第22話
真夏は全神経を床下に集中させた。気配はゆっくりと辺りを窺うように近付き、真夏のいる下あたりで止まる。
「誰だ」
いきなりの真夏の問に、床下からは軽く息をのむ音が聞かれた。驚かせたのかもしれない。それが目的だったのだが。
「ここから逃げられないのであれば俺が手引してもいい」
短い間の後そう言われた。聞き覚えの全くない、横柄な若い男の声だった。
「今の上皇側では全く勝負にならない。あんたが行けば状況を変えられるのではないのか? 上皇の一の臣下なのだろう?」
この男はなかなか事態を把握しているらしい。だが、先ほど最も新しい状況を冬嗣から聞いたので、自分が今更行っても何も変わらないのは残念だが分かっている。断ることは簡単だったが、この床下の若者に興味が湧いた真夏はもう少し話を続けることにした。
「何故私を逃がそうとしてくれる? お前にもそれなりに危険が伴うぞ」
「礼だ、気にするな」
若い男はポツリとそう答えた。
見知らぬ声の主に感謝されるような何をしたのだろうか?
(やはりこの若者の声と一致する顔が思い当たらな…)
そこまで思い、真夏ははたと気づいた。
一人だけ心当たりがある。清夏から聞かされ実際に会ったことはないが、昔から知っているような気さえする男が。
「お前が清高か?」
真夏は床に向かって聞いてみた。下からの返事はない。だが、真夏は気にせず続けた。
「此処にお前が私に会いに来たということは、清夏が私の屋敷にいた事も知っていたはずだ。何故会いにこなかった? 清夏はずっとお前を探していたぞ」
「それが気に食わなかったのか?」
挑発するような声。彼は清高に間違いない。面白い、と真夏は感じた。普段、相手の心うちを見極め、冷静且穏やかな面をかぶり続けてきた真夏だったが、納屋の暗闇も手伝ってか彼には素直に心うちを晒してみるのもいいと思った。
「そうだ。清夏は見目が良い上に気立ても良いからな、友の事は忘れてこのまま私の屋敷に居続ければいいと思っていた。お前も私の屋敷にいつまでも清夏がいる事が気に食わなかったようだな」
「あんたの事は嫌いだった」
面と向かって、いや、正確には板を一枚挟んでだが、『嫌い』と言われたのは初めてだ。あの仲成でさえ真夏の前で表情には出しこそすれ、流石に言葉にはしなかった。
真夏は清々しいまでの素直さに思わず声を立てて笑った。
「私はそれ程お前を嫌いじゃなくなったよ」
「もう、俺のことはどうでもいい。早くここから抜けなければ手遅れになるぞ」
一見強気だが清高の言葉尻には戸惑いを感じた。『嫌いじゃない』と言われたのが意外だったらしい。清夏の友だから、きっと悪いやつではないのだ。
「お前の気持ちは有り難いが、もう遅いのだ。ただ、頼みがある」
「…頼み? なんだ?」
清高は思わぬ言葉に再びの戸惑いを隠そうと苦心しているようだ。真夏は居住まいを正し、床に片手を付いた。
「この政変が終われば私は都にはいられまい。奈良が戦場になることを考慮して清夏は先に悲田院に帰した」
「知っている。だから、その礼にここへ来たのだ」
「なら、話は早い。清夏に会って彼を安心させてやってくれ。私には他に支えなければならない方がいる。それを気付かせてくれたのが清夏なのだ。だから、彼には借りがある。本来なら私がその借りを清夏に返したいのだが、今後の状態ではままならない。清夏を常に一番に考えているお前にならあの子を任せられよう」
「俺はまだ…今は会えない」
清高は言いどもる。きっと彼には彼の考えがあり、清夏と会うのを我慢しているのだろう。そう、『我慢』という言葉が今の彼にはぴったり合っている。
「私はお前を心配して寝られず隈を作った清夏の顔を何度も見たし、泣き顔も見ている。清夏を大切に思うのなら、彼に会ってくれ。もし何かしら会えない理由があるのなら、せめてそれを話してやってくれ。あの子は敏いし、なによりいい子だ。どんな理由であれ、どんな立場であれ、お前を受け入れてくれるに違いない」
それは自分にも言い聞かせている、と真夏は思った。政変後官位を剥奪され、ただ人となった後でも今までと同じ笑顔を清夏には見せてほしいという願望がそうさせるのであろう。
「清夏に会うと約束してくれないか? それが頼みだ」
真夏の問の後、暫くの静寂が降りてきた。納屋の中がこんなにも静かなのが不思議にさえ思えてくる。
「…わかった。約束しよう」
聞きたい答えが清高の口から出るまで、真夏にはとても長い時間に感じられた。だが彼は分かってくれたのだ。
「ありがとう。では、見つからないうちに早く行った方がいい」
床下で人の動く気配がした。が、それはすぐに止まり、再び真夏の床下へ戻ってきた。
「どうした?」
「俺も少しだけだがお前が嫌いでなくなった。もし、何かあったら木津の國足を頼れ。悪いようにはしない。少なくとも食うには困らないようにはしてくれる」
それを言うためだけに戻ってきたらしい。言い方はどうであれ、やはり清高はいい奴のようだ。
「それは有り難い。その時がきたら頼むよ」
真夏は自然に浮かぶ笑みをかみ殺し、真面目ぶって答える。しかし成功したとはお世辞にも言えなかった。彼なりの気遣いに、つい笑みも交じってしまった。
「ああ、だが、順番から言えば俺の方が先輩だからな、扱き使ってやるぜ」
清高も面白おかしくそう言った。彼には初めの頃の堅い感じはもう無い。そして今度は本当に去って行った。
「清高の顔を見ておけばよかった」
再び一人になると真夏は少し残念そうに呟いた。清夏の描いた清高とどれ程似ているか見たかった。いや、本音をいえば、清夏の心を占めている清高本人がどんな人物なのか面と向かって会ってみたかった。だが、話せただけでも良しとしなくてはならない。偶然か必然か、真夏の願いを託せる相手に会えたのだから。
初めこの納屋に入れられた時の悲壮感はもう真夏の中のどこにもなかった。清夏の最後の願いは叶えてやれなかったが、清高に清夏の元へ行くと約束させた。これが真夏に出来る清夏への最後の餞となるだろう。
(家人達の身の振り方さえ決まれば、後はただ安殿様が心安らかに過ごせるよう心を砕くだけだ)
床が明るくなり、真夏はふと上を見上げる。
雲間から月が現れたのか、屋根の隙間から月光の筋が真夏の体に優しく降り注ぐ。それは天女の慈悲で出来た領巾を思わせ、真夏を優しく包み込んだ。