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第24話

 薬子の女房の葛井がほうほうのていで真夏の元にやってきたのは政変の四日後くらいだったと思う。


 弟の冬嗣が差し向けた監視付きではあるものの真夏は奈良の屋敷へ戻ることを許された。これから配流となる身なので、家人のこれからの身の振り方を決め、家財の整理をする為だ。


「真夏様、ご無事でよかった。屈強な男たちに連れて行かれた時はどうなる事かと思いましたよ」


 家人達は皆それぞれに真夏の無事を喜んでくれた。そして一生懸命場を盛り上げようとさえしてくれる。


 真夏の左遷に家人達は口には出さないが落ち込んでいるようだ。今まで寵臣として明るく陽の当たる出世の道を真っ直ぐ歩んできた主人が一転、位に見合わない地方に飛ばされるのであるから無理もない。家人の内で辞していった者もいたが、善康をはじめほぼ残ってくれた事が真夏には有り難く感じると共に申し訳ない気持ちで一杯になる。


(自分の信念の所為で彼らには迷惑をかけてしまった)


 せめてもの罪償いとして、彼らにはこれからの生活をしっかり保証してやらねばならない。真夏の身の上の事情の関係で、大っぴらではないが、もし必要であれば家人を引き受けてもいいと言ってくれる人もいるのだ。


 そんな中、薬子の女房葛井がやって来たのだ。


 善康は真夏に彼女の来訪を告げた。同時にこっそりと真夏の耳元でこうも言った。


「冬嗣様が付けた監視がいるのをお忘れなく」


彼の眼にはもうこれ以上薬子とは関わらない方がいいという少しの非難と大半の心配が入り混じるのが見て取れた。


「会わない訳にはいくまいよ」


 薬子が理由なく葛井をよこすわけがない。真夏は善康の肩を一つ、親しみを込めて叩いた。善康は、軽くだが、溜息をつくと真夏の部屋に葛井を連れてきた。


 葛井は真夏と会う機会を窺っていたという。流石に平安京では自由に会えないと踏んだ彼女は真夏が奈良のこの屋敷へ戻ってくるのを待っていた。薬子と別れ、奈良の都に戻ってきた後ずっと屋敷近くで見張っていたらしい。彼女は体力的に、それ以上に精神的に参っており、真夏はとりあえず休ませようとしたが葛井は頑として断った。


「薬子様から言伝を申し付かっております」


 葛井は乱れた髪を手早く直すと真夏の前で背筋をのばし、毅然とした態度をとる。薬子の代理という自負がそうさせるのだ。


「伺おう」


 真夏も顔を引き締め答えた。薬子の落ち着いた佇まいや卒のない立ち振る舞いは今思い出しても美しく、素晴らしかった。真夏は薬子を人間的に好きだったのだ。このような事態になった今でも薬子に対して不思議とその気持ちは変わらない。


「安殿様をよろしくお願いします、との事です。それだけですが、必ず引き受けていただくように言い付かっております」


 真夏にはその一言で十分と思ったのだろう。薬子殿らしい、と真夏は思った。


「確かに承った。今の私にどれだけのことができるかわからないが約束しよう」


「主人もその言葉を聞いて安心したと思います」


 葛井は深く頭を下げた。 


「次にこれを」


 懐から葛井が差し出したのは一通の文だった。


「これは薬子様が娘の涼子様に宛ててお書きになった文でございます。これもどうしても涼子様にお届けせねばなりません」


 真夏から視線を外さない葛井の言葉の端々から主人薬子の遺言を全て遂行しようとする強い意志が溢れている。


「涼子様の文を薬子様にお渡ししたのは確か真夏様の小姓でございましたでしょう? あの小姓をここへ呼んでいただけませんか? どういう経緯で涼子様の手紙を手に入れたのか聞きたいのです」


「清夏は私の小姓ではない、客人だ」


 真夏は、口調は柔らかながらも、あえて訂正した。これに関してだけは葛井の必死さに水を差すのを悪いとは思わなかった。


「あら、そうでしたの」


「だから今、私の元に彼はいないのだ」


 残念ながら、と真夏は心内で付け加える。


「真夏様は涼子様の居所を…ご存じではないですわね」


 悔しそうに葛井は呟く。真夏は頷こうとして、止めた。清夏との会話をふと思い出したからだ。


「…いや、私にひとつ心当たりがある。よければその文を私に託してもらえないだろうか。必ず渡す、とは約束できないのだが」


 その言に葛井の顔がぱっと明るくなった。今は疲れた顔をしているが、緩やかに円を描く眉に人目を引くつややかな唇を持つ彼女は元来美人ともいえる顔立ちなのだ。


「それで十分です。良かったですわ。私には全く涼子様に関してのつてがなかったものですから。…これで安心して任国に下れます」


 最後は寂しそうに微笑んだ。彼女の夫も上皇側に組みし、この度配流の身となったのだ。


 全ての役目を終えた葛井は安堵のため息をつくと緊張の糸が切れたのだろう、気丈だった彼女が一転、泣き出してしまった。暫くむせび泣きが続く。真夏は気が済むまで泣かせた方がいいと判断し、そのまま無言で見守った。そして気が済むと葛井はぽつぽつと話し出し始めた。


「薬子様は私に伝言を託された後、皆の前に立たれ、悪言を吐かれました。『上皇を思うように操ってやった』などと。それはもう聞くに堪えぬ言葉を並べられ、近くに控えていた臣下の方々も顔を顰められておりました。ですが私は近くでお二人のご様子を見ていたからわかるのです。そこらの本当の夫婦よりずっと細やかな愛情で結ばれていました。そのような事を仰ったのは、偏に薬子様の愛情ですわ。安殿様に咎が及ばないようにご自分が悪者になって見せたのです」


 真夏にはその様子が安易に目に浮かんだ。薬子ならやるに違いない。


「私も近くでお二人を見ていたので薬子殿の真意は葛井殿のおっしゃる通りだと思いますよ」


 賛同者を見つけ、葛井は疲れた顔に初めて笑みを浮かべた。


「薬子様のご最後は毒を仰いでの自害でございました。ある者が冶葛やかつだと申しておりましたが、私にはわかりません」


「毒…」


 冶葛といえば上手く使えば薬になるが、主に鳥獣を捕獲する時に使われる猛毒だ。


「はい、とても強い毒だったようで、あまり長い間苦しまれる事がなかったのが救いでしょうか。薬子様の手に蓋のない小さな緑の小瓶がしっかり握られていたので、それに入っていたと思われます。私、こっそり持ち帰ってきましたの。他の人の手に渡っても大変ですから」


 葛井は懐から懐紙に包まれた小瓶を広げて見せた。中身は奇麗に洗われ、すでに何も入っていない。


「緑の、小瓶…」


 この小瓶には見覚えがある。涼子が母に託し、清夏が運んだ小瓶には猛毒の冶葛が入っていたのだ。


(なんと…)


 毒見役の『薬子』が毒を仰いでは冗談にもならない。その名を付けたのは他ならぬ真夏と安殿なのだから。


 この事実を知っても誰一人として幸せにはならないだろう。


 涼子も清夏も中身を知らず、良かれと思ってやったことなのだ。幸い葛井もこの緑の小瓶が涼子から来たものと同一だとは気づいていない。真夏は軽くうめき声をあげながらも、葛井に小瓶のことは伏せるように固く口止めをした。


 全てを話し終えた葛井は立ち上がる。しかし軽くよろめき、今にも倒れそうなのを真夏はそっと近寄り支える。再度休養するようにいったが、葛井は礼を言うも固辞した。彼女は自分の立場が分かっているのだ。今際いまわのきわのげんを託されるほど葛井は薬子から信頼されていた女房だ、引き際がいいのも出来る女房の証拠だろう。


 餞別がわりの品を渡し、せめてもと善康に彼女の邸まで送らせた。善康も立場を分かっている。心内でどう思っているかは大体分かるが、それをおくびにも出さず笑顔で葛井に接する。それは出来る家令の証拠だろう。鄙びた任地まで付いて行く事を同然のように受け入れてくれた彼にも真夏は感謝をする。


 大方の整理は済み、真夏は一人で調度が取り払われてがらんとなった部屋を眺めた。


 外からは夕焼けが寂しくなった房間を彩るように床一面を赤く染める。真夏は柱の一つ一つを手のひらで慈しむように撫でていった。そうすると此処での思い出を柱が残らず教えてくれそうな気がした。


(そういえばこんな夕焼けの中、清夏に自分の思い出を語ったことがあったな)


 今思えば、子どもの頃の話とは言え、泣いた話をよく素直に話したものだ。確かあの時、清夏は清高を思って泣いていた。


(その素直さに私は惹かれたのだ)


 その涙で真夏の直衣が濡れた。奇麗に泣く人を初めて見たと思った。真夏は自分の指で頬に伝う涙を拭ってやったが、慰める以上に、その涙に触れてみたかったのかもしれない。触れることで自分の憂いが落とせるのではないかと。しかし、実際そうだった。あの日から迷いなく安殿に付いていくことができた。今は配流の身となり、後の世の人は自分を政争に敗れ転落した哀れな一貴族としか見ないかもしれない。しかし自分はそうでない事を知っている。これは大きなことだ。哀れどころか、この心の落ち着きには自分でも驚かされる。


 そう思うきっかけをくれた清夏。自分には無いものを多く持つ彼がその美しさを保つためならなんでもしてやりたいと本気で思った。今もその気持ちは変わらない。彼とは半年程の出会いであったが、人との交わりは年月の長さだけでは測れない事が身にしみでよく分かった。清夏はこれからも真夏の心の柔らかな部分にずっと住み続けることだろう。


 知らず知らずのうちに微笑みながら、真夏の指先は昔清夏に濡らされた直衣の、今は濡れてもいない同じ場所にそっと触れていた。


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