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第19話

「とうとう動き出しましたね」


 藤原冬嗣は父内麻呂の屋敷である小一条第を訪れていた。


 庭には豊かに湧き水が溢れ、秋の陽に活き活きと跳ね返っている。緋色に様を変えた葉が落ち、流れに身を任せる様は非常に赴き深い。だが、折角このような庭があるのに父はあまり建築には興味が無いらしい。冬嗣にとって小一条第は自分ならもっと庭の引き立つ屋敷となる様工夫を凝らすのに、と毎回のように残念に思わずにはいられない場所でもあった。


「安殿様は平城遷都をお命じになられてしまったか」


 九月六日、遷都は公に発せられた。完全なる二所朝廷だ。


 内麻呂は気だるげに片手で眉間を揉む仕草を見せた。先々帝の山部から仕え、安殿、今上の神野の成長と政を見守ってきた彼には双方ともよく知っているだけに感じる所も多いのだろう。普通の兄弟喧嘩なら殴りあいでもすれば済むのだろうが、ただでさえ逼迫気味の国家財政と民衆を巻き込む『遷都』という形での大喧嘩を想像すると頭が痛くなるのも分る。


「お前は楽しそうだな」


 父に指摘され、冬嗣は自分が心浮きだっていることを初めて知った。


 この数日で政局はがらりと変わることだろう。これから表向き上皇に恭順した形で造宮使となり平城へ赴くが、それも上皇側の状況把握以外の何者でもない。政局の中心で自分が動くのにどうして心が躍らない事があろうか。だが、心内を顔に出さないように教育された冬嗣は条件反射ですっと表情を引き締めた。


「真夏はどうするのであろうな」


 父には蝦夷征伐で名を馳せた坂上田村麻呂将軍の妹登子殿を妻とし沢山の子を儲けているが、身分の低い母、百済永継腹の真夏と冬嗣に一目置き、何かしら引き立ててくれる。だが、真夏の方が冬嗣より更に気にかかるらしい。彼が不安定な情勢の上皇側に身を置いていることもある。が、それ以上に内麻呂にとってはじめての息子だった事が影響しているのであれば、次男の冬嗣には一生兄を越せない事になる。


「父上は兄上に詳細を事前にお知らせになったのでしょう?」


 それでも上皇が遷都命令を出したのは真夏が止め切れなかったのか賛同したのか、それは冬嗣にも分らない。


 よく冬嗣は真夏と性格や行動が似ていると言われて来た。だが、本人に言わせれば全く似ていないのだ。


(兄は何事も初めから素早くコツを掴み、難なくやってのける。自分は影で努力してやっと兄と同じようにできるようになるのだ)


 いわば天才肌の兄と努力家の自分。一歳しか違わない兄弟とはいえ真夏は冬嗣にとって大きな存在であり壁であった。母が安殿付きの乳母だったため安殿親王と兄と自分は多くの時間を共に遊んだが、安殿と兄は同じ歳で、年下の自分はいつも二人の後を付いていかなければならないのが寂しかった。思えば安殿と真夏の絆には冬嗣はいつも入れなかった。


 上皇の年の離れた同母弟の神野皇子が誕生し、漸く冬嗣にも兄ぶれる相手が見つかって自分の居場所を見つけた気がした。だが、神野皇子とは年が離れているせいか兄と安殿のような信頼しあい何も言わなくても分かり合える不思議で羨ましい関係までは持てなかった。それどころか、今回の偽の『天皇不豫』を思いついたのは他ならぬ今上神野だ。


 神野は位を退いた上皇、とはいえ天皇と同等の力をもつ兄安殿の政策への口出しを表向き従順に聞いていたが、裏では常々疎ましく思ってきた。そのため、兄を排除する恰好の時を笑顔の裏で虎視眈々と狙っていたのだ。 


 今上神野は野心家であり、同時に思いつきを冬嗣に打ち明け、さも冬嗣が考え出したかのようにし、さらに念密な計画となるよう練り上げさせる策士なのだ。神野は手を汚すことも評判も落とすこともない。彼は表向き文化を好む派手な面を皆に見せているが、心内に隠し微塵も見せぬよう用心している黒くしたたかな面が彼本来の持ち味なのだ。それを知らぬ者は兄思いの優しい天皇と思っているだろう。だが、幼い頃から神野を見てきた冬嗣は神野の本性を知っている。逆に神野も冬嗣には本性を隠さない。その点では信頼されているようだ。


 腹の探り合いで気は抜けないが緊張感のある今上との関係も冬嗣は嫌いではない。今上が自分を利用するのであればこちらも気兼ねなく神野を利用できると言うものだ。お互いそれは暗黙の了解が出来上がっており、今上とは言うなら親友ならぬ戦友だ。


(しかし、まだ心のどこかで兄と上皇の様な関係を探し求めている自分がいる)


 だが、少なくとも神野にだけはそれを求めてはいけないのだ。


「…真夏の事だから上手くやるとは思うが」


 父のまだ続いていた話尻を耳にして冬嗣はそっと口端に笑みを浮かべた。


 兄は三代の帝に仕え『老獪ろうかい』とも言われる父も上手く騙しているらしい。それくらいでなければいくら安殿に気に入られているとはいえ敵の多い上皇側でいつまでも寵臣でいられる訳がない。安殿を取り巻く藤原式家の仲成、薬子。真夏の仕える安殿さえも彼の母は式家藤原良継の娘乙牟漏で、あの中では北家の真夏の方がいわば余所者なのだ。


「どうでしょう、兄上はああみえて情に厚い方ですよ。そこが私は兄上にもどかしさを感じる反面、好きな所かもしれませんね」


 内麻呂は少し驚いたように冬嗣を見た。皺の深い、お世辞にも愛想がいいとはいえない顔に変化をもたらせた事に冬嗣は内心満足感を覚えた。


(ある意味私と真夏兄の兄弟喧嘩ともいえなくないか? いや、そう思っているのは私だけだろうな。政変にかこつけて兄を超えられるか、自分を試したいのだ)


 今回の政変の行く末は何度も寝る間を惜しみ試行錯誤を繰り返してきた。このまま抜かりなく事が進むのであれば今の上皇側に勝ち目はない。仕掛ける今上側には駒が全て揃っている。一方、兄がいくら有能であろうと上皇側の臣下の足並みが揃えられなければ囲碁の碁石が足りないのと同様、遊戯さえ始められない。


(上皇側が負けたその時、兄は身の保身をとり今上側に寝返るか、安殿様を取るか)


 政局の行方と共に楽しみな所だ。


 冬嗣はまた父に指摘される前に顔を引き締めなくてはならなかった。


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