引きつつ転がって廣島の膝で止まった。


 更に話を聞けばこれが初めての事ではないらしい。


(内緒でお会いするなんて。だって、安殿様は私の夫なのに)


 涼子がいくら幼くても安殿が母に夢中なのは気づいていた。だが、いつかは涼子に心を移してくれる日を待っていたのだ。母は安殿よりも七つも年上で、もう少し経てば涼子もそれなりの女性となり、安殿が妻として認めてくださるだろうと信じていたのだ。


(酷い…)


 目の前がぼやけてきたが、女房の前で泣き顔を見せたくなかった涼子は何とか唇をかみ締めて耐えた。惨めな恰好は見せたくない。


「いい? 私がこの事を知ったのは母様には内緒にしてね」


 涼子の言葉に女房達は安堵の表情と共に一斉に頷いた。きっと母にきつく口止めされていたのだろう。


(でも、口止めするくらいなら、安殿様の元になんかいかなければいいのよ)


 母の行動に腹は立ったが、表沙汰にして父に知られるのが一番怖かった。こんな事態になったのは涼子が不甲斐ないからだとお思いになるに違いない。


(どうにかして安殿様を私に振り向かせることは出来ないかしら)


 そう思えば思うほど無理なような気がした。母は明るく辺りを照らす太陽のような存在感がある。一方の涼子は太陽があれば白く霞んでしまう昼間の月のようだ。


(出来ないわ、敵わない)


 だが、女房に言った手前もあり、母の前では何も知らないように振舞わなければならなかった。暫くは耐えたものの、安殿と母が並んで微笑みあっているのを見るのさえ辛くなった。


「気分が悪いから、変わりに母様が行ってきて下さい」


 とうとう呼ばれても涼子は安殿の元へ行かなくなった。本当は母も行かせたくなかったのだが、涼子の気位がその言葉を言わせなかった。安殿からは気遣いの品々が届き、見舞いに涼子の房間に渡ろうとなさったが、病気を理由に涼子は安殿も母も避け続けた。


 残念ながら涼子の物言わぬ抗議は功を奏すことはなかった。安殿の母への寵愛はもう春宮坊では隠しきれなくなり、とうとう安殿の父帝の耳に二人の醜聞が入ってしまった。


「妃の母に手を出すとは何事だ。それに応じる女も女だ」


 父帝は怒りを顕にして母に後宮の出入りを禁じ、それに呼応するように父縄主は都に戻され春宮大夫に任じられた。出世、というより偏に父の責任において、母を安殿の近くに近づけないようにとの父帝の差し金だろう。お前の妻だろう、しっかり見張れ、と。


「良かれと思っての入内だったが、こんなことになるとはなあ」


 父のため息が涼子にはとても重かった。口には出さないものの、彼の瞳は落胆の色を隠しきれない。父のために何も出来なかった自分が不甲斐無い。やった事といえばすねて仮病を使っただけだった。ここでは誰も何も言わないが、きっと周りでは夫を母に寝取られた娘よと笑いの種になっているに違いない。


(もう、耐えられない)


 食も細くなり、女房達からは心配の声が上がった。鏡を覗くと頬は痩せこけ、浦島老人が玉手箱を開けてしまったかのように急に老けて見えた。


『もし、本当にお辛い事ができたらこれをお使いなさい』


 ふと春宮妃に上がる前の母の言葉を思い出した。涼子はゆっくりと立ち上がると小箱にしまっておいた小瓶を取り出す。


(私を苦しめる原因が母様だなんて)


 綺麗だと思っていた小瓶さえ母からの贈り物だと思うと憎らしく見える。この小瓶の中に何が入っているかは知らないが、母の持ち物で今の苦しみから逃れる事は涼子にはお断りだった。


(ここから消えてしまいたい)


 そう浮かんだ考えは日に日に広がり、涼子の心を占めていった。


(そうよ、こんな辱めを受けて生きてはいけない。一人静かに命を絶つの。後々見つけられた私の遺体の傍にこの使われていない小瓶が添えられていたら母はどう思うかしら)


 今の涼子には母への当て付けしか頭になかった。心に決めた涼子はその夜、小瓶をしっかり握り宮中を抜け出した。


 一人で外を歩いた事など一度もないが、東へ行けば鴨川がある事は知っていた。猿沢の池に身を投げた采女のように、いつか聞いた昔語りに事寄せて涼子も入水を選んだのだ。


 雲間から宵闇月が東の空に出始める。その下弦の月明かりに照らし出される辻は幻想的であり、又不気味でもあった。偶さか聞こえる牛車の音や足音、野犬の遠吠えに涼子は身を竦ませたが、戻ろうとは少しも思わなかった。


(これで何もかも全てから自由だわ)


 涼子は暫くたどり着いた速い川の流れを見つめていた。鴨川は禊にも使われるが、置き所のない屍を運び込まれる所とも聞いた。だが、先日の大雨で綺麗さっぱり流されてしまったらしく、それらしいのは見当たらない。


(私も一緒に流しておくれね)


 手を合わせ、涼子は静かに流れに身を沈めた。





 涼子の耳にどど、と激しい水の音が入ってきた。見たことは無いが、話に高い所から水が流れ落ちる「滝」と呼ばれるものがあり、とても美しいそうだ。それなら極楽にもあって当然だわ、と思いつつ涼子は瞳を開けた。


(極楽って意外と平凡なのね。それとも地獄なのかしら?)


 涼子はぼんやりと目に映る黒く煤けた屋根裏を見つめていた。浄土にあると聞いていた五色の雲も蓮華の花も無ければ、眩しいほどに光溢れる釈迦如来の姿も見あたらない。


「やっと気づきなさったぞ」


 周りの騒々しさに気だるげに視線を横にやると、老夫婦がこちらをのぞいていた。老人の歯がなく笑う姿は涼子に髑髏を思わせた。


「やっぱり地獄なのね…」


「失礼な娘子じゃな、どこが地獄じゃ。気を確かに持ちなはれ。ここは都じゃろうが。帝がおわす都じゃが」


「都…」


 涼子の瞳に涙が溢れてきた。水に腰まで浸かったあの時、着物が広がり涼子の思うように動けなくなった。そのままもがき、水を吸い重くなった着物に引きずられ息を吸う事もままならなくなった。


(なぜ物語のように綺麗に死ねるとおもったのだろう)


 怖かった。後悔した。しかし誰も辺りに見当たらず、そのまま意識を手放した。それで終わりのはずだった。


(でも、生きてる)


 先程滝と思ったのは再び始まった大雨の音だったのだ。


 涼子は半身を起き上がらせると、衣と褶のみの姿で、領巾や髪につけていた櫛などの装飾品がなかった。流されたのか、この老夫婦に取られたのかは分らない。ただ緑の小瓶だけは涼子の手元に残った。夢中でにぎりしめていたのだろう、今も手のひらにくっきり痕が残っていた。


(そうして、何も話さない私に手を焼いた老夫婦が悲田院に連れてきたのだわ)


 生きる価値が見出せなかった涼子には何所へいっても同じと思っていたが、清夏と清高の献身的な看病に少しずつ心を動かされた。


(嬉しかったのは、私が少し微笑んだ時、彼がとても嬉しそうに微笑んだ事)


 ただそれだけなのに涼子には生きる理由として十分な気がした。新たに『珠子』という二つ目の名を与えられたのも、きっと神が一からやり直せと機会を与えて下さったに違いない。


(ここでは誰も前の私の事を知らないし、落胆もされない。それどころか私を頼ってくれさえする)


 与えられるだけで何もしてこなかった。それに気づいた涼子は今までを取り戻すかのように悲田院で献身的に努めた。そして日々は涼子を冷静にさせ、母への氷のような蟠りも少しずつ融け始めた。


(皇太子である安殿様に求められたら断るわけにはいかないし、内緒にしていたのは私を傷つけないようにとの母の配慮だったに違いない)


 母も苦しんでいるのだ。そのとき再び思い出したのが緑の小瓶だった。


(私より、今はきっと母の方が必要だわ)


 もう会うつもりはないが、涼子がいなくなって悲しんでいるだろう。小瓶を渡す事でそれとなく生きている事を伝え、少しでも心を軽くしてさしあげたい。そう思い、父の家人で信頼できる葉山稲取を弥勒寺へ呼び出し、伝言と共に小瓶を託した。その時、涼子の居場所は稲取にも教えなかった。彼は首尾を弥勒寺の住職に言伝ると約束したが、その唯一の頼りである稲取からの返事はまだない。


(母の元にちゃんと届いたのかしら。それに清夏に清高…なぜ帰ってこないの?)


 心配事は尽きない。珠子は再び熱心に釈迦如来に手を合わせた。






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