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第21話

 昔から小一条第は真夏にとって何故か近づきにくい場所だった。今までも数えるほどしか行ったことが無い。ましてやこのもの暗い物置のような房間に閉じ込められるなど初めてのことだ。夜も更け、谷の底のような暗く重い闇が辺りを包む。


(もう終わりだな)


 事は動きだした。それも悪い方に。


 昨日藤原仲成が右兵衛督府に禁固され、本日射殺されたという。仲成は今上側の動向を把握するために山城の都へ行ったのだろう。だが、相手は満を持してその時を待っていた。


(一言あれば止めたのに)


 遷都の詔が出されてから真夏は出来うる限り今上側に有利な手を与えないよう気を配ってきた。


「真夏がこのように尽力してくれるとやはり心強いな。遷都の詔を出す前はなかなか顔をださないから心配していたが、薬子の言う通り、信じるべき者はやはり友だ。頼むぞ」


 真夏の気苦労を知らない安殿は無邪気に真夏に声をかけてくる。


『今からでも遷都を撤回してください』


 そう何度口に出そうと思ったことか。だが、今更取り消せる程軽々しいものではない。今上側からは後戻りできないように造宮使が送られた。しかも弟をはじめ皆今上の側近ばかりだ。真夏の不安と緊張は否応無しに強まらざるを得なかった。


 一方仲成は水を得た魚の様に嬉々として動き回っていた、と聞いた。彼が真夏を避けており、殆ど会わなかったからだ。もし話す機会があったとしても真夏の言に耳を貸す仲成ではないから、この結果は初めからなるべくしてなったのかもしれない。一日ではロクな詮議も出来ないので、仲成は言い分も聞かれることなく、ほぼ無条件で殺されたに等しい。本当に彼は今回の事件の口火を切る『さかな』にされてしまった。


(だが一番の計算外は私がここにいることだ)


 今朝まで平城の自宅にいた。屋敷に現れた十数名の武具を備えた男達に真夏は有無を言わさず都へ連れられた。建前としては今上の帰還命令に従った事になっているが、事実は拉致に近い。目の前で主人が屈強な男達に囲まれて出て行く様を見て、きっと家人たちも不安がっている事だろう。


 真夏の他に今上から『召された』形をとられた者にもう一人、文室綿麻呂がいる。彼は軍事の才があり、坂上田村麻呂と共に蝦夷へ行った経歴を持つ。上皇側に軍事力のある彼を置いておきたくなかったのだろう。彼は今、左衛士府に禁固されているらしい。


(冬嗣は左衛士督だったな)


 きっと綿麻呂に懐柔策をあれこれ施して今上側に引き込もうとしているに違いない。一方の真夏が左衛士府等に連れられなかったのは偏に真夏の将来に傷をつけないための父内麻呂の配慮だろう。


 真夏の思考を読んだように、真夏のいる納屋へ荒々しい足音を響かせ内麻呂が入ってきた。此処の房間へ入れられてからそれ程時は経っていないが、もう何度も父の使いがやってきては真夏も今上側に付くよう説得に来た。しかし、真夏はそれの全てを突っぱねたので、本人が痺れを切らしご登場したようだ。


 怒りを絵に描いたような父の後ろには対照的に冬嗣が静かについてきた。


「真夏、今からでも遅く無い。上皇をお止めしようとしたが、仲成、薬子の両名の所為で出来なかったと今上に申せ」


 内麻呂は真夏を無理やり立たせようと二の腕をつかんだ。年のわりに力強い。真夏は立ち上がったものの、一緒に今上の宮へ行くつもりはさらさら無かった。


「お忙しいのでしょう? 私の事は気にされず早く行った方がいいですよ」


 途端に内麻呂は真夏に一つ拳骨で殴りつけた。軽くよろめき、口の中には血の味が広がる。


「悠長な事をいっている場合でない事はわかっているはずだ。…まあ、いい。もう暫く此処で頭を冷やせ。冬嗣、真夏がどこにも行かないようにしっかり掛け金をかけておけ」


 やはり朝堂の長として多忙なのだろう。来た時と同じように内麻呂は荒々しい足音と共に急いで去っていった。


 室内には久々に兄弟二人きりとなる。


「今、兄上は只の伊豆国権守ですよ」


 真夏は目を見開いた。それは昨日出されたものらしいが、混乱のなか真夏の耳には届いていなかった。伊豆国といえば下国に当たる。しかも権守は国司の補佐役で、正四位下の真夏が任じられる役職ではない。


「はは、わかりやすい左遷だな」


 ここまで来ると笑うほか無い。


「お前も忙しいのだろ、早く行け」


 真夏は手を振り冬嗣を追い払ったが、彼はゆったりと壁に背をもたれかけさせた。暫く出て行くつもりは無いらしい。


「ご心配は要りません。実際、兄上がこちらに居る限りもうあちら側に怖いものはないのですから。そうそう、兄上を手荒にこちらへ連れてきたのは謝ります」


 言葉とは裏腹に全く悪気がみられない。同じ口調で冬嗣は話し続ける。


「文室綿麻呂殿も喜んでこちらの味方になり、今頃は田村麻呂将軍と共に上皇追討へ向かっていますよ」


「上皇追討…」


 尋常でない言葉に真夏は顔色を失った。


「ええ、知らせによれば上皇が薬子殿を連れて東国へ向かわれたとか」


 東国とは多分伊勢だろう。安殿の妃伊勢継子の父の伊勢氏は名前通り伊勢に地盤を持つ。それに安殿は皇太子時代に病気平癒のため伊勢神宮へ参拝に言った事があり、全く知らない土地では無い。または本好きで博識の安殿の脳裏には壬申の乱の故事が過ぎったのかもしれない。


 真夏は瞳をくっと閉じた。綿麻呂がいない今、上皇の周りには急ごしらえの兵しかそろえられないだろう。


(残念ながら、安殿様は非常時に弱い)


 あれほど反発していた父帝が亡くなった時、号泣して惑い、田村麻呂殿に抱えられなければ立てないほどであった。一度言い出したら聞かない、思い込みの強い性格が悪い方に出てしまうのだ。そして安殿の周りにはもう薬子しかいない。彼女も安殿を落ち着かせようとするだろうが、惚れた女を守りたい男の性が薬子の言に従う事を拒むだろう。最終的に彼女は安殿に従う他なくなる。


(自分が今安殿様の近くにいられたのなら、全力で、嫌われても、命を賭してでも安殿様の東国行きを止めるのに)


 今や安殿に本心から進言できるのは幼馴染の自分しかいない。弟の言うとおり、真夏がいない上皇側は今上側の筋書き通りの末路を辿るしかないようだ。


「田村麻呂殿と綿麻呂殿が向かわれたのであれば、結果は…火を見るより明らかだな」


 安殿が伊勢にたどり着く前に阻止されてしまうだろう。


「ええ。父上の言う通り、今上側に付くのは今ならまだ間に合いますよ。父上を悲しませるおつもりですか?」


 確かに、今ならまだ今まで築き上げてきた経歴を守る事ができる。今上への言い方によっては恩賞ももらえるかもしれない。


 真夏は片方の口端を上げた。


「せめてもの親孝行のため、私はここにいることにしよう」


 今更安殿の元へ行ってももう遅い。ただ真夏にできる事は安殿を裏切らない事だけだ。


「そうですか」


 相変わらずの抑揚のない声だ、と真夏は思った。冬嗣は壁から背を離すと出口へ向かう。が、途中で、つ、と立ち止まった。


「私は出世しますよ。兄上を越えてね」


 心うちを曝せばまだまだ政の中心で働きたいという望みは大いにあり、痛い所を突く言葉のはずだった。だが、心は不思議な程波立たなかった。


「好きにしろよ」


 真夏は今度こそ本当に弟を追い払う様に手を振る。


 冬嗣は思いかけず自傷気味に微笑んだ。


「私は兄上をいつまで羨ましく思えばいいのでしょうね。上皇も兄上も悪いようにはしないつもりですが、期待しないで待っていてください」


 弟の意外な告白に驚いている間に静かに戸が閉められた。


(買いかぶってくれるじゃないか)


 父は掛け金を掛けろといったが、冬嗣はそうしなかったようだ。


 足音が去り、再び静寂が戻る。


 真夏はごろりと横になった。


 全てが終った後、今上の許しを得る迄もう都にはいられないだろう。それもいつ許しが出るかわからない。もしかしたら一生出ないかもしれない。


「伊豆か…」


 そう呟くと真夏の口元に痛みが走った。先程父に殴られた所だ。そっと触れると熱を帯び腫れている。


「って…本気で殴ったな」


 不思議な事に痛みだけでなく親の愛情も同時に感じた気がした。だが、今回ばかりは父の期待には添えられない。


(父としては今回ほど息子に言う事を聞いて欲しいと思うことはないだろうな)


 自分の心を裏切ってまで官位を登りつめたいとは全く思わない。この政争が終わった後、きっと安殿は自分を必要としてくれるだろう。その時恥じる事無く彼の目を見て向い合うためにも今上側に寝返る事は真夏には出来ない。


(そうさせたのは、私の心の嵐を治め、真の私を見つけ出し、尚且つ一つの暖かい灯火をつけていった少年)


 今は同じ空の下にいる。是非とも地方に下る前に会いたいものだ。彼ならどんな身分の自分でも受け入れてくれる気がする。


 初めて真夏を見た時の心細い顔。あの困ったような、恐れるような、それでいてすがる様な瞳を見た時から真夏の心の中に住み着いた彼だ。


 彼の笑顔を思い出したいのに、何故か泣き顔が浮かんでくる。思えば私は彼をよく泣かせてしまっていた様だ。今の事態を危惧し、彼の心音にもしっかり答えてやれなかった…


「清夏」


 真夏はそう呟き、再び口内に鉄の味を味わうことになった。


 寞寞と広がる静寂の中、真夏はこれからの行き先を思うと押しつぶされそうになる。覚悟を決めていたとはいえ、やはり不安がないかといえば嘘になる。


 真夏の思考を遮るように、ぴしりと小さな家鳴りが聞こえた。


(…何だ?)


 不意に床下から気配を感じ、真夏は神経を研ぎ澄ませた。


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