第3話
通りの脇で気だるげに揺れる柳の葉を毟り取り、道端の石を蹴飛ばしても清高の気は治まらないようだ。
「なんだよ、あの態度は!」
昨日の男の約束を果たすべく清夏と清高は四条へ赴いた。だが、屋敷の者は二人を見るなり迷惑そうな顔以外しない。男に教えられた『サダモト様』の名前を出すと更に胡散臭そうな顔をした。
「主人は今屋敷に居られん。さっさと帰れ。此処にいても何も出んぞ」
端から相手にしていない様子だった。物売りや物乞いの類と思われたのかも知れない。綺麗とはお世辞にもいえない二人の姿、しかも子供であればそう思われても仕方がない。野犬の様に二人は門前から追い払われ、清夏は今にも相手に掴みかかりそうな清高を抑えつつ屋敷を離れた。あのまま居続ければこの寒い中、本当に水をかけられてもおかしくなかった。
「どうしようかな、これ」
清夏は手の中の袋に目を落とす。無愛想な屋敷の者に渡せたとしても、ちゃんと『サダモト様』に届く保証はない。むしろすぐ捨てられてしまうのが関の山だ。死に間際の託だけにしっかり叶えてやりたいと思う反面、清夏に頼んだ事自体が死んだ男の大きな過ちであったように思えてきた。
前を腹立たしげに歩いていた清高がふと歩みを止めたので、清夏は危うくその広い背中にぶつかりそうになる。
「どうしたの?」
「なあ、ショウジ様って名前じゃなくて、あの『尚侍』じゃないのか?」
今上は今年の四月に即位したが、その前は今上の兄の安殿が政務を取っていた。風病の悪化により位を退いて今は太上天皇になったが、その上皇の心を掴んでやまないのが『あの』と清高が付ける程京内で知れ渡っている尚侍の藤原薬子だ。
安殿と薬子。二人の関係は安殿の皇太子時代まで遡る。
あまりの周りの目を憚らぬ溺愛ぶりに、安殿の父親である先々帝山部は薬子を宮廷から追い出した程であった。だが、二人の絆は困難の前に更に深まったのか、先々帝が崩御し安殿が即位するや否や再び側に呼び寄た。さすがに妃にはしなかったが、常に天皇の側近くにいて天皇に臣下の言葉を伝え、また臣下へ勅を伝える重要な役職、内侍司の長官である尚侍にすえた。そして薬子の兄の藤原仲成は薬子の閨の囁きのおかげで安殿の寵臣となったともっぱらの噂だ。
「去年の四月頃、若犬養門の樹の枝にとまった二羽の鳥が羽を接して頭を交えたまま死んでいて、しかもその二羽が一日中枝から落ちなかった、って話があっただろう?」
「あー、仲成、薬子兄妹が何か起す前触れじゃないか、って大人が噂してたね」
清夏はすぐに思い出した。少し考えれば全く因果関係の無いこうした逸話に結び付けられる程、二人は有名なのだ。
「でも、尚侍ってお役目の名前だから、他の尚侍様の事かもしれないよ」
清夏のもっともな問いに清高は考えこみ、急に一つ手を鳴らした。
「ガマ殿に聞けばいい。たまには相手をしてやらないと可愛そうだしな」
清高はにやり、と笑い、先程とは打って変わって機嫌よく歩きはじめた。
『ガマ殿』こと出雲広貞は典薬助という役職を活かして悲田院に薬を直々に届けてくれるのだが、それは偏に尼姉さまに会いに来るための口実に過ぎなかった。
「ガマ殿が来たぞ」
清高が薬草の整理をしていた清夏を走って呼びに来た。それは四条の屋敷に行った日から三日経っていた。
「あらあら、いつも大変ね」
共に作業していた乳母に断るとそう笑って快く送り出してくれた。彼女は今日も二人がガマ殿から尼姉さまを守ると思っているらしい。
「これほど『ガマ殿』が待ち遠しかった事はなかったよ。いつもは尼姉さまに近づかないように追い払っているのにね」
清夏の苦笑に清高も頷く。客を迎えるための房間では悲田院の長である預僧が愛想良く彼の相手をしていた。
出雲広貞は目が小さく離れていて、大きな唇が心なしか尖がっている。絵を描くことが得意な清夏が地面に棒で彼の似顔絵を描いたところ、尼姉さまが袖で口元を隠しつつ『かえるのようね』とお笑いになって以来『ガマ殿』というあだ名がついた。尼姉さまがそう笑う時点で脈はない。彼もそれは薄々感じているようで、最近は彼女が可愛がっている清夏と清高に目を付けた。本人が駄目なら周りから攻めようと思ったらしく、預僧が席を外すと今日も二人のために持ってきた高価な蘇を懐から出した。
「典薬助様って宮中の事、詳しいですよね」
指先についた蘇を舐めつつ清夏は尋ねた。
「そりゃ、典薬寮にいるからな、いろいろやんごとない方々と接する機会も多いぞ」
「すごいなあ、尼姉さまも広貞様は物知りだっておっしゃっていましたよ」
「本当か!」
もちろん嘘だが、気持ちよく教えて貰わなければならない事がある以上、仕方がない。清夏が持ち上げる中、清高が待ちきれず切り出した。
「じゃあ、サダモト様と尚侍様ってどういう関係なんですか?」
少し強引だと清夏は思ったが、気をよくしている広貞は気にせずすらすらと答えた。
「親子さ。薬子殿と藤原縄主殿との子が貞本殿だ」
やはり『ショウジ』は尚侍藤原薬子で間違っていなかった様だ。
「今は上皇に付いて平城宮へいかれたよ」
「奈良…?」
「そう、三、四日前に水路でね。今まで上皇様は風病の治療のためお住まいを右兵衛府や東院など大内裏内を五箇所程お移りになった。だが、なかなか良くならず、最終的には平城に居を構えることになさったそうだ。異例の事だが、今上も兄君の病に心を痛めていらっしゃるのだろうな、特に反対もなさらなかったよ」
清夏が男に袋を貰った日だ。確か清高も川の方が騒がしいと言っていたが、上皇の川下りの警備と、それを見る野次馬だったのかもしれない。それにしても奈良とは遠くなってしまった。
「典薬助様は薬子様にお会いする機会はありますか?」
「薬子殿に興味があるのか?」
「いや、きっとお綺麗なんだろうなーって」
清夏は慌てて誤魔化したが、ガマ殿はとがった口の端を起用に上げた。
「可愛い顔してお前も男だな。残念ながら私はお顔を拝見した事がないんだ。後姿を見るに黒髪が艶かで背の高い方だった。私は此方で今上に侍医しなければならないが、機会があってお顔を拝見する事があれば教えてやろう」
茶化され顔を赤らめる清夏にガマ殿は興が乗ってきたようだ。出された湯をすすると清夏へ身を乗り出し、心持ち声を落とす。
「何かにつけて『薬子、薬子』で彼女が傍らにいないと上皇はご機嫌が悪いらしい。それ程上皇様を骨抜きに出来るのだから、相当の美人であろうな。たしか薬子は本当の名前ではないらしい。上皇様がお付けになったと聞いた。そういえば…」
「もう私達も仕事が有りますから」
これからが話の盛り上がる所だったのだろう、まだ喋り続けたそうなガマ殿を清高が横から遮った。心なしか機嫌が悪そうだ。
「そうか…、ではくれぐれも珠子殿に宜しく言っておいてくれ」
ガマ殿は少し残念そうに立ち上がる。だが、素直に帰って行った。ここで清高の機嫌を害するのは損だという考えが働いたのかもしれない。その背を丸めた後姿を見て、清夏は少し申し訳ない気持ちになった。
「聞く事聞けたからってちょっと失礼だよ」
「清夏だって、薬子に興味があるから一生懸命やっているのか?」
よく分らない清高の言い分に清夏は目を丸くする。
「そんなわけないだろ。今日やっと尚侍と、まさにあの悪名高い薬子が繋がったばかりなのに。それに、俺良く分らないよ。その、女性がどうとか…」
最後の方は声が小さくなってしまった。清夏は実際、ぼんやりとは思い浮かぶものの、具体的な恋愛を思い描いた事はまだなかった。
「そうだよな。それでいいんだ、清夏は。薬子は上皇を誑かす悪女だもんな。そうだよな」
一転明るい声色に変わった清高は清夏の頭を撫でた。一方の清夏は正直に話しすぎたことを後悔した。
「子ども扱いするなって」
清夏は憮然と清高の手を払った。だが、清高は気にすることなく撫で続ける。
「いつまでも子供でいればいいじゃないか。俺が守ってやるし、奈良にも俺が付いて行ってやるからな」
「あ、そっか。平城の都かあ」
伝がなくなった以上、男との約束を守るためには自分で尚侍薬子に会いに行く他は無い。
「今頃気づいたのか? やっぱ俺がいないと駄目だな」
清高の、言葉とは裏腹に嬉しそうな笑顔が再び複雑な戸惑いを覚えさせ、清夏は不自然にならないように努めて瞳を逸らせた。