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第8話

 清夏と清高が悲田院を出て早一月、すっかり梅の花も散ってしまい桜の季節に移り変わってしまった。


 珠子は与えられた房の壁に掲げてある一枚の絵に目をやる。


 釈迦如来が描かれており、それは清夏が珠子の為に描いてくれたものだった。結跏趺坐し、施無畏印と与願印を結ぶ釈迦如来の穏やかさ、身に纏う衲衣の襞を柔らかな曲線で表現している。


(何かあったのかしら。清高も一緒だから大丈夫とは思うけれど…)


 珠子は釈迦如来に手を合わせた。本当は今すぐ二人を探しに行きたい。他の孤児たちも可愛いが、やはり珠子を救い一番懐いてくれる二人には特別な思いがある。その二人が近くにいないととても心もとない気持ちになるのだが、珠子には悲田院でやるべき事がある。


(そして、今、平城には…)


 珠子はきゅっと瞳を閉じた。





「涼子、入内がきまったぞ」



 今でも嬉しそうな父の顔が忘れられない。大きな足音を鳴らして、満面の笑みで自室に入ってきた父藤原縄主を涼子は春の花が咲き乱れる庭から見上げた。


 涼子、これこそが珠子の親から与えられた本名だ。


 周りの女房から祝福の言葉を受けるが、まだ十三歳だった涼子は縁談話にただただ顔を赤らめるのが精一杯だった。


「早く中へ入りなさい。日焼けをしてはお前の折角の白い肌が台無しだ。これからは東宮妃として安殿様に気に入って貰えるようしっかりお仕えしなくてはならないのだからな」


「お仕え…」


 堅苦しいその言葉に涼子は表情を固くする。


「あなた、それでは涼子が萎縮してしまいますわ。あなたはただ夫となる人を愛せばいいのですよ」


 父と共にやってきた母の都喜子つきこが涼子の憂いを払うようにやんわりと微笑んだ。母は咲き誇る真っ赤な牡丹のように華やかで美しい。涼子の自慢の母はいつも涼子の味方だった。だが、父は母の言い分が不満なようだ。


「都喜子、そこいらの貴族に嫁ぐのとは訳が違うのだぞ、慰めのような言葉はかえって酷だ。安殿様の妃だった従妹帯子様の無き今、もし涼子の腹から皇子が生まれれば家柄からしても未来の帝が我が家から出ることになるのだ。今から国母としての威厳を教えても遅くはない」


 父は涼子が皇子を生むと信じきっている。


 普段は酒を好み、何事にも和を重んじ、周りから人の良い性格だけが取り柄と思われている父が心内に強い野心を秘めている事に涼子は驚いていた。父は母のまだ賛成しかねている姿を見かね、言葉を続けた。


「それに、都喜子。お前の父種継殿さえ亡くならなければ都喜子が春宮妃だったかもしれない。草葉の陰で悔しがっておられることだろう。涼子が祖父の悲願を叶えるのだ」


「あなた、やめてください」


 普段落ち着いている母は祖父種継の事になると顔色をにわかに変える。


 女房に聞いたところによると確かに祖父は母を春宮妃にと願っていたらしい。だが、当時の春宮は安殿ではなく早良親王であり、先々帝の懐刀であった種継は帝が実は皇太弟ではなく息子の安殿に帝位を譲りたがっていたことを知っていたので、状況が固まるまで目に入れても痛くないほど可愛がっていた娘の都喜子を適齢期が過ぎても入内させなかった。


 都喜子程の美しさであれば多少年を食っていても寵愛に差し支えないと踏んでいたのかもしれない。しかし皮肉にも先々帝の息子安殿に帝位を譲る願いが叶うきっかけとなったのが、長岡京での種継射殺事件だった。父という後ろ盾を失った都喜子は春宮妃になることもなく、同じ藤原式家の父縄主の妻となったそうだ。


 険しい都喜子の顔色を見て、流石に縄主も口を噤んだ。


「母様は私が春宮妃になるのは反対?」


 父が部屋から出て行った後、涼子は思い切って母に聞いてみた。母の夫となるはずだった相手のもとに今回涼子は嫁すのだ。


「そんなことはありませんよ。春宮妃なんて晴れがましい身分になるのが私の娘で鼻が高いわ」


 母は豊かな髪を横に振って、再びこぼれる様な笑顔を閃かせた。


(私はその時に祖父の為にも父の為にも、そしてなにより母の為に後宮でしっかり春宮様に仕えよう、と幼心に誓ったのだったわ)


 父が四方に手を尽くし婚礼道具が段々と揃っていく。五色の糸を縒った紐がついた唐風の白銅製の鏡、瑠璃の珠、その他見事なしつらえが涼子の元へ届くたびに心躍った。だが、やはり入内の日が来ると嬉しさよりも心配の方が先に立ってしまう。


「大丈夫よ、後見として母が付いて行きますからね、なにも心配はないわ」


 緊張から春先なのに冷たくなってしまった涼子の指先を温めるように都喜子は握った。


「でも、春宮の后ともなると辛い事もおありでしょう。もし、本当にお辛い事ができたらこれをお使いなさい」


 都喜子は胸元から小さな小瓶をとりだした。涼子は受け取ると陽に翳してみた。それは緑の釉薬がかかったとても優しい輝きを放つ小瓶で、振ると中で何かカラカラと動く音がした。


「綺麗。これは?」 


「父…貴女のお祖父様から戴いた物なの。どのように使うかはあなたに任せます。でも開けるのは本当に辛い時だけですよ。それまでは何事にも冷静に立ち向かいなさい」


「母様のように?」


 母は声を立てて笑った。


「私? そうね、いつもそうありたいと願っているわ」


 都喜子はゆっくりと涼子を抱きしめた。


「大切な涼子。私の願いはあなたの幸せよ」


(大好きな母様が付いてきてくだされば何も怖い事はない)


 涼子も抱き返し、母の心地よい香りにうっとりと瞳を閉じた。





 様々な儀式を緊張しつつも何とかこなし、涼子は晴れて春宮妃という身分になった。住む所は変わったが周りには馴染みの女房が顔を揃え、父の屋敷にいた頃と生活はあまり変わらない。


 すでに安殿親王には木工頭の伊勢老人の娘継子や葛井継道の娘藤子などの妃がおり、直ぐには涼子の元へ安殿からのお呼びはかからなかった。


(なにか粗相でもしたのかしら)


 祖父や父の期待を背負ってやって来た涼子は流石に不安になってきた。そんな矢先、やっと安殿の元へ渡るようにとの声がかかった。


「母が付いていますからね」


 緊張の面持ちで安殿の房間へと向かう涼子に母は軽く肩を叩いて送り出してくれた。


 春宮の房間には何故か安殿はおらず、一人座る涼子は暫く部屋の中を見回した。


(どこの景色かしら? 綺麗な衝立だわ。それに書籍がこんなにいっぱい)


 父にはあまりいい顔をされなかったが、涼子も本を読むのが好きだった。


(うまくやっていけるかもしれない)


 共通の趣味を見つけ出せた事に涼子は少し安堵した。これで少しは会話も弾むだろう。


「待たしたな、すまない」


 涼子はキッキッと軽く木の軋む足音と共にやってきた安殿の声に呼応するように頭を下げた。


「こちらでの暮らしにはもう慣れられたかな?」


「はい、お蔭様で」


 思った以上に気さくな物言いに安堵して涼子は顔を上げた。


 儀式では御簾越しで、しかも恥ずかしさのあまり顔を上げられなかったのだが、実質初めて見る安殿はあまり背が高くなく、流石はいずれ天皇になられるだけの気品とおっとりしたやさしい黒い瞳を持っていた。涼子より十歳以上は年上だが、笑った右頬にはえくぼがあり愛嬌さえある。病弱と聞いていたが、見た目では全くそう見えなかった。


(これが私の夫になる人なのだわ)


 涼子は好意をもって安殿を見上げたが、一方の安殿は涼子の顔を見るなり、驚きの表情を見せた。


「前、どこかで会ったような」


「いいえ、初めて…です」


「いや、絶対会ったぞ」


 一度気になりだすととことん追求しなくてはならない性質らしく、安殿はその場に涼子がいないかのように考え込んでしまった。


 安殿とは本当に一回もあった事はない。涼子はろくに父の屋敷から出た事さえなく、自室とその前裁までが涼子の許された行動範囲であり、どう考えても安殿と出会えようがない。


(どうしよう)


 涼子は自分の所為ではないのだが、緊張も相俟って段々悲しくなってきた。


「あ、あの…」


 何度声をかけてもなかなか物思いから帰ってこない安殿にとうとう涼子は泣き出してしまった。


「まあ、どうしたの」


 隣の部屋に待機していた母が驚いて飛んできた。涼子を宥め、都喜子は安殿に頭を下げる。


「なにか、うちの涼子が失礼な事をいたしましたか? 何分まだ若いゆえお許しくださいませね」


 母を見た安殿に、驚きと、それに勝る喜びが混ざった表情が一瞬にして広がった。 


「薬子…だ。そうだ、思い出した、薬子だ」


 涼子にはさっぱり分らない。薬子とは薬司に仕える女官の内でまだ少女の者を『薬子』という。母も勢いよく言い放つ安殿に驚きながらも笑顔で首を横に振った。


「いいえ、私、宮中に上がったことは一度もございませんわ」


 都喜子の言葉に安殿も首を横に振る。


「いや、やっと見つけたぞ。私の薬子」



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