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第18話

 真夏は清夏を邸宅へ届けた後、早めに切り上げて帰ってくる、と言い置いて再び出かけていった。


 明日の急な出立と別れを告げると家人達の心暖かい餞別を受け、清夏は仲間として受け入れられていた事を嬉しく思った。特に幼い頃亡くした両親に面影を重ねていた善康、緑子夫婦と離れるのは寂しかった。彼らも同様に思ってくれているらしく、緑子などは清夏をぎゅっと抱きしめてしばらく放さなかった。豊満な体にぎゅっと顔を押し付けられ苦しかったが、その苦しささえもう味わえないと思うと悲しくなる。


 皆に挨拶を済ませた後、明日の準備のため房間で一人になった清夏は急に不安に襲われた。


「僕、真夏様になんて事を言っちゃったんだろう。嫌がっていなかったようには見えたけど…。でも、真夏様は皆に優しいから…嫌われたりしないかなあ」 


 思い出すだけで赤面する。真夏の優しさに甘えすぎた。だが、あの時は無我夢中、というか、ただ真夏と離れたくない一身だったのだ。


(本当はずっと傍にいたいのだけれど、我侭を言える立場じゃないもんね)


 それでも真夏は快く請合ってくれた。清夏は一度はしまった真夏に貰った水干を再び身にまとい始める。新しく手に懐くような絹が清夏を引き立て、せめて最後だけでも真夏の眼に綺麗な姿の清夏を焼き付け、記憶に留めてもらいたかった。



「真夏様がお呼びだよ」


 長くて短い時間をやり過ごしていると、善康が告げに来た。真夏が帰ってきたらしい。急に心の臓が早く動き出す。清夏は思わず胸に手を当てた。


「儂は明日の支度をするから、真夏様のことは任せた。最後だからよくよくお礼を言っておくのだよ」


 固い表情でぎこちなく微笑み、清夏は真夏の房間へ向かった。だが、母屋には真夏は居らず、明かりの漏れる塗込ぬりごめをそっと覗いた。


「入っておいで。…まだめかし込んでいたのか」


 水干姿の清夏をみて真夏は相変わらずの深みのある声でゆったりと笑った。


 清夏は入口に座り、居住まいを正す。


「長い間お世話になり、ありがとうございました」


 深々と頭を下げる清夏に真夏は中へ入るように進めた。


 此処は真夏の私的の空間でいわば彼の聖域だ。ここに入れるということは清夏を真夏がより近い『客』としてもてなしてくれるつもりらしい。胸の高鳴りと共に初めて入るそこは多くの書物と文机、楽器等が整然と並べられており、真夏のきっちりした性格が伺われた。


「立ってないで此処に座りなさい。これに約束の烏翠石の硯が入っている。あと筆と、少しだが顔料を入れておいた。絵を描く時に役立つといいのだが。それに清夏へ上皇様から小刀、薬子殿から蜜が届いたよ」


 真夏は近くにあった塗りの箱と壷を清夏に差し出した。蜜は高価で滅多に食べられないし、小刀も持ち手に青い石がはめ込まれ、見事な細工も施してある。どちらも清夏が普段持てる様な代物ではなく、このような事が無ければ目にすることもなかった逸品だ。だが、餞別と思うと清夏は胸に熱い鉄を押し付けられた様に痛くなる。お礼を言わなければと思ったが、何も言葉が見つからず、結局無言でそれらを受け取った。


「さて、これからどうしようかな?」


 少し苦笑気味に真夏は聞いた。清夏が共にいたいと願い出たのだから何か答えなくてはならないが、具体的に何をしたいか考えてこなかった。ただ一緒にいられればいい、と言っても真夏が困惑するだろう。


(ええっと、どうしよう)


 瞳を彷徨わせると笛が目に入った。


「よかったら笛を吹いてくださいませんか」


「いいよ。今日は清夏の為に吹こう」


 真夏の楽の才は大嘗会を盛り立て、上皇にも頻繁に所望される程の腕前だ。偶に屋敷で真夏が吹く笛の音に清夏はうっとりと耳を傾けていたものだが、今日は清夏の為だけに奏でてくれるのだ。


 真夏が選んだ一曲は、話に聞く海を越えた大陸の荒涼とした大地を思わせる、美しいが悲しく澄んだ旋律だった。長月の冴えた夜に一段と響き渡る。


(今の僕の心を表しているみたい)


 以前、真夏は清夏の絵が心を描き現すと言ったが、真夏は笛で相手の気持ちを現してしまうらしい。しまった、と思った時はもう遅く、清夏の瞳から涙が零れた。


(今まで此処まで心を惹かれる人に出会った事はなかった。だから分らなかった)


 自分が真夏の事をどのようにどれほど思っていたのか。ただの憧れなどでは済まない。


 清夏の涙に気づいた真夏は笛を止めると清夏の傍に寄り、長い指で涙を拭った。


「すこし寂しい曲だったな、すまない」


 優しい言葉と彼の指先は今の清夏にとって薬というより毒に近く、清夏の体を麻痺させてしまったようだ。


「私…このままここに居たいです」


 今の清夏に出来る精一杯の遠回りの告白。


 初めて会った時から大好きだった真夏の低く豊かな声で「いいよ」と言ってほしかった。


 清夏は最後の希望を込め真夏を見つめた。一方の真夏は珍しく戸惑ったようにみえた。彼は少しの間瞳を閉じたかと思うと、すぐさまいつもの笑みに変える。


「そう思ってくれるだけで嬉しいよ」


 やんわりとした拒否。それは清夏の耳から入り、体の中で涙に変わった。


「すまない」


 静かに泣く清夏に真夏は謝った。だが、真夏には今まで一つも謝られるような悪いことをされたことはない。すべてがいい思い出ばかりだ。口を開ければ嗚咽が漏れそうだったので、清夏はただ首をふった。


「もう、泣くな」


 真夏は涙を止められない清夏の傍に寄り慰めるように肩を抱いた。


 思わぬ出来事に清夏は息をのむ。


(きっと、これが真夏様に受けた最初で最後の『悪いこと』だ。そのままほっといてくれればよかったのに。優しくされるのがこんなに辛いなんて知らなかった。…苦しいけど、それ以上にやっぱり嬉しい)


 真夏は清夏にしばらく懐を提供してくれるようだ。そのまま真夏の胸元に顔をよせ、清夏は体に、記憶に、真夏の温かさを覚えこませようとした。




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