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第4話

「少しずつですけれど、見栄えがよくなってまいりましたわね」


 渡殿から妻戸を潜った藤原真夏は薬子の低く落ち着いた声を耳にした。


 平安京を離れてほぼ一月半。正月も終わり、年が一つ改まった。平城の地を住処と決めた安殿のために造平城宮使が立てられ、昔の都といえど寂れていた町並みが薬子の言う通り徐々に整えられていく。


 薬子は簀子に立ち、大工の立てる調子の良い木音に耳を傾けている安殿の肩に一枚袿をかけた。


「ああ、薬子は気が利くな。だが、此方に移ってからは体の調子がすこぶるいいのだ。やはり、生まれ故郷だから空気が合うのかな」


「私も此方の方が落ち着きますわ」


 そう言いながらも薬子は安殿のやわらかな手を取り母屋の中へ導く。小春日和の暖かい日とはいえ盆地の春先の冷気は体に響く。病弱の安殿を気遣った薬子の細やかな優しさに真夏は眩しそうに目を細めた。


「やあ、真夏。これで皆揃ったね」


 安殿は入り口に立っていた真夏を見つけ、屈託のない笑顔で迎え入れた。


 真夏と安殿は同じ年に生まれている。真夏の母が安殿の乳母だった事もあり、幼い頃から側で多くの時を共に成長した。叙爵されるや皇太子安殿の春宮権亮となり、翌年には春宮亮、安殿の即位後は右近衛中将、内廷経済を司る内蔵頭、詔勅の発布を行う中務大輔を歴任し、安殿の寵臣として活躍の場を与えられた。今回は弟の神野に位を譲り太上天皇となった安殿と共に平城京まで追従し、安殿の強い要望で今年に入り造平城宮使に任じられ、目の回るような忙しい毎日を過ごしている。


「偶には皆集まって楽しむのもよかろうよ」


 安殿の鶴の一声で本日、紀田上、多入鹿、仲成など気の置けない臣下を集めて宴が催される事となり、真夏も公務を終え、安殿の仮住まいである故大中臣清麻呂の屋敷へ参上した。平城宮を宮地として選定し、造作に着手してから僅か二十日で安殿は平安京から此方へ移って来たため、まだ屋敷が出来ておらず、安殿の妃の一人である百子が清麻呂の娘である縁を頼りここを仮の住処と定めたのだ。


 宴と言っても質素を好む安殿が主催ということもあり、酒と干宍等少しの肴が並べられた簡単なものだ。初めのうちは他愛のない雑談だったが、酒が進むと話はやはり『関心事』に集中した。


「上皇の体調が回復したと思った矢先、今度は今上のお加減がお悪いそうですな」


 多入鹿が口火を切った。


「話によれば正月朔の廃朝以来、一進一退の病状とか」


 紀田上の言に頷きながら仲成が豪快に酒を煽り、口端を拭う。伸ばしている固い髭には拭いきれなかった酒の滴がぶら下がり、落ちそうで落ちない。そのまま仲成は陽気な笑みを見せた。


「さよう。上皇、譲位は少し勇み足だったかもしれませぬなあ。これでは今上の譲位も時間の問題ですぞ」


「兄上」


 薬子は仲成を軽く嗜めた。内輪の集まりとはいえ、仲成の言葉は直接的過ぎ、不敬罪に取られかねない。思ったことを直ぐ口に出し軽薄な感じさえ受ける仲成に対し、妹の薬子は落ち着きがありしっかりしている。今も常に安殿の行動に気を配り、皆の酒が切れないようにする配慮を卒なくこなしている。それは万事においてであり、彼女の的確な指示は凡庸な男たちの恐怖を呼び起こし、『でしゃばり』等の非難中傷に繋がっていった。女以上に男の嫉妬と言うものは手に負えない。


(男であれば此処まで非難される事もなかったろうに)


 黙って様子を見ていた真夏は心の中で薬子に同情していた。もし男であれば仲成以上に出世をし、真夏にとってもきっと尊敬できる競争相手になっていただろう。


「真夏殿は今上の詳しいご様子について何か聞いておらぬのか?」


 急に話題を振られ、真夏は物思いから引き戻されたが、いたって冷静に首を横に振った。


「残念ながら、皆様と同じ以上には何も」


「それは本当であろうか?」


 仲成は疑いの眼差しで真夏を眺めた。酒が過ぎたのか充血した目が半分据わっている。


 彼がそう思うのも無理はない。仲成とは同じ藤原氏であるが、淡海公たる藤原不比等の四人の息子のうち式家の祖、宇合の血を受け継いたのが仲成で、真夏は北家の祖である房前の流れを汲む。元は同族といえど今では他氏とあまり変わらない。それ以上に真夏の弟藤原冬嗣は今上の懐刀であり、兄弟を通じてあちらの状況が入ってくる代わりに真夏から上皇側の情報も流れ出ているのではないかと疑っているのだ。だが、仲成の疑惑は今に始まったことではないので真夏はすでに慣れてしまっていた。


「本当です」


「そのような言葉、皆も信じられぬよなあ」


 仲成は周りに同意を求め見回した。今日は何時に無く絡んでくる。こういう相手は取り成そうが反発しようが結果は同じなのだ。売られた喧嘩に負けるつもりは無いが、この立て込んでいる時期に事を荒立てるのは良く無いと判断した真夏は敵意を剥き出しにした仲成の顔を平素通りの顔で見返した。


(髭に酒をいっぱいぶら提げて…。愛嬌があるといえば聞こえがいいか)


 少しだけ彼の神経を逆撫でするように微笑んで見せても良かったが、子供っぽいと思い直し止めた。何よりせっかく安殿の催した宴の座をしらけさせるのだけは避けたい。


「真夏は俺の前では嘘はつかんよ」


 安殿の一言でピンと張った空気が緩められ、周りは密かに安堵したようだ。だが、仲成はまだ眉間の皺を取ろうとはしない。彼は安殿が何かにつけて真夏を信頼している事が面白くないのだ。にこやかな笑顔を真夏に向ける安殿の様子が更に彼の気持ちを逆撫でするらしく、何か小声でぶつぶつ言いながら近くの瓶子を乱暴に奪い取った。


 薬子が申し訳なさそうに真夏に微笑みかけた。兄の不始末を尻拭いするのは決まって薬子の役目だ。真夏は彼女の気苦労を思いやり、気にしていないという風に首を軽く振った。


(仲成殿の嫌疑もあながち間違ってはいないからな…)


 父内麻呂から平安京の様子は逐一得ている。遠く離れた平安京の内情を知るのは真夏のため、ひいては安殿のためにも重要なのだ。何も知らなければ指図を真逆に持ってしまった時の様に間違った方向に突き進みかねない。だが、その情報を得るために真夏も平城側の状況を話す約束になっていた。真夏が安殿に追従して平城京にやってきたのは自分の意思だが、父に呼び出され、安殿にしっかり付いていくように念をおされるという経緯もあった。


 父の懸念は偏に今上の体調不良にある。もし今上に何かあれば現在皇太子に立っているのは安殿の息子高岳親王であり、高岳親王の母は真夏の妻の姉妹である。結果安殿とは義兄弟でもあるのだが、高岳が即位すれば伯父としてますます真夏の立場は強くなるだろう。


「藤原北家のためにも安殿様に良く仕え心証を良くしておくように」


 何かにつけての父内麻呂の口癖だ。


 彼の第一は『家の存続』で、兄真夏と弟冬嗣を安殿と今上それぞれに仕えさせたのは、どんな『有事』に耐えうるようにとの配慮だ。


 幼少の頃から父と会えばそういい含められてきた真夏は、いつの頃からか素直に安殿に接する事が出来なくなっていた。何事をするにも幼馴染である安殿を心から思っての事なのか、自分の出世の為なのか、家の為にしている事なのか、時々自分の心が分らなくなるのだ。


(安殿の御世を盛り立てれば自ずと出世し、家の繁栄にもなる。それらは密接に繋がっているので分けて考える必要は無い)


 普通はそれでいいのだろうが、安殿はこれと決めた相手を難なく信じ、全信頼を寄せる。その代わり相手の心に『安殿』という名の種をしっかり植え付けるのだ。植え付けられた相手はそれを引っこ抜くどころか慈しみ育てたくなってしまう。それは神が安殿にだけ与えた特技という他はない。その恩恵に与っているのは真夏の見る限り自分と薬子だけだ。安殿の『特技』に気づくも恩恵を受けられない者は何が何でもそれを求めてしまう。仲成がその典型であり、真夏に冷たく当たるのも半分は其れ故のやっかみなのだ。だが…


(安殿様の無邪気な笑顔を見ると辛くなる。安殿様は幼い頃と全く変わらない兄弟の情で私をみてくださるが、今の私は同じような瞳で安殿様を見返すことが出来ないでいる。本当に自分は安殿様からそんなに信頼を得たるべき人間なのだろうか?)


 真夏の心の中では嵐が止む事無く吹き続いている。そんな真夏の思いを知らない安殿は再び掛け値なしの笑顔を真夏に向け、容赦なく真夏の心を痛めさせた。


「ほら真夏、場を盛り上げるために得意の笛を吹けよ」


「はい」


 持参した笛を取り出しつつ、人知れず真夏は重いため息を吐いていた。



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