第17話
何としても安殿と会い、考えを変えてもらわねばならない。真夏は逸る心を抑えきれず先ほど来た道を戻る。だが、房間には薬子がただ一人でいた。
「あら、真夏様、血相変えてどうなさったの」
「安殿様に会いたい」
真夏は薬子の脇を通り過ぎようとしたが、彼女の広げられた腕に遮られた。
「今、安殿様はお休みですわ」
きっ、と見上げる薬子の顔に一歩もこれ以上は通さないという強い意思が見て取れた。
暫く二人は睨みあう。
「このままでは安殿様が傷つく事になりかねない」
真夏の喉から絞り出す声に薬子はきゅっと口端を上げた。
「遷都の命を発するまでは隠し通すつもりでしたがお気づきになられましたか」
「知っていれば反対した」
「でしょうね。ですから真夏様には内緒にしていましたの。安殿様に真夏様が遷都に賛成していると信じさせるのが大変でしたわ」
薬子は一間置き、挑むような瞳を真夏に向けた。
「確かに私達の勧め通りになりましたが、初めに遷都を仰ったのは安殿様本人ですよ」
「だが…」
絶句する真夏に薬子は更に続けた。
「私も不安はあります。でもあえてこのまま続けます。だって、私も父を殺した先々帝の造り上げた都など嫌いですもの」
「種継卿暗殺の件に先々帝が関わっていたと本気で信じているのか?」
確かに当時そういう噂は立ったらしい。
種継暗殺の下手人として大伴継人をはじめとする大伴一派と佐伯高成、そして春宮主書首の多治比浜人が主犯として斬刑に処せられたが、さらに詮議の手は先々帝桓武の弟で東宮の早良親王にまで及び廃太弟に追い詰めた。淡路配流の途中で憤死した早良親王の変わりに安殿が皇太子となり、結果先々帝の思い通りになった事からそのような噂がまことしやかに流れたのだ。
「その後、先々帝は種継殿を惜しまれて正一位左大臣を追贈なさったではありませんか」
「ええ、でも鬼籍に入った後では父も嬉しくは無いでしょう」
薬子はふっと、目を細めた。
「幼き日、いつも聞かされたわ。長岡の都を立派に造り上げなくてはならない。未来永劫に政の中心となるのだからな、と。そのことに父は大変誇りを持っていました。完璧な都を造ろうと様々な書物を夜遅くまで紐解いていらっしゃった姿は今も忘れられません。その都を先々帝は十年という短い間でお捨てになってしまわれた。父の夢と一緒にね。理由は早良親王の祟りによる不幸が続いたからですって! それは父の暗殺にかこつけて安殿様を皇太子にしようとした先々帝の身勝手から出たものでしょう。…私は一生先々帝を許しません。『薬子』という名を戴いたその日から私は心に決めたのです」
普段の、落ち着きがあり朗らかな薬子とは違う激しさに真夏は何故か気高さを感じた。
恨みであれ強い想いは人を美しくさせるらしい。だが、そんな薬子を真夏は愛でてばかりもいられなかった。次の答え如何では薬子を許す訳には行かない。
「安殿様に近づいたのも先々帝への恨みを晴らすためか?」
「…」
薬子は今まで外さなかった視線を初めて逸らせた。
「安殿様は…良い方ですわ。良くも悪くも正直で真っ直ぐで、不器用だけれども心の暖かい方。私にとって思った以上に大切な方なのです。例え娘を悲しませても…それが唯一の誤算ですわね」
先程の荒々しい感情が治まったのか、薬子は普段どおり華やかに微笑み、居住まいを正した。
「平城遷都、もう全て準備は整いました。明日詔を出します。上皇、今上のどちらに付くか、後はあなたの心一つ。上皇に真夏様、今上に弟の冬嗣殿とそれぞれに息子を配したやり手の父上の元に帰るのなら今のうちですわ」
清夏に出会わなければ、薬子の言葉に心迷ったであろう。だが、今の真夏には初めから答えは決まっている。
真夏は薬子ににやりと笑って見せた。
「あなただけが安殿様のいいところを知っていると思っておられるのは間違いですよ。もう後戻りできないのなら進めたらいい。私は安殿様に付いて行くのみですから」
薬子は軽く驚き、すぐに声を立てて笑った。
「そうね、心配しなくても考えてみればそれが一番真夏様らしい答えですわね」
薬子と別れ門へ戻ると、待たせていた清夏が心細そうにぽつんと佇んでいた。真夏を見つけた途端、ほっとした様子を見せ駆け寄ってくる。
「先程戻ってきたと思ったら再び大変な急ぎ様で屋敷に入られたので驚きました」
「待たせたな。では帰ろうか」
清夏を促して歩き出そうとしたが、清夏はじっと真夏の顔を見上げた。
「お体の具合が悪いのですか?」
これから起こるだろう事を考えれば具合も悪くなるというものだ。だが、自分は安殿についていくと決めたことは後悔していない。そう心から思わせてくれるきっかけをくれたのが自分を心配そうに見上げるこの清夏だった。
「具合が悪そうに見えるか?」
「いえ、なんとなくそう感じただけで…ごめんなさい、変なことを聞いてしまって」
すまなそうな清夏の声。彼の細やかな気遣いには正直頭が下がる。こういう細かな変化を捉えるのが得意な彼に傍にいてもらい、自分でも気づかない心の機微を教えて欲しかった。
「いや。大丈夫だ」
そう答えると、安心した清夏はいつものように隣へ並び、朗らかに話し始めた。
「尚侍様を初めて間近で拝見しましたけど、噂以上にお綺麗な方でしたね。…でも、綺麗な方って、皆似ているものなのでしょうか?」
清夏は偶に真夏が思いつかないような事を言う。そこも彼を好きな所かもしれない。
「さあどうだろう? 何故そう思う?」
「悲田院に一緒に暮らしている尼姉さまを私はこの世で一番お綺麗な方だと思っていたのですが、薬子様ととてもよく似ていらしたのです」
(清夏は悲田院から来たのだったな)
先程薬子とやりあう前は彼をいつまでも傍に置いておきたいと思っていた。だが、今は状況が変わってしまった。最悪上皇と今上の間で戦になる。安殿の側に待侍すると決めた真夏は清夏を守りきれないかもしれない。
(その前に彼を是非とも安全な場所に逃がしてやりたい)
彼には帰る場所がある。悲田院は真夏の祖先となる聖武天皇の妃、光明子がはじめられた事もあり藤原氏とも縁が深い。それなら遠くからでも見守る事が出来る。全く関係の無い所へ行ってしまう訳ではない。真夏は自分にそう言い聞かせた。
「清夏」
「はい?」
名を呼ぶだけで微笑んで見上げる瞳に決意が揺らぎそうになるのをぐっと堪えた。
「明日、善康に送らせるので山城へ帰りなさい。もう薬子殿に文も渡した事だしな」
清夏の歩みがはたと止まり、何を言われたか分らないような表情をした。
「急にそんな…、清高が見つかるまでいていいと仰っていたのに! それに…」
袂に手をいれ、急いで取り出した清夏の手のひらには二つの木でできた独楽が乗せられていた。
「これは清高が近くにいる証拠なんです」
そして清夏はこの独楽を手に入れた経緯を早口で話した。
「もうすぐ見つかりそうなんです。もう少しここに居させてください」
彼には珍しく必死だ。真夏にはその必死さの理由が自分でないのが残念だった。
「友のことは私が引き受けよう。見つけたら必ず清夏に知らせると約束する。すまない、事情が変わったのだ」
できるだけ静かに告げた。一瞬口を固く結んだ清夏だったが、すぐさま了解の意を示した。物分りの良いところが真夏を安堵させると共に一抹の寂しさを感じさせる。だが、これでいいのだ。
「詫びになにか好きなものを差し上げよう」
暫く続く沈黙を破り真夏はこう口にしたが清夏は首を横に振った。黒曜石のように輝く瞳は光を失っていた。友を待てない事は清夏にとって辛い事なのだろう。毎日欠かさず南門へ通っていたそうだから。
(こんな時なのに…)
真夏の心底には、認めたくは無いが、清夏の見ぬ友への羨ましさと嫉妬の感情がしっかり横たわっていた。知らない間にそれは外にかき出そうとしても固くて深いものに変わっていたらしい。しかし清夏のためにもそれを見せる訳にはいかない。
「約束を反故にしてすまないと思っているのだ。私のためにも遠慮しないで言ってくれ」
そう言ったが、本当は真夏を思い出してくれるようにせめて清夏に何か贈りたいだけだ。それを見ている間だけでも友の代わりに真夏が思い浮かぶような何かを。
清夏はふっと瞳を上げ、ようやく重い口を開いた。
「それでは、あの奇麗な烏翠石の硯をいただけますか?」
「あれは初めから清夏に与えるつもりでいたよ。他の物で何かないか」
「何でも良いのですか?」
「私の与えられるものであれば」
真夏は軽く首を傾げて見せた。今の自分なら清夏に言われるまま火鼠の皮衣でも龍の首の珠でも捜し求めに行ってしまいそうだ。ただ蓬莱の珠の枝だったら苦笑は否めない。
「真夏様にしか出来ません」
清夏は言い淀み、俯くと水干の端をきゅっと握った。
「私と今日の最後の日、一緒にいてもらえませんか? そうしてから私は山城の都に帰りたい」
「そんなことでいいのか?」
ただ清夏は一つ頷きそのまま黙る。他に望みはないという意思表示だった。
欲のないことだ、と思ったが、自分と共に居たいと言ってくれるのは正直嬉しい。
(最後に思い出を作るのも悪くないか)
そう思い直し、真夏は清夏の願いを受け入れた。