第25話
「珠子さん、いる?」
与えられた休憩の時を自室で過ごしていた珠子は仲間の乳母に声をかけられた。手にしていた法華経を机に置き房間から出ると、乳母は好奇心を抑えられない様子で珠子に近づいてくる。
「ねえ、後であの男性の事、詳しく教えてね」
「男性…?」
戸惑う珠子を見て、更に乳母の好奇心が高まっていくのが表情に露骨に現れる。
「お客様で見えているわよ。もー、珠子さんも隅におけないわ。そうよね、あんな素敵な方がいたんじゃガマ殿なんかに目がいくわけがないわ」
乳母は何度も頷き、珠子に分かり顔を見せた。
一方の珠子は軽く体を強張らせた。それに気付かず、乳母は珠子の房間を肩越しにひょいと眺めた。
「それと、ここに清夏は…いないみたいね、どこへ行っちゃったのかしら? 彼も一緒に来るよう言われたのだけれど」
その言葉で珠子は一気に緊張を解く。実は初め、ここに稲取が来たのではと考えたのだ。彼には母に渡すよう緑の小瓶と文を託してあったので、母の何かしらの伝言を携えて戻ってきたのかと思った。だが、よく考えれば稲取に自分が悲田院にいることは伝えていないので来るはずはない。さらに清夏が一緒では絶対違うであろう。珠子は思いのほか自分が落胆していることに気付いた。しかし、それでは今来ているのは誰であろうか。
「ありがとう。私が清夏を探すから、持ち場にもどってちょうだい」
悲田院は実際雑用が多い。病人や孤児の世話はいくら手があっても足りないくらいだ。今も乳母を呼ぶ声が病棟から上がる。乳母は残念そうだったが、素直に珠子の言葉に従った。ただ、再び「後で絶対聞くからね」と念を押していった。
一度房間へ戻り、鏡の前で軽く髪を直すと珠子は清夏を探しに取りあえず庭へ出た。
最近清夏は少しでも時間が出来るとどこかへ行ってしまう。きっと自分の足で立つための『何か』を探しに行っているのだろう。
(もう戻ってきてもいい頃なのだけれど)
珠子は門の外に出て通りの左右を眺る。遠くに清夏の姿を認めると、珠子は名を呼びつつ小走りで近づいた。
「どうされたのですか?」
清夏も珠子の姿を見つけると慌てて走ってやってきた。
「お客様が見えているらしいの。清夏と私に会いたいのですって」
「尼姉さまと私に? 清高…ではないですね」
清夏はすぐに首を横にふった。清高なら乳母も知っているのですぐ教えてくれただろう。それにきっと彼ならここでは『お客様』扱いにはならない。
「残念だけど、たぶん違うわね。あまりお待たせするのも悪いわ、とりあえず行きましょうか」
客を迎える為の、悲田院で一番綺麗な房間に急いで二人で向かう。房間の奥には見知らぬ男が一人立っていた。身を窶しているが、動じない落ち着いた佇まいからどこかの貴人に間違いない。すらりと背が高く、端整ともいえる顔は少しやつれて見えた。珠子には全く見覚えはなかったが、清夏の息を飲む掠れた音で彼は客人を知っている事が分った。
「真夏様!」
清夏はそう叫んで走り寄ったが、手前で立ち止まると急に裾で顔を覆った。
「よかった。心配しかできなかったから」
清夏の小刻みに震える肩に真夏と呼ばれた男はそっと手をのせる。
(清夏の心の闇はこの方だったのね)
二人の自然なふれあいに珠子は合点がいった。二人を眺めていた珠子に真夏は軽く照れたように笑い、頭を下げた。
「お久しぶりです、涼子様」
低く響く綺麗な声に涼子は一瞬聞きほれたが、暫く呼ばれていない名にその気持ちは一気に吹き飛んでしまった。
「何故…その名を?」
口ぶりからして初めてでは無いらしい。
(真夏、まなつ…涼子という名を知っているという事は父様のお知り合い? それとも安殿様の?)
珠子は思い出せなかった。
「一度安殿様の房間で、安殿様が新しい妻を紹介してくださった時にお会いしました」
そんなこともあったかもしれない。その時は几帳越しであったし、まだ恥ずかしくて俯いてばかりいたので誰が来たかなど全く覚えていなかった。
「安殿様は貴女をかわいらしく聡明な方だと私に自慢なさいましたよ」
「安殿様が私の事を?」
安殿はいつも母ばかり見ていた。信じられない珠子は真夏の顔を見つめた。彼は一度だけだが、しっかりと頷いた。
「そう…。あの頃聞いていれば…いいえ、若かった当時の私ではきっと信じなかったでしょうね」
珠子は瞳を伏せ軽く横に首を振った。あの頃は全く何も見えていなかった。だが、今は真夏の言葉を素直に信じる事が出来る。安殿様は母を愛したが、私を嫌っていたわけではなかった。
「お会いできてよかった。今日はこれを涼子様にお渡ししようと思いまして」
真夏は文を珠子に手渡した。少し縒れた料紙だった。
「これは?」
「薬子殿の女房葛井が政変の後に屋敷へ来て薬子殿からの言伝を私へ託されたのです。その中に貴女への手紙も含まれていたので」
「私宛てに?」
珠子は母からの文を震える手で広げた。
あなたからの小瓶を受け取りました。生きていてくれてとても嬉しく思います。母は自分に負けたのです。どうしてもあなたのお祖父様の呪縛から逃れる事は出来なかった。後悔はしていませんが、一つだけあなたに苦労をかけた事はどれだけ悔やんでも悔やみきれません。ですから母を許す必要はありません。ただ、涼子はまだ若いのだから自分の幸せの為に生きて欲しい。それだけが私の願いです。 都喜子
それは紛れも無い、大らかな筆使いの懐かしい母の手跡だった。ただ、急いで書いたのか所々文字が乱れている。もしかしたら自害する直前にしたためられた文かもしれない。
(潔い母らしい)
元のように丁寧に折りたたみ、珠子は胸にぎゅっと抱いた。昔感じた母の懐の良い香りと暖かさがよみがえる。珠子はそっと溢れた涙を拭った。
「よく届けてくださいました。でも私の居所がよくわかりましたね」
誰にも知られない様に稲取にもここの居場所を知らせていなかったのだ。
「小瓶を薬子殿に渡したのは清夏なのです」
「清夏が?」
珠子が驚きの声をあげる。真夏と珠子の話を理解するまでは、と口を出さず耳を傾けていた清夏も自分の名前を出され驚きに瞳を見開き珠子を見た。対する珠子も同じように清夏を見返すばかりだった。清夏は全てを分りかねている様子で、今度は真夏を見上げた。
「薬子殿と涼、いや、尼姉さまは親子なのだよ。清夏が二人の顔が似ているという話をしていたのを思い出して、半信半疑ではあったが来てよかった。清夏が尼姉さまの願いを叶えた事になるな」
「涼子、リョウコ…あっ、そういえばあの男が言っていた! 尼姉さまが、涼子様だったのですか」
暫く呆然とし、ようやく納得した清夏は俄かにぎゅっと珠子の手を力強く握った。
「私は薬子様とお会いしましたけれど、噂とは全く違う心のお優しい方でした。私は尼姉さまと薬子様がどのような経緯で別れたか知りませんが、小瓶をお渡しした時、涙を流し『罪は減らないけれど安心した』と心から仰ってました。それは信じてください」
清夏の必死に言う様子はすっかり珠子の心を解きほぐした。涼子と別れた後も母は相変わらず優しく、そして美しかったのだろう。
珠子は深々と頭を下げた。
「真夏殿、それに清夏。感謝いたします」
「尼姉さま、顔をあげてください」
慌てた清夏の声。しかしながら、今日程心が軽くなった日はない。
(私はこれでもう十分)
幾重にも重なっていた肩の重みが一気に飛び去ったようだ。新しく生まれ変わった自分でまたこれからの日々を暮らせるだろう。
今度は清夏の願いをかなえてやりたい。珠子は微笑み、清夏の肩を抱いた。
「真夏様はこれからどうなさるの?」
母から文を託されるくらいなのだから、今回も上皇側に付いたのだろう。であれば、これからの事などあまり口に出したくないかもしれない。しかし、清夏のためにも珠子はあえて聞いた。
「私ですか?」
真夏は視線を外し、口端を軽く上げた。
「先日、備中権守に任命されましてね。まあ、はじめは伊豆権守だったので、父や弟が配慮してくれたのでしょう。私は上皇様に組したのですから、暫く都を離れなければならないのです。それで近々任国へ下るため、今日はお別れも言わなくてはなりませんね。いつ今上のお許しが出るか分りませんから」
「そうでしたか」
珠子には案の定の答えだったが、清夏が体を硬くしたことが肩を寄せているため伝わった。唇をかみしめる彼は本当に支えていなければ倒れてしまいそうだ。
「真夏様、少しだけ失礼を。清夏、ちょっとこちらへ来て」
軽く首を傾げる真夏を置いて珠子は清夏を部屋の外へ連れて行った。