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第5話

 清夏は例の男との約束を守らなければ、と思いつつも年を越し、梅の花が静かに香りを漂わせる頃にやっと奈良へ向かう事が出来た。清高はもっと早く行きたいと毎日の様に急かしていたが、尼姉さまを心配させないで奈良へ行く理由を思いつくことが出来ず、悪戯に時を過ごしてしまったのだ。


「『死に間際の男に奈良に住む男の母親へ形見を届けて欲しい、と頼まれたから』って理由、あまり事実と変わってないぞ。芸がないな清夏は。ありのままを話してもっと早く行けばよかった」


 清高のからかいに清夏は口を尖らせた。


「思いつかなかったんだから仕方ないよ。それに本当の理由を話すなって言ったの、清高じゃないか」


 朝日が昇る前から悲田院を出て、ろくに休憩も取らずに歩いた足は流石に悲鳴をあげていた。貴人は水路で楽々奈良へ行けるが、庶民は当然自分の足で歩いていかなければならない。清夏は道端に寄り座り込むと足の裏に出来かけた肉刺を軽く触り、疲れた足を丁寧に解した。


「でも明日の昼前には平城京に着けるよね。うまく尚侍様に渡せるといいけれど」


 ただそれだけが清夏の不安だった。四条の屋敷のようにまた門前払いされるのではないだろうか。それに会ったら会ったで薬子は性格が悪いともっぱらの噂だ。


(問題山積だよ…)


 清夏は会う前から緊張してきた。


「此処まで来て悩んでも仕方がないだろ。明日に備えて休もうか。尚侍がいる屋敷から探さなくちゃならないからな。でも、すぐ見つかるんじゃないか? 一番立派な屋敷をあたればいいんだから」


 清高は気楽にからからと笑った。


 平城宮まで後二、三刻歩けば着く所でちょうど日が暮れ、二人は廃寺で夜を明かす事にした。堂内とはいえ、まだ二月の夜は冷える。清夏は一つ身震いをし、愚痴をこぼした。


「もっと暖かくなってから来ればよかった」


「でも、尚侍にまたどこか遠くへ行かれたら困るだろ?」


「そうだけどさ、又都に戻ってきたかもよ」


 はあっ、と息を吐き、清夏は息の白さで寒むさを再確認した。板敷きの冷たい床はさらに清夏から体温を奪うようだ。


「寒い、寒い、寒い」


 口に出すと余計寒くなってしまい、清夏は両手で体一面を摩擦しはじめた。


「寒いならこっち来いよ」


 清高は傍の床を軽く叩く。迷ったが、寒さに負けて清夏は言われた通り清高の隣に座った。


「わあっ」


 急に押し倒され、清夏は驚いて声を上げてしまう。幸い清高の腕で守られ痛いところはなかったが、清高はそんな清夏を見て笑った。そして清夏を引き寄せ体を密にする。


「ちょっ、清高」


「こうして寝た方が暖かいだろ。別に悲田院と違って二人きりだし、照れる事ないじゃないか」


「別に照れてなんかないよ」


 改めて『二人きり』と言われると却って意識してしまう。


(でも、やっぱり暖かいかも)


 ただ抱きしめられるだけなら、清高の体温は清夏を落ち着けるのに十分だった。一日歩き続けた疲れも手伝って、清夏はすぐに深い眠りへと落ちて行った。



 



 ふと目の覚めた清夏のぼんやりした頭ではすぐに何所にいるか分らなかった。まだ暗かったが、外からは騒がしい小鳥の鳴き声が聞こえ、もうすぐ夜明けだということは分った。


「まだ寝てろ」


 耳元で囁かれ、清夏はまだ清高の腕のなかにいることも理解した。そして平城京に向かっている途中で夜になり廃寺に入ったことも一気にぱあっと頭に蘇ってきた。


「ごめんね、寝にくかったよね」


 なんだかんだで結局清高の腕の中で寝てしまったのだ。だが、離れようとする清夏を清高は許さずぐっと引き寄せた。


 背中に再び熱を感じた。それはいつもより熱く感じ、清夏にざらざらした胸騒ぎを引き起こさせる。清高は構わず普段一つにまとめている清夏の肩まで伸びた真っ直ぐな濡れ羽色の髪を手で梳きはじめた。


「綺麗だな、清夏は」


 熱っぽい囁きに清夏は体を強張らせた。急に鼓動が激しくなる。


(どう言ったら相手に不愉快な思いをさせずに止めさせられるだろう)


 真っ白な頭を無理やり働かせている間に清高の手は清夏の頬、首筋と下がってきた。それは楽しむような、それでいて不安にさせる指先で清夏に触れる。


「くすぐったいから、やめてよ…」


 そう言うのが精一杯だった。『冗談』という形で終らせたかったのに、硬い声色になってしまったのが悔やまれる。


(どうして?)


 清高は親友だ。これ以上先へ進むべき相手ではない。でもいつの頃からか清高が自分に対してどう思っているか知っていた気もする。


(分っていたのに。気をつければこの事態を避けることもできたのに)


 自分の不甲斐なさに清夏は無理やり清高の手を解き、堂内の隅の荷物を掴むと走ってその場を立ち去った。


 清夏にできる唯一思いついた、手っ取り早い解決方法は『逃げる』だった。


(裏切られた気分だ)


 どうして今までの関係でいさせてくれないのだろう。


 清夏は自分の油断を棚に上げ、清高を心の中で何度も責めた。


 唇をかみ締めつつ東の空が朱色に染まる道を暫く走ったが、体力差で全く敵わない清高にすぐさま追いつかれ二の腕を掴まれた。振りほどこうとすればするほど清高の手の力は強まる。


「離せよ!」


「好きなんだからどうしようもなかったんだ。清夏が俺の事をどう思っているか知っていたからずっと黙ってきたけれど、やっぱり清夏が好きなんだ」


「だからって、こんなのは嫌だ。もう清高を信じられないよ。離せって」


「嫌がっているんだから、離してやれや」


 野太い声にはっと二人は息をのむ。自分の事に精一杯で人がいるとは気づかなかった。


 見れば水干姿の男三人がゆっくり取り囲むように近づいてくる。笑顔が貼り付けたようで返って不自然だ。


 清高は清夏を背に隠すように前へ出た。


「小さい坊主、助けてやるからおじさんについてきな、悪いようにはしないから」


 髭面の男の言葉に残りの二人からは笑い声があがる。裏が見えるような嫌な笑いだった。京内ではかどわしが流行っており、連れ去られ売り飛ばされる事は良く聞く話だ。それに、子供の肝は悪瘧に効くとして密かに高値で売買されているらしい。清夏は見た目が幼いので目を付けられたのかもしれない。


 清高は清夏の手をぐっと握った。


「いいか、走るぞ」


 清高に耳打ちされ、清夏はこっくり頷いた。勝手なもので、先程まで嫌がっていた清高の手が今は心強く感じられる。


「面白い、逃げるか」


 走り出した二人を男たちは追い始めた。微妙な距離感でじわじわと追ってくる男たちにはこの捕り物もちょっとした遊戯くらいにしか思っていないのかもしれない。だが、清夏にとっては面白いどころか命がけだ。


「清夏は先に逃げろ。なんとか食い止めるから」


 清夏に疲れが見え始めた頃、清高はそういって立ち止まった。


「駄目だよ、まだ走れるから一緒に行こう」


 そう言ったものの、清夏は呼吸が上がってしまい激しく咽こんだ。清高は清夏の背中をそっと摩りながら諭すように言った。


「俺たちなんて誰も助けてくれない。自分でどうにかするしかないんだ。わかるだろ」


 自分の身を守るため、都合の悪いことには首を突っ込まない。それが弱者が生き延びるための最大の処世術だ。弱者の集まる悲田院で暮らしてきた清夏や清高にはそれが痛いほど身に沁みている。


「こんな形で別れるのなんて嫌だよ」


 縋るように見上げる清夏に清高はにやりと笑った。 


「その口は本当に『嫌だ』しか言わないな。俺は大丈夫だから。そうだな、都の造りなんてきっと何所も同じだろうから平城宮の南門前で落ち合おう。約束だぞ。早く行け」


 背中を押されて、清夏は仕方なく走り出した。清夏が捕まれば清高はきっと身動きが取れなくなる。清夏に今出来ることは残念ながら足手まといにならないように逃げる事だ。


 横腹が痛くても息が苦しくても後ろを振りむかず走り続けた。太陽が山より高く昇り始めた頃、漸く通りも人や馬で賑やかになってくる。築地塀も見え始め、辺りはしっかり街の様相を呈してきた。


(着いたんだ…)


 安堵と共に立ち止まる。急に立ち止まったので心臓がばくばくし、口から飛び出しそうだ。とりあえず清夏は男達に捕まらなかった。


(清高は?)


 振り向いたが、行き交う人々の中に彼の姿は見あたらない。心配になり、もと来た道を戻りかけたが、清高の言葉が脳裏を過ぎった。


(約束だぞ)


 清高は確かにそう言った。清夏が彼を信じなければ再び会うことも仲直りすることも出来ないだろう。清夏から清高を裏切るわけにはいかないのだ。


(南門で待ってるから、絶対来てよね)


 涙で滲みそうになる目をぐっと手の甲で拭い清夏は踵を返して一歩踏み出した、その時だった。


「退け、危ない!」


「…!」


 男の声と周りの叫びに驚いて顔を上げた清夏に痛烈な熱さが走った。


 何が起こったかわからないまま、清夏の目の前は真っ暗闇に包まれた。







 口に広がる草のような苦い味に清夏は眉を寄せた。ただでさえ口が不味いのにそれ以上に不味いものが口の中にあるとは。起き上がり吐き出したいという欲求と共に清夏は薄っすらと重い瞳を開けた。


「とりあえず飲み込め」


 心配そうに清夏を見るぼんやりとした男の顔には全く見覚えがない。優しそうな顔に頷いてなんとか口の中の物を飲み込んだが、徐々に意識を取り戻した清夏は急いで飛び起きた。


「僕、行かなくちゃ…痛っ」


 足に奔るあまりの激痛と眩暈に清夏は再び体を横たえてしまった。蘇った痛みに清夏は体をくの字に曲げ、細いうめき声を上げた。


「足を酷く痛めているのだ。すぐには動けんから大人しくしてろ」


「ここは…どこですか?」


 薄く瞳をあけ辺りを見回したが、まったく検討がつかない。だが、広さといい使われている見事な木材といい、少なくとも庶民の家ではないことは確かだった。


「中将真夏様の邸宅だよ。突然馬の前に飛び出してきたお前を真夏様の従者が撥ねてしまったのだ。それを見ていた真夏様が看病してやれと仰るのでな、儂がぬしをこうして面倒見る役割を与えられたわけよ。良くなるまでは安心していいぞ」


 苅田善康と名乗った男は地黒の肌に映える白い歯を見せて笑った。ちらほら白髪混じりだが、体つきを見ると細身ながらがっちりとして逞しい。黒目がちな瞳など顔からは人柄の良さがうかがえた。清夏はゆっくりだが何とか体を起こすと頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼は真夏様にいいな。儂はやれる範囲の事しかせんから気にせんでいい」


 気さくな笑みに、清夏は再び頭をさげた。


「お願いがあるのです。どうか私を南門まで連れて行ってくださいませんか」


 目を覚ましてからというもの、この事しか頭になかったといってもいい。


「南門とは、大伴門の事か?」


「おおとも? 南門なら多分…そうです」


 善康は答えるだけでもふらつく華奢な清夏の体を見下ろした。


「しかしまだ熱も下がらない体ではないか。それに南門は無いのだ」


「無い…そんな!」


 それではどうやって清高と出会えばいいのだ。清夏はぎゅっと着物の裾を握った。あまりの清夏の悲壮な表情に善康は慌てて付け足した。


「無いと言うたのは長岡の都を造る時にそちらへ持っていってしまったからだ。跡ならあるぞ。だが行くのはもう少し体調がよくなってから、な」


「それでは遅いんです」


 善康は納得させようとしたが、清夏は頑として首を縦に振らず、逆に無理やり南門行きを承諾させた。清夏の粘り勝ちだ。


「儂も大変な子守を押し付けられたものよ。仕方がない、儂の背中におぶされ」


「ありがとうございます!」


 一変して清夏は笑顔をひらめかせ、屈んだ善康の背に遠慮なく乗っかった。足の痛みなど気にしてはいられない。


(やっと清高に会える。ちゃんと話せばもう一度仲直りもできるよね)


清夏はそう信じて疑わなかった。






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