第20話
悲田院に帰った清夏は、再び尼姉さまと共に病人を看病する生活に戻った。やることは相変わらず前と同じだ。病人に薬を施し、汚れた体を拭ってやる。庭の畑で自分達の食べる野菜を育てる。水汲み当番は以前と同じく面倒くさい。
(でも隣には清高がいない)
悲田院で毎日変わらぬ暮らしをしていると、ふいにいつもの明るい調子で『よ、清夏』と清高の声が聞こえる気がする。しかしそれは常に幻で、さらに清夏の心を苛ませる。
(とうとう清高に会えないまま、再び悲田院に戻ってきてしまった)
尼姉さまは清夏の帰りを大喜びで迎えてくださったが、やはり清高に話が及ぶと美しい顔を曇らせた。清高が置いて行った独楽を見せると幾分かはお顔が和らいだものの、やはり完全に心配の影は拭えなかった。
更に彼女は奈良にいた半年を越える年月をお聞きになったが、嘘を言って出て行った手前、大好きな尼姉さまに嘘をつき続けなければならず、その為真夏との出会いも話すことが叶わないという二重の苦しみを背負う事になった。都まで送ってくれた善康には悲田院に着く手前で事情を話し別れたが、清夏の持ち帰った不相応な品々にさすがの尼姉さまも驚いた顔を見せた。
(だが、何も無理に問うことはなさらない)
心苦しいが、清夏はその尼姉さまの優しさに甘えていた。
「今日は九月の十日だから…真夏様と離れてまだ五日しか経ってないのか。でも、とても長い間会っていない気がする」
急に体の中に空洞間を感じ、清夏は両手で自分の体を抱きしめた。急いで暖めないと大切な思い出までも凍ってしまいそうだ。
「おや、清夏じゃないか。久しぶりだなあ!」
威勢よく声をかけたのは左京職の下官で、九条に住み、悲田院に近いということでよく立ち寄っては様子を見てくれる難波為行だった。
「ちょっと瘠せたか? 細いからあまり飯をくわんのだろう。男は食ってなんぼだぞ」
そういっては容赦なしに清夏の頭をかきまわす。
「痛いですってば!」
清夏の抗議の声など聞きはしない。為行にしてみれば撫ぜているつもりなのだ。
最後に地面に倒されることでようやく解放され、くらくらする頭を清夏はふった。その様子を豪快に笑う彼はもう役目は終った時間なのにしっかりと官服を着て物々しい。
「これからまだお仕事ですか?」
「ああ、藤原仲成が捕らえられたからな」
清夏は驚きのあまり立ち上がった。
「仲成様って、薬子様の兄上様ですよね。どうして?」
「良く知っているな。どうして…って詳しくは知らないが、上皇をたぶらかした淫婦薬子の兄だからだろ。今回の平城遷都も彼らの差し金らしい。薬子はまさに傾国の美女さながらだな。そんな美女なら俺も一度誑かされてみたいぞ」
為行は楽しげに瞳を揺らし、自慢の鬚を撫でる。
「とうとう上皇、今上の均衡が崩れたな。まあ、上皇が平城に離れて暮らしていた今までが異常事態だったのだ。その上、今上のご病気が甚だ悪いとはいえ、在位中に勝手に遷都の詔を出されては兄思いの今上としても黙ってはおられまい。今上はすでに巨勢様や御長様らを古関の守りにお出しになられる支度を整えられたようだから、これは完全に戦になるぞ。こうしてはいられない。私もいそがねば。またな」
あいさつ代わりに清夏の華奢な肩を一つ叩いてから走り去った。
痛さを感じることなく、難波為行の背中を清夏は呆然と見続けた。
(薬子様はとてもお綺麗でお優しく素敵な方だった。皆勘違いしている)
清夏ははたと気がついた。
(真夏様が仰っていた『事情が変わった』ってこの事だったんだ。真夏様は大丈夫なのだろうか!)
戦になるらしい。真夏は安殿の側近中の側近だ。上皇側が勝てばいいが、もし負けるようなことがあれば真夏にも累が及ぶのは避けられない。それに清高も多分奈良の都にいるはずだ。戦の場が平城京にでもなれば、清高も巻き込まれるかもしれない。
彼等に何かあったら清夏はどうしたらいいのだろう。
さあっと全身の血の気が引いていく。だが、今は離れ離れで真夏も清高もどうしているかさえ分らない。自分の意思に反して腕が勝手に震える。
「…」
清夏はすとん、とその場に座り込んだ。
(例え近くにいたとしても、きっと何もできない。多分真夏様もそう思って私をここへ帰したのだろうから。清高の時と全然変わっていない。いつも私は守られてばかりで…)
悔し涙で景色が滲む。自分の大切な人は皆清夏の前からいなくなってしまう。無力な自分はそれを止められない。
「清夏」
気づけば尼姉さまが隣に座り、そっと清夏の肩に触れた。
「惑っている時ほど冷静になるように努めなければいけないわ。私の房間で共に祈りましょう。気持ちも落ち着くし、それに、強い想いは必ず通じるものよ」
思わぬ力強い珠子の声だった。
傍目に分かるほど清夏はうろたえていたらしい。尼姉さまは何もお聞きにならないが時々清夏の心の奥の奥まで知っているのではないかと思う時がある。今がそうだ。
(確かに…強い気持ちなら誰にも負けない)
逆を言えば今の清夏にはそれだけしかないのだ。
清夏は拳を握り締め、流れる涙をぬぐう。視界がはっきりすると清夏は驚きに目を見開いた。
「尼姉さまこそ、大丈夫ですか?」
今まで自分のことで精いっぱいだったから気付かなかったが、尼姉さまのお顔が真っ青で今にも倒れそうだったのだ。
「私は大丈夫よ、行きましょうか」
そうほほ笑んだが、その笑顔も清夏には痛々しく見えた。
清夏は尼姉さまを支えるように傍らへより、彼女の指先まで冷たい手を取って房間へと導いていった。