第16話
「出来たか?」
真夏は書籍から目を離し、善康の手にしている真新しい水干に目を移す。
善康はわが子の様に目じりを下げて答えた。
「はい、頂いた布で妻が縫い上げました。幸せ者ですね、清夏は」
彼の妻の緑子は言いつけどおり一日で作り上げた。清夏は濃藍色を選んだらしい。その色なら彼の透けるように白い肌に映えるだろう。水干のいい所は袍と違い、身分にかかわらず使える色目が自由な事だ。
「清夏は?」
「厨にいますが」
「では、これから清夏に着せてやってくれ」
善康がさがり暫く後、軽やかな足音と共に清夏が現れた。
少しはにかみながら戸をくぐる清夏は先程の新しい水干を身にまとっている。
「丈もちょうどいいし、似合っているよ」
真夏の心からの感想だが、清夏は不安げな表情を見せつつ頭をさげた。
「こんなに綺麗なものを頂いてすごく嬉しいのですけれど、これを頂く理由がありません」
初々しい清夏の態度に真夏は自然と微笑んでしまう。
「理由はある。これから薬子殿の所へ一緒に行ってもらうからだ」
「私が、ですか?」
驚いて普段でも大きな瞳を清夏はさらに見開いた。
「ああ、私より直接清夏が手紙を渡した方がいいと思ってな。あちらにはもう伝えてあるよ」
「き、緊張してきました…」
清夏は緊張をやり過ごそうと袴を一旦握り締めたものの、皺になると思ったのかすぐに離し、慌てて手のひらで伸ばした。
物慣れない様子、強張った笑顔もなかなか見甲斐があると思いながら真夏は清夏を連れ立って歩き出した。清夏は背筋をいつも以上にぴんと伸ばし、生真面目そうな顔で付いてくる。いつもと違う清夏に真夏は笑みを我慢できなくなった。
「いつもと勝手が違うな。緊張しているのか?」
「え、何かおかしいですか!?」
「おかしくはないよ。ただ少し、いつもと違って取り澄ましている感じがしたからね」
清夏は一つ軽く息を吐き、瞳を伏せた。
「やはり、立ち振る舞いと言うのは簡単に身に付きませんね。緑子さんが、いい衣に負けない様に胸を張って歩きなさいって言ってくれたんですけど」
彼なりに努力していたのを知り、真夏は笑みを引っ込めた。
「笑ってすまなかった」
「い、いえ。真夏様は全然悪くないです。緊張しているのは本当だし、自分でもぎこちないなあって思っていましたから。ですから、謝らないで下さい。真夏様に謝られると私が困ってしまいます」
言葉だけでなく、本当に困っている様だ。清夏はいつ見ても、どんな顔をしていても真夏の心を和ませてくれる。
今度は真夏が今だに顔を強張らせている清夏の心を和ませる番だ。
「これから薬子殿に会うにしても、公ではないからそんなに緊張しなくていい。むしろ、いつもの清夏でいなさい。取り澄ますのも悪くないが、普段の方が私は好きだから」
何故か清夏は驚いたように一つ体を波立たせた。そんなに驚く事を言っただろうか? だが、言葉が功を奏したらしく、すぐに少し照れながらも、微笑んだ。
「はい、そうします」
「それでいい」
真夏は再び清夏を連れ立ち、用意させていた車に乗り込んだ。
薬子は安殿と共に今まで住んでいた故大中臣清麻呂の屋敷からようやく完成された新しい屋敷へと吉日を選んで移っている。帝王の理想に基づき質素倹約を自ら自負している安殿らしく華やかさは無いが、その分重々しい荘厳さを具えていた。
「落ち着いた色使いで素敵ですね。調度を薄緑と濃紫で統一しているからかなあ」
後ろから感嘆交じりの小声で清夏は言った。
真夏は清夏を此処に連れてきて良かったと思った。絵を描くことを得意とする清夏にはこれから色々綺麗な物を沢山見せてやりたい。
(そう、ずっとこのまま私の傍にいればいい…それを清夏に聞いてみなければならないが、今はまず薬子殿だ)
気を引き締め、真夏は案内の女房について行く。通された奥の私的な房間にはすでに薬子が居た。黄色の背子に濃緑の褶、朽葉の裙に肩から真っ白な領巾をかけている。艶やかな口に絶え間なく笑みを浮かべ、真夏を招き入れた。
薬子一人と会う約束なのに、隣には当然のように安殿が篩栗を摘みながらゆったりと寛いでいた。
「薬子殿、今日は…」
言いかけた真夏を安殿は楽しそうに制する。
「俺をのけ者にして、薬子一人に会おうというのは無理だぞ」
事が事だけに薬子にだけ話そうと思っていた真夏は安殿に退出して貰うよう薬子に目で願った。
「私なら構いませんわ」
本人にそう言われては仕方が無い。真夏は簀子で待たせていた清夏を呼んだ。清夏は予定外の上皇の登場にどうしていいか分らず固まっている。安殿は興味深そうに横たえていた体を起こした。
「なんだ、なんだ? 綺麗な子だな。そこらの小舎人よりずっと綺麗だ。これならどこの寺でも欲しがるぞ。いい衣を着せて…可愛がっているみたいじゃないか。なるほど、最近真夏が私になかなか顔を見せなくなった理由はそれだな」
「ご冗談を」
軽く受け流すものの、流石に安殿は幼馴染だけあって真夏の核心を突いてくる。しかも自分自身はようやく最近気づいたばかりの感情なのに、すでに安殿に言い当てられてしまった。
「清夏と申します。さ、薬子殿にお渡ししなさい」
「はい」
乾いた声で返事をし、清夏は少し前に進み出ると目を伏せて緑の小瓶と文を差し出した。上皇と尚侍を目の前にして緊張から清夏は顔を上げられないらしい。差し出す手も震えていた。それを薬子付きの女房葛井が受け取り薬子の前へ持って行く。
真夏の予想どおり、小瓶を手に取った薬子に驚きの表情が浮かぶ。
「どうしたのだ、薬子?」
安殿も珍しい薬子の変化に驚いている。薬子は安殿の問いには答えず、添えられていた文に目をとおし、紅葉葉のごとくはらはらと涙を流した。
「生きていたのですね」
そう呟き薬子はそのまま口に手を当て片方の袖で顔を隠す。文を受け取った安殿も事情を察し、薬子の肩を優しく抱き寄せた。
薬子の娘─春宮妃が宮からいなくなったとなれば勿論役所が動いたが、何分醜聞なので大っぴらにしないようにと言う帝の配慮と、市に出ていた春宮妃の髪飾りの出元を辿って見つかった漁師の老夫婦が鴨川で拾ったと言い張ったので、最終的に入水したという事で皆納得してしまった。当時降り続いた大雨で流されてしまったのだろうと。そして娘を死に至らしめた上皇と薬子の評判は輪をかけて悪くなってしまったのだ。だが、安殿の近くにいた真夏は、二人がこの事に深く傷ついている事を知っている。
「一つ肩の重荷が減ったよ」
「ええ、私も。これで罪が消えるとは思いませんが安心致しました」
お互い見つめあう二人を真夏は暖かく見守る。この二人は本当に会うべくして会ったのだ。ただ、それが東宮妃の母と東宮妃の婿という天の悪戯の元ではあったのだが。
「清夏、よく届けてくれました。そう、何か褒美を差し上げなくてはいけませんね」
白い指先で涙を拭った薬子は清夏に再びいつもの妖艶とも言える唇で微笑みかけ、葛井にいいつけて絹の反物を与えた。
「男の子があまり喜ぶ物ではないかもしれないわね」
「いえ、ありがとうございます」
顔をようやく上げた清夏は薬子を見て軽く驚いているようだった。
(薬子殿は息を飲む美しさだからな)
見慣れぬ者には驚きに値するかもしれない。
(本当は薬子殿に聞かねばならぬことがあるのだが…安殿様もいることだし、これ以上長居をするのも無粋だろう)
真夏は薬子に問い糺すのを諦め、今日のところは帰ることにした。
「真夏殿にも感謝いたしますわ」
薬子はそういい、房間の外まで二人を見送った。唐からもたらされるガラスの様に輝いた彼女の瞳はいつもの微笑とは全く違い、娘を思いやる母親の温かさも備え仏とともに飛来する天女を彷彿とさせた。
「喜んで貰えてよかった」
ようやく緊張から解き放たれた清夏は行きとは打って変わり、軽やかに舞う蝶のように歩いた。
「尚侍様はお泣きになりましたね。文には何が書いてあったのですか?」
清夏が知りたいと思うのは当然だ。真夏が口を開きかけた時、門の前で同じく造平城宮使の紀田上が真夏を手招きする姿が見えた。
「清夏、すまないが此処で待っていなさい」
戸惑いつつも頷く清夏を置いて真夏は田上の元へ近づく。田上は木陰に真夏を引っ張り込むと、声を落として話し始めた。
「平城遷都の議は決定か? 水臭いな、何故今まで教えてくれなかった?」
真夏が今日、薬子を訪ねた用件を田上は安殿の元へ行ったと思っているらしい。田上の話は真夏にとって想像の域を出ないものではあったが、同時に現実に起きてはならない事でもあった。
「真か? いつ、どこでその話をお聞きになった?」
その問いに今度は田上が驚いた。
「そなたも知らなかったのか? 偶然裏を歩いていた時、下仕えの噂話から私も先程知ったのだ。詳しく問いだたしてみれば、今上が明日をも知れぬ危篤の今、高岳皇太子様もまだ年若いゆえやはり政をなさるのは上皇様しかいないという仲成殿の言を上皇様は受け入れられたらしい。それなら都は平城が良いと思われたのだろうな。今まで耳に入らなかったのは混乱を避けるため極秘で進められていたからであろうから、てっきり真夏殿も関わっていたかと…」
真夏は奥歯をかみ締めた。
父の警告はこの事だったのだ。
(仲成め…、いや、今回は薬子殿も深く関わっているに違いない)
きっと今上側へ事前に漏れる事を恐れて真夏には何も告げず事を進めたに違いない。最近頓に公務が忙しかったのは真夏の眼を遷都準備から逸らすための仲成、薬子の差し金だったのだろう。そうすれば真夏がいなくても安殿に怪しまれずに事を進められる。安殿なら『平城遷都』などという大事を必ず真夏に相談してくれる筈だ。先ほど会った時も安殿は真夏に隠し事をしている風ではなかった。安殿との付き合いは長い。何かあれば分かる自信はある。
今回は何としても止めなくてはならない。今の今上の不豫は罠であり、まさに安殿はその網にかかろうとしている。
「知らせてくれて助かった」
紀田上に別れを告げ、真夏は再び薬子と安殿の居る房間へ急いだ。