第2話
陽が落ちれば清夏の仕事も終わりとなる。
西の空に引っかかる薄く冴えた三日月の淡い光の元、清夏は簀子に腰掛けた。
回すと首がぽきぽきと軽い音を立てる。悲田院はなかなか雑用の多い所で、漸く得られる自由な時間はいつも日没から寝るまでの僅かな間だ。
「今日、鴨川の方が騒がしかったけど、何だったんだろうな。用事を言いつけられなきゃ見にいけたのに」
隣に座る清高は本当に悔しそうに呟いた。
悲田院に引き取られた子供達には皆『清』の字が付けられる事になっている。清夏も四歳までは両親から貰った『トウヤ』という名があったが、ここではそう呼ばれることは無い。朧げだが記憶に残る両親との思い出を取り上げられた様で、勝手に付けられた『清夏』という名前は好きでは無かった。
一方の清高は、物心付いたときから悲田院にいたので両親の記憶は全く無いという。彼は清夏よりも一つか二つ年上だが、清夏と違い背も高く、実際の年より上に見られる。鋭ささえ持つ攣り上がり気味の瞳も彼を年上に見せる要因かもしれない。
清高とはいつもこうして二人で話すことが多い。清夏にとって、悲田院での初めての友であり、親友でもあり、いろいろ面倒をみてくれる信頼できる兄のような存在だ。
「どうした、清夏? どこか痛いか?」
話に乗ってこない清夏の顔を清高は心配げに覗き込んだ。
「え、ううん。どこも痛くない」
清夏は迷ったが、今日の出来事を普段から何でも話している清高に話すことにした。稲取と名乗った男に一人でやれとは言われていないので、約束を違えた事にはならないだろう。
話を聞き終わった清高は途端に目を輝かせた。
「明日、ここを抜け出して四条まで行こうぜ」
「清高が付いてきてくれるのなら心強いよ」
左京四条辺りはどう考えても貴族の邸宅が立ち並ぶ地域であり、実は一人で行くには気後れしていたのだ。一方の清高は嬉しそうににっこり笑った。笑うと八重歯がのぞき、意外な愛嬌が溢れる。
「で、渡されたものって何?」
「忙しくてまだ見てなかった。ちょっと待って」
袋の中から清夏の手のひらに手紙と小さな小瓶が転がり出た。文字の読めない二人の興味は自ずと小瓶の方へ向けられる。手触りの良い、つやつやした光沢を持つ緑色の小瓶は、月明かりに鈍く輝いた。
「綺麗だな」
「うん」
「何が入っているのだろうな?」
「さあ?」
軽くふってみると小さく固いものが何個か入っているようだ。
清高はにやっと目を細めた。
「開けてみようか」
厳重に封がされており、一度開けると元に戻せそうにない。清夏は首を横に振った。
「駄目だよ。文の方に何か書いてあるんじゃないかなあ。尼姉さまは字が読めるから、読んで貰おうか」
今度は清高が首を横に振った。
「駄目だ。今日の経緯を聞いたら尼姉さまは四条行きを止めるに決まっている。血だらけの男から貰った物なんて物騒だもんな。清夏だって尼姉さまに要らない心配をさせたくないだろ?」
それを言われると清夏は沈黙せざるをえない。すぐさま首を軽くかしげ、悲しそうな表情をする尼姉さまの顔が浮かんだ。
清夏が悲田院に連れてこられて程なく尼姉さまもやってきた。彼女は怪我人として連れてこられたが、言葉も発せず、食事も拒む有様で、怪我以上に生きる気力が全く見られなかった事の方を皆心配した。彼女を連れてきたのは漁師の老夫婦で、入水に失敗したのではないかと言っていた。
悲田院の乳母らは彼女のあまりの頑なな態度に匙をなげたが、清夏は姉を求める熱意で幼いながらも昼夜を問わず看病した。友になった清高も手伝ってくれた。その甲斐あってか彼女は心を開くようになり、食事も口にするようになった。
頬の膨らみと笑顔を取り戻した尼姉さまがとても美しいことに程なく皆気づき始めた。彼女は全く名を明かそうとしないので、その気高さと美しさから「珠子」と名付けられた。
珠子も元気になると病人の看護を買って出るようになり、その献身的な様に皆釈迦如来を見るような眼差しで見つめ、誰もが彼女の手に委ねられる事を望んだ。
それは病人だけでなく、ある意味『恋』という病に侵された男たちの目も引いた。清夏と清高は珠子にまとわり付く悪い虫を追い払う事も仕事の一つとしている一方、まだ現在二十四、五歳で、花の咲きこぼれる様な美しさの珠子では、男たちが騒ぐのも仕方がないとも思っている。だが残念ながら彼女の興味は偏に法華経で、そのため出家はしていないが清夏など孤児達には『尼姉さま』と自然に呼ばれるようになった。
「調子のいい事言って、清高はただ四条へ行くのを止められたくないだけだろ」
清高はあまり悲田院に居る事は好きではないようで、いつかどこかの貴族に仕え、あわよくば官位を手にしたいと考えている。今回もなかなかない好機の一つと捉えているのだろう。
「心外だな、俺はただ尼姉さまのだな…」
演技がけて反論する清高を清夏のくしゃみが遮った。
「風邪ひくなよ。今日は特に寒いから一緒に寝てやろーか?」
清高の提案に清夏はしかめっ面を見せた。
「少しだけ年上だからって、子供扱いしないでよ」
「なんだ、去年の冬は清夏のおかげで暖かかったのに」
「人を火桶扱いしないでくれる?」
そういったものの、実際は清高の力強い腕が胸を苦しくさせるのだ。もちろん本当に締められるわけではなく、むしろ優しく包んでくれる。それが返って清夏を途方にくれさせる。この気持ちは正確に言葉に出来るものでもなく、清夏は心の中で持て余していた。
(清高にはなんでも話せると思ってたけど、そうでもなくなっちゃったみたい)
清夏は少し寂しい気がした。