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第26話

 客を迎えるための、悲田院では一番奇麗な部屋に真夏を待たせ、清夏を室外へいざなった珠子は彼と向き合った。


「急にどうなさったのですか?」


 清夏は戸惑いながらも笑顔で聞き返す。珠子はしゃがみ、清夏の両腕をつかんで彼を見上げた。


「清夏、真夏様と一緒に行ってもいいのよ」


 珠子の小声に清夏は笑みをしまい、大きな目をさらに大きく見開いた。


「あ、尼姉さま?」


「真夏様が以前私に話してくれた大切な方なのでしょう? 確かに清夏の言う通り素敵な声の持ち主ね。あなたは二度と会えないと思っていたのにまた会えたのよ、こんな機会はめったにないの。逃してはいけない。一緒に行きたいと思いきって気持ちを伝えてみたらどうかしら? きっと真夏様も受け入れてくださるわ」


 清夏はとっさに俯いたが、彼を見上げている珠子にはさっと彼の頬が上気するのが見て取れた。


 真夏も清夏の事を憎からず思っているようだ。自分では気づいていないかもしれないが、真夏はここに来てからずっと清夏の一挙一動を温かい目で見守っている。視線はずっと清夏を追っているのだ。だから、頼めばきっと断らないだろうと珠子は確信していた。


「でも、清高が…」


「清高のことなら、私が引き受けるわ。清夏も清高も私を救ってくれた命の恩人、そして最も愛すべき大切な弟達」


「私は、そんな…」


「私は母様の手紙を、なにより母様の想いを受け取れてこの上なく満たされています。今度は清夏、清高の二人にも幸せになってほしいの。まず手始めに清夏が幸せになりましょう、ね?」


 清夏の心の中での葛藤が着物の裾をきゅっと握る彼の指先に表れている。水仕事にも負けぬ彼の滑らかな白い手に青い血管が浮き出るほどそれは強い。


 行きたい、と体が叫んでいるのに、清夏は口を真一文字にかみしめると大きく首を横に振った。


「行きたいけど、行きません」


 珠子は歯がゆい思いで立ちあがった。


「どうして?」


「私はまだ何も変わっていないから。もし同じような政変が又あったとしたら、私は今回と同じく再び真夏様の足手まといにしかならないでしょう」


「足手まといだなんて、きっと真夏様は思っておいでではないわ。今回だって清夏の身を案じて悲田院に帰したと思うわよ」


 清夏はふわりとほほ笑む。


「ええ、真夏様はやさしいから、きっとそうでしょうね。半年、お側にいられてとても楽しかった。貴重な紙をつかって絵も描かせていただけたし、奇麗な絹で着物も作っていただきました。お忙しいのに清高のことも親身になって相談に乗ってくださったし…今思うと、身に余る様々な事を許されていました」


 清夏は視線を落とし、一呼吸おく。


「甘やかされるのは確かに心地いいけれど…私はその優しさだけにすがりたくはないのです。流れの止まった川のごとく、そこで自分が淀んでしまいそうで怖い。それで真夏様に嫌われてしまうのはもっと怖い」


 清夏の声は小さく掠れていたが、かえって鋭く珠子の胸に届いた。


「清夏…」


 自分の声色が重くなりすぎたことに気がついたのか、清夏は一転明るい声を出した。


「実は七条で、民営ですけれど、衝立から絵巻物までいろいろなものを手がけている工房に知り合いが出来たのです。今回の政変で都は平安京だと落ち着き、それに安心した貴族からの調度や装飾品などの受注がこれから増えるとそこの工房では踏んでいて、人手が欲しいらしく、興味があるのなら来てもいいと言ってくれたんです」


 最近清夏は暇さえあれば出かけていたが、彼なりに成果をつかみ取っていたのだ。絵が得意で手先の器用な清夏にはぴったりの職種と言えるだろう。


 珠子は老婆心が過ぎたことを恥ずかしく思った。


「ごめんなさいね、勝手な事ばかり言って」


 清夏はとんでもないという風に首を振った。


「いえ、尼姉さまのお気づかいはとても嬉しかったです。今まで奈良での半年のこと、嘘をついていてごめんなさい。尼姉さまに嘘をつくのはとても苦しかった。でもいつか私の気持ちを尼姉さまだけには知ってもらいたいと願っていたから、今、話せて良かった」


 こちらに背を向け、話を聞かないよう配慮している真夏の背中を引き戸越しに清夏は盗み見た。そして囁く。


「そこでしっかり修行して、真夏様が今上から許され、再び都へ帰って来た暁には、私の手がけた調度を是非屋敷においてもらえるようになりたいと思っているのです。驚かせたいから真夏様には内緒ですけど」


 目的があれば上達も早まるだろう。珠子も同じく真夏の背中を見た。


「大丈夫、必ず早い時期に戻っていらっしゃるわ。早いご帰還を願うために清夏も早く技術を習得しなくてはね」


 珠子の言に清夏は素直に頷いた。


 しばらく一人にしてしまった珠子の詫びを真夏は長月の晴れ渡る空を吹き抜ける風の様な笑みで受け入れた。風に揺れぬ木の葉が無いように、これは清夏ならずも目を奪われずにはいられない。珠子もその一人となった。


「涼子様」


 真夏に呼ばれ、珠子は我に返り、なんとか取り繕った。見惚れていたなんて、清夏に怒られてしまう。


「安殿様を許して差し上げてください」


 真夏は真摯な瞳でそう言った。珠子にとってそれは意外な真夏の言葉だった。


「許すも何も…私、安殿様には感謝しておりますのよ。母は最後こそ自害という形で人生を終えましたが、母が安殿様と過ごされた日々は母の満たされた幸せの日々と重なるものだったのでしょう。それはきっと真夏様の方がお詳しいのではないかしら」


 真夏はふっと安堵の表情を浮かべた。


「はい、そのとおりです。涼子様の口からその言葉を聞けて正直安心しました。面ざしは言うに及ばす、思慮深いお心ざしは離れて暮らしていても流石血の成せる業なのでしょうか、薬子殿に良く似ておられる」


「嬉しいわ」


 珠子は本気でそう思った。母と似ている。今の珠子にそれは最高の褒め言葉に聞こえた。


 続いて、真夏は端整な顔を苦笑で崩した。


「そして、相手の心情をお読みになるのは母親以上ですね」


 真夏と清夏、お互いがお互いを大切に思い合っているのが珠子には分かっていると真夏も察した様だ。


「あら、それについては意外と簡単でしたわよ」


 清夏は真夏が好きだ。清夏がいくら隠しているつもりでも、年上な上に海千山千の人々に囲まれながらも政の中心にいた真夏にその気持ちはお見通しだっただろう。しかしその想いを笑うことなく、利用することなく、一人間として清夏と向かい合ってくれた。清夏がこの半年で成長したのも心正しい真夏のそばにいたからこそだろう。


「言うのが遅れましたが、清夏を大切にしていただき、お礼を申し上げますわ」


 照れに渋さを混ぜた複雑な真夏の顔を見やり、ふふ、と珠子は微笑む。自分ばかり真夏と話していてはいけないと珠子は清夏の背中をぽんとひとつ叩いた。それに勇気を得てか清夏は一つ前に進み出る。


「真夏様、一つお願いがあるのです」


「私に出来ることならば」


「真夏様にしか出来ません」


「今度は楽しい曲の笛でも吹こうか。清夏には笑っていてもらいたいからな」


 そこで二人は二人にしか分からない笑みをかわした。奈良での半年は決して珠子には入れない清夏と真夏の聖域と化している。二人の微笑ましい光景を喜びつつも何故か漠々と湧きあかるさみしさも珠子は心中に見つけた。


「笛も素敵ですね。でも今は真夏様の絵を描かせていただきたいのです。この間はうまく描けなかったけれど、今なら本当の真夏様が描ける気がします」


「本当の私、か。確かに、必要なもの以外は総てを削ぎ落した今がまさにそうだな。是非描いてもらおう。清夏に」


「ありがとうございます」


 清夏は微笑んだ。が、珠子はそのほほえみの中にも悲しさを認めざるを得ない。涙を堪えているのか清夏の眼は潤んでいる。真夏は備中に下らなければならない。道中危険な道もあるだろう。いつ帰還許可がでるかもわからない。これから当分、もしかしたら一生、彼らは会えなくなるのだから当然だ。


 珠子は二人がゆっくり別れの時を過ごせるよう自分の房間を提供することにした。


 二人を先導するため珠子は歩き出す。


 もう少し清夏の成長を見守ることのできる嬉しさを噛みしめつつ、珠子は真夏が再び都へ帰ってくるその日まで責任を持って清夏を支える誓いを立てた。


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