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第27話

「まだ見ていますよ」


 徒歩かちの随人が外からそう告げる。


 真夏は帰路を牛車に揺られていた。


 清夏は悲田院近くの辻まで付いてきて、そこから真夏の牛車の姿が見えなくなるまで見送ってくれるつもりなのだろう。真夏はそっと物見窓を開けた。もちろん窓から後方の清夏の姿は見えない。だが、清夏の思いが風に乗って窓から入ってくる気がしたのだ。


 真夏は懐から一枚の料紙をとりだした。そこには今も一途に見送ってくれる清夏が描いた自分の姿がこちらを微笑みながら見返している。筆使いは優雅な強弱を持ち、おくれ毛一本に至る細部にまで繊細だ。



「そこにお座りください。すぐ用意しますね」


 清夏は珠子の房間につくなり円座わろうだを敷き真夏に勧め、自分は急いで机を引っ張り出して準備を始める。そこはけして広くはないが山吹、橙、桃色など温かい色遣いを濃淡上手く組み合わせており、涼子様の雰囲気そのままに女性らしく落ち着きのある空間を醸し出している。


「急がなくていいよ」


 真夏は優しく言った。その口調から清夏も言外の意図をくみ取る。


「はい」


 くすぐったそうに微笑み小声で返事をした。最後の時、出来るだけ長く共に過ごしたいとお互い思っているのだ。


 清夏は安殿と同じく人の心に『清夏』という名の種を心へ容易に植え付ける才能の持ち主だ。安殿も清夏も自分が意図しなくても周りに愛されずにはいられない。真夏はそんな稀な特技をもつ人物に二人も会ってしまった。本当は心に植えられた安殿の苗も清夏の苗も大切に育てたかった。だが、あえて真夏は安殿を選んだ。何故なら清夏には…


「そういえば、清高とは会えたか?」


 俄かに思い出した問を、何気を装って尋ねてみた。


「いいえ、まだです」


 清夏は丁度墨をっており俯いていたので表情は窺えないが、声色に陰りがあるのを真夏は聞き逃さなかった。


 父の小一条第の屋敷に閉じ込められた折、床板一枚を挟んで清高と話したのだ。そして清高は清夏に会うと約束したのだが、それはまだ果たされていないらしい。


 真夏は軽く失望感を覚えたが、すぐに考えを改めなおした。清高は清夏が戦禍に巻き込まれぬよう悲田院に帰した礼に小一条第に囚われた真夏を逃がそうとする程義理堅い男だ。彼ならきっと約束を反故にはすまい。初め清高は清夏に会うのを渋っていたのだ。彼にも心の準備というものがいるであろう。


 あの時の清高の話からすると、清高はうちに出入りしていた商人、木津の國足の元に身を寄せていると思われる。しばらく経っても清高が現れないようであればそれを清夏に教えようと思う。しかし今は清高が来るのを信じて黙っていることにした。清夏を清高の突然の来訪で驚かせたいという思惑と、清高が木津にいると確認したわけではないので、不確定な話を伝えて期待を持たせるのは可哀そうだという心配があるからだ。


「その硯、使ってくれているのだな」


 沈んでしまった雰囲気を変えるため、真夏は話を変えた。清夏にも笑みが戻る。


「はい。でも、ここに来てからは初めて使います。大切なものだから、大切な時にだけ使おうと思って」


 清夏は本当に何の計算もなく話しているのだろうか? いや、彼なら心からそう思っているとは思うのだが、それなら彼は絵の才能だけでなく真夏を喜ばせる才能も持っていると言わざるを得ない。


 他愛無い話に満ちていた部屋も一度清夏が絵筆を持ち始めると一転静寂に包まれる。真剣な眼差しで見つめられるのは面映おもばゆいが不思議と清夏なら悪い気がしない。


 途中涼子が気を利かせて汲み立ての冷たい清水を持ってきたが、清夏は一心不乱に絵筆を運び、真夏も清夏の気を散らしてはならないとなるべく動かないように配慮し、どちらも器に手を伸ばすことはなかった。


「出来ました」


 どれだけ時が経ったのか、清夏がそう告げた頃にはすっかり清水は温くなっており、床板には器から滴り落ちた水滴が模様を作り上げていた。


 真夏は立ち上がり清夏の隣へ座る。


「今回は上手く描けたと思います」


 清夏は照れながらもはっきりそう言った。


 机の上には青年が一人優しく、そして誠実そうにこちらに微笑みかけていた。


「少し男前に書き過ぎじゃないか?」


「えっ、そうですか? 私にはこう見えるんですけれど…」


 真夏の苦笑に清夏は困惑の色をみせた。真夏は苦笑を納めると豊かな声で言った。


「清夏がそう見えるのならそうなのであろうよ」


 前回、真夏の心の迷いを清夏は見事に絵で描き表わした。清夏の心は鏡で出来ていると本気で思った程だ。今回の絵には前回のような寂しさは全く無い。自然に、なんの力みも無く自分自身に向かえている顔だ。真夏自身も今の自分をそう見ていたが、実は心の奥でただ強がってそう思い込もうとしているのではないか、という疑念も少しあったのだ。だが、清夏の絵には恨み、そねみなど全く暗い思想が見られない。少しでも真夏にそのような気持ちがあれば清夏は意図ぜずも描き表すはずだ。


 初めて真夏は今回の政変の処遇に自分が全く後悔していないと安心できた気がした。


「前回は断られたが、今回は清夏の署名をいれてくれるか?」


「はい。…でも、自分の絵に自分の名前を入れるなんて、あまり聞いたことがないのですが、いいでしょうか」


「そういわれればそうだな。しかし、どんな公文書でも最後に責任者の署名をいれるのが普通だから、絵に署名があってもいいのではないか?」


 清夏は完全には納得していないようだが、描いた絵の左端に自らの名前を入れた。


「文字も上手くなったな」


 前回はお世辞にも奇麗とは言えない字だったが、今回は字のつり合いも字間も見違えるほどだ。


「文字を尼姉さまに教えていただいているのです。前は文字が読めないばかりに迷惑をかけちゃったから…」


 清夏は恥ずかしげに言うが、読めなかったからこそ清夏と出会えた気もする。縁とは何が幸いするかわからない。もし清夏が男から受け取った文をすぐ涼子様に見せていたら、確実に真夏とは会っていないだろう。かわりに驚きに満ちた涼子様の顔は見られたかもしれないが。


「文字の読み書きができるのであれば清夏に任国先から文を書こう」


 清夏は喜びに目を輝かせた。


「本当ですか? 私も絶対書きます。…でも、まだたどたどしいですから、笑わないでくださいね」


「ああ、まっているよ」


 楽しい時が早く過ぎるというのは本当だ。予定より長居をした真夏は立ち上がる。


 別れの時だ。


 清夏はそっと真夏を描いた料紙を手渡した。


「ありがとう」


「…いいえ」


「元気でな」


「…はい」


 清夏の答えは短い。やはり自分は清夏を泣かせてしまうらしい。その証拠に清夏は一生懸命笑みを作ろうとするものの、一度も成功させることができないでいた。しかし、顔を伏せることなく真夏を見上げる。心に刻みこむように。


「清夏に会えて、本当によかった」


 去る前に必ず言っておきたかった言葉。清夏は驚いたように目を開き、路傍の石のごとく微動だにせず、ただただ真夏の顔を見つめ続ける。


 真夏は一つ清夏の頭に軽く触れると踵を返した。が、ふいに袖を引かれた。


「…絶対無事に帰ってきてください」


 背中で聞いたのは呟くような囁くような清夏のか細い声だった。


「ああ」


 袖をつかむ手に真夏は自分のそれを重ねる。背中に清夏の温もりが加わった。


 暫く二人は無言で、そのまま立っていた。


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