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第23話

 上皇の反乱が治まってから四日。詳細は分らないが、とりあえず今上側の圧勝だったらしい。


 今、都ではその噂で持ちきりだ。上皇は大和国の添上辺りで坂上田村麻呂に阻まれ、慌てて平城京に戻り落飾らくしょくしたという。


(そして母上は自害された)


 珠子はその話を聞いた時から密かに喪に服していた。今まで毎日母のために法華経を祈り続けてきた。それは法華経には女人救済の功徳があるからだ。母は宮中の政に深く関わっているので罪を犯さざるえない時もあろう。それが成仏の妨げにならぬよう祈り続けてきたが、これからは母の御霊が安らかなるよう祈り続けようと思う。


 ここでは薬子が珠子の母だと知るものは誰一人としていない。巷では母が上皇をたぶらかし悪道に導いたと面白おかしく話されている。しかし、自分でも驚くのだが、そのように言われる母親で長年会っていなくても、いざこの世ではもう会えないと思うと珠子は裸で強い北風にさらされた心地がする。


(母は別れた後も、心の支えとして私を守ってくれていたのね)


 ふと明るい光が欲しくなり、珠子は外を眺めた。庭では母がいないと言うのに陽は暖かく照り、木々は相変わらず輝いている。珠子にはそれが不思議で仕方がなかった。


 その中で、一人庭を掃く清夏がいた。


 悲田院に帰ってきてからというもの、彼は元気が無い。はじめは清高との別れが原因と思っていたのだが、どうやらそれだけでは無いらしい。ただ黙々と掃き続ける寂しげな清夏の背中に、珠子は立ち上がると傍へ寄って行った。


「私も手伝いましょう」


 そう告げると清夏は珠子を柔らかな笑顔で見返す。


(この笑顔で私は救われたのだわ)


 今度は清夏の心の闇から彼を救ってあげたいと珠子は強く思った。母が私を支えてくれた様に私が清夏を支えてあげたい。


 珠子が清夏の心内をどうやって引き出そうか考えあぐねていると、不意に清夏の動きが止まった。


「尼姉さま」


「はい?」


 清夏を見返した珠子は、知らない間に彼の背が高くなった事に気付く。今では前ほど見降ろさなくても良くなった。


「私は…、いえ、少し休みませんか?」


 そう言って清夏は珠子を長月の爽やかな風が渡る木蔭へと導いた。


 先程清夏は何かを言いかけてやめた。珠子は清夏が話をしたくなるまで待つことにした。


 二人とも無言で座り続ける。しばらくして、清夏は懐に下げている袋から静かに二つの独楽を取り出した。


「清高はどこかで強くなるために頑張っているんじゃないかなあ、と最近思うようになったのです」


「強くなるために?」


 珠子は優しく聞き返した。


「そうです。今の私にはそう思えて仕方がないのです。尼姉さま…、私は奈良でとても好きな人に出会いました」


 思わぬ急な告白に珠子は清夏の横顔を見る。清夏は目を合わさず、奇麗な黒髪を風任せに靡かせていた。


「その方は私をとても可愛がってくださいました。お優しくて、とても声が奇麗なのです。でも身分の高い方で、しかも他に守らなければならないものがあり、私の一方的な思いで終わってしまいました」


「そうだったの」


 清夏が持ち帰った品々を思い返し、珠子は納得する。見事な絹、顔が写りこむほど磨き上げられた美しい硯に細かい細工が施された小刀。どれを取っても皆一流の手のもので、相手の身分の高さを表すのに不足のないものばかりだ。


 そして、清高。彼が清夏をどう思っているか珠子は知っていた。きっと清夏は彼の思いを受け入れなかったのだろう。だから自分の思いが成就しなかった今なら清高の気持ちが清夏にも痛いほど分かるようになったのだ。


 清夏は手に持っていた箒の柄をきゅっと握りしめる。彼にとってまだ清高のことも失恋もそれは辛い現実で、懐かしく思い返す『思い出』とまでは昇華されていない。


 清夏の手を珠子は優しく取った。


「その気持ちを持てただけでも素敵よ。人を愛おしく思う気持ちは不思議よね。今までの自分が急に心もとなく感じられるのですもの」


「尼姉さまにもそのようなお方がいらっしゃるのですか?」


 清夏は驚いて珠子を見た。いつも言いよる男たちを遠ざけ、法華経ばかりを唱えている珠子と恋は結びつかなかったのだろう。


「いたわ。もう昔の事になってしまったけれど」


 清夏と違い、珠子には、一抹の心の疼きはあるものの、今では懐かしき思い出として語ることができる。


「父の決めた人だったけれど、私は一目見た時から好意を抱きました。でもその方には他に大切な方がいたの」


「その方にも他に大切な方がいらしたのですね」


 流石にそれが自分の母だとまでは言えなかった。だが、それを知らない清夏は同じ痛みを分かる者としてこちらを見ている。


「決してその方は私を粗略にはなさらなかったけれど、私だけを愛してはくださらなかった。若かった私はそれが許せなかったのね。…いえ、悲しかったのだわ。だから、逃げてきたの」


 皇太子妃となれば自分一人愛されることは端から無理なことだったのだが、それでもその中で一番愛されたかった。しかし初めて語る自分の過去に、清夏は少しながらも珠子が悲田院へ来た理由が分かったようだ。


「だから悲田院に来た時あんなに悲しそうだったのですね。生きる希望を失う程に」


 確かにあの時は生きる希望など一つもなかった。だが、清夏に、清高に助けられ、今がある。自分の居場所も見つけた。生かされていることが有り難い。


「今はとても満たされているわ。私はね、この思いを知るためにあの苦しみがあったのだと思うの」


 清夏は真摯な瞳を珠子に向けた。


「私も尼姉さまのように強くなりたい。強くなれば全ての苦い思い出もきっと甘露に変えることができるのでしょうね」


 甘露にはならないだろう。ただ、その経験は時に碇となって自分を戒め、時に踏み台となり上へ行くことを可能にはする。しかし、これは珠子の考えであり、一概に万民に当てはまるものではないかもしれない。珠子は肯定も否定もしなかった。


 清夏は瞳を伏せ、さらに続ける。


「私は、今思えば清高にもその大切な方にも甘えてばかりいました。せめて今度会うときは胸を張って会いたいのです。前と変わらない自分は見せたくない。自分の足で、ちゃんと立っている姿を見せたい。…偉そうなことばかり言って、まだ実際何をやったらいいか分からないのですが」


 最後は少し悲しそうに言った。だが、そう考えるようになっただけでも珠子には彼が変わったと思う。奈良の都での半年余り、成長したのは背丈だけではなかったようだ。


 清夏を救いたい、そう思っていたが、今の彼に必要なのは支える手ではなく前進するために軽く背中を押してやる手のようだ。


「私は清夏を信じています」


 清夏の眼を真っすぐ見て、珠子はただそれだけを言った。


「はい」


 清夏の返事も短い。だが、彼には十分だということが瞳の色で分かった。


(もうすぐ彼はここから巣立っていこうとしている…)


 清夏を頼もしく思う。その半面、珠子は得も言われぬ寂しさにも襲われた。


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