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第10話

「真夏様が帰ってきたぞ、手伝っておいで」


「はい」


 善康に声をかけられ、清夏は緑子と共に剥いていた野菜の皮を急いで集め始めた。


「そのままでいいよ。あんたもいつも清夏ちゃんばかりにやらせてないで、偶には自分で行ったらどうだい」


 緑子がぎゆっと夫の耳を引っ張った。


「痛いなぁ。真夏様もむさ苦しい儂より可愛い清夏の方がよかろうよ」


「まあ、そうかもしれないねぇ」


 緑子は納得したように清夏を見た。一方清夏は可愛いと言われ、複雑な心境に苦笑する。


「では、いってきますね」


 軽やかに足音を立てつつ清夏は母屋に向かった。ここにいることを許されてから感謝の意味も込めて出来る事は何でもやるようにした。善康の手伝いで真夏の身の回りの世話をするようになり、衣更えの季節を過ぎ、夏になる頃には手先が器用な清夏の方がもっぱら真夏の世話を行うようになった。そしてその時間が清夏にとっての楽しみにもなっていた。庭に鹿が来て着物用の糊を食べてしまったとか、雨が池に綺麗な波紋を作ったなど、世話をしながらの清夏の他愛のない話も真夏は面倒くさがらずに聞いてくれる。


 殊に真夏は笛が得意で、その音色に耳を傾けるのも好きだった。適度な湿り気がある夜の方が笛の音が冴え渡る事もここに来てから知った。毎日が同じ繰り返しの悲田院とは違い、新しい発見が常にある。だから、清夏に変化をもたらす真夏が帰ってこない日はつまらなく寂しい気さえした。善康に言わせれば前より頻繁に屋敷へ戻るようになったらしいが、それでも寂しい気持ちには変わらない。


 でも今日は真夏が帰ってきたのだ。清夏は真夏の部屋で帰ってきた真夏を明るい声で迎えた。


「最近、昼間は暑くなってきましたね」


 都の夏は茹だる様だが、奈良の夏も同じような気配を漂わせている。


「そうだな。最近、清夏の絵も益々上手くなったじゃないか」


「えっ…あっ」


 突然誉められ、見上げた真夏の手には最近描いた清夏の墨絵が何枚か握られていた。


「先ほど善康に見せて貰った」


 清夏は一気に顔を染めた。


 真夏は清夏に墨と筆、紙を自由に使ってよいとも言ってくれた。筆の強弱で絵の表情ががらりと変わり、棒で地面に絵を描くより数倍面白い。だが、紙は貴重だ。気後れして使わないようにしていたのだが、先日善康に勧められて庭の草木を描いたのだ。善康が欲しいと言うからあげたが、それが真夏の手の中にあるとは。


「もう少し上手くなってから真夏様にお見せしたかったのに」


「十分上手いじゃないか。生い茂る木々が今にも初夏の爽やかな風に揺れそうだ」


 真夏は長い指先で描かれた木々の葉を流れに沿って撫ぜた。その動作に何故か清夏の心の臓が一つ脈打った。


「私を描いてみてくれないか」


 少しの間、清夏は真夏に何を言われたか分らなかった。


「…私が真夏様を、ですか?」


 今日は驚かされてばかりだ。


 密かに描いてみたいと思っていたが、こんなに早くその日が来るとは思っても見なかった。しかも真夏の方から言ってくれるとは。


「嫌?」


 真夏の問いに清夏は急いで首を横に振った。


「嫌ではありません。前から描きたいなあって…」


 素直に心うちを吐露しかけて清夏は慌てて口を噤んだ。その様子に真夏は豊かな低い声で軽く笑った。


「では、頼んだ」


 清夏は緊張しつつ筆やすずり、紙を用意し、ゆったりと座る真夏の前に陣取った。


「それでは…」


 真剣な眼差しで真夏を見、脳裏で浮かんだままを手に伝え紙に滑らせる。それの繰り返し。実際は分らないが、清夏には時に羽が生えたような短い時間が過ぎていった。


 念願が叶ったというのに、ようやく出来上がった真夏の顔はどこと無く寂しそうだった。これは見せられないと思ったが、ひょい、と真夏に取られてしまった。


「せっかく出来上がった絵だ。清夏が書いたと書名を入れてくれ。自分の名は書けるか?」


「名だけは」


 清夏が別の紙に名前を書いて見せる。絵と違い文字は普段書き慣れていないので変な形で書き上がり恥ずかしかった。


 真夏は清夏の隣に座り、覗き込む。


「キヨカの『か』の字は『香』でなく『夏』だったのだな」


「はい。今頃の時期に悲田院に来たので」


「そうか、私と同じ字が使われているのだな」


 真夏が何気に言った一言だが、今まで気がつかなかった。真夏の夏に清夏の夏。たいした一致ではないのに、清夏は嬉しかった。そして嫌いだった清夏という名前が一瞬にして好きになる。


 真夏は手にしていた紙を清夏の目の前に置いたが、清夏は手を動かす気にはなれなかった。


「ごめんなさい。これは上手くかけなかったから。もしよかったら今度もう一度描かせてください。その時上手く書けたら自分の名を入れたいです。次までにはきっと…」


 弁解する清夏に真夏はやんわり微笑んだ。


「いや、多分今の私はこのような顔をしていると思うよ。清夏は人の心まで筆で表してしまう。きっと心が曇りの無い鏡で出来ているのだろうな。しかし描いた清夏本人が気に入らなければ仕方がない。では、次の機会にまた描いて貰おうか」


「はい、今度は上手く描ける様に頑張ります」


 そう答えてみたものの、真夏の寂しさの原因が無くならなければまた同じ表情を描いてしまうだろう。しかしその原因は清夏が聞いても分らないような政の事かもしれない。


(その分、少しでも他の事でお慰めできるようにがんばろう)


 清夏はこっそりと心うちで誓った。


「今日も南門へ行ってきたのか?」


 真夏の問いに、清夏は絵筆を片付けていた手を止めた。


「はい」


 清高と別れてすでに半年弱、時間を見つけては毎日南門へ行っている。たまに噂を教えてくれる人はいるが、すべて空振りに終った。


 最近の清夏は『もしかしたら、もう…』と諦めかけそうな自分を叱咤し続けている。


「私もあれから気をつけているが、何も聞かない。何かあれば話の一つも出るだろうが、無いとなると多分どこかで無事に生きているとは思う。諦めるなよ」


 清夏の心を見透かしたような、それでいて優しい物言いに清夏はずっと今まで我慢して隠して来た涙が止められなくなった。涙を見られないように俯いたが、それに気づいた真夏がそっと清夏の肩を抱いてくれた。その広い懐に清夏は、今度は隠すことなく声を上げて泣いた。


「あの時、自分が飛び出さなければ…ちゃんと話し合っていれば…」


 しゃくり上げながらも心内を吐露する清夏の背を真夏は落ち着かせるように何度も摩った。優しく、ゆっくりと。


「自分を責めるな」


 初めて会った時も思ったが、真夏の声は豊かな響きを持って清夏の心を満たし、癒す。


 清夏は高ぶった気持ちが治まると急に周りが見え始めた。


「ごめんなさい。綺麗なお召し物を濡らしてしまって!」


 慌てて顔を離したが後の祭りで、涙の部分だけ色が濃くなっていた。 


「気にするな。友を思っての涙だから、そこらの修験者の持つ霊験あらたかといい触れている水よりずっと綺麗だろうよ」


 真夏は親指の腹で清夏の頬を拭った。


「ほら、もう涙をこぼさない。友を思って眠れぬのだろう、目の下に隈が出来ている。だが、清夏には眠れぬほど心から大切に思える友がいて良いな」


 清夏が見上げた先に、先程清夏が描いたような寂しい顔の真夏がいた。


「真夏様…」


 続く言葉は見つからなかった。だが、真夏は清夏と目が合うとひっそりと微笑み外に目をやった。西に沈む太陽が鮮やかな緋色に庭を染めている。真夏は清夏の手を取ると、簀子まで連れ出した。


「ちょうどこんな夕焼けだった」


 真夏は遠い目でそうポツリと呟いた。




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