第1話
史実を基にしたフィクションです。
恋愛的にBLを含みますが、「ムーンライトノベルズ」に入れるほどでもない程度です。ニガテな方はご注意ください。
それでは、よろしくお願いいたします。
吹き荒ぶ風の行き先を枯葉と清夏の吐く白い息が追う。
さすがに師走ともなると、寒さが体の芯まで届くようだ。そして北風は白銀の鋭さで清夏の身に容赦なく吹き付けるだろう。だが、寒いからといっていつまでも物陰に佇んでいるわけにもいかない。
「よしっ」
気合を入れ、胸元の襟をかき寄せると、身を縮ませながら清夏は庭先の井戸まで走った。
清夏は孤児だ。
四歳の時に起きた洪水でふた親を亡くし、幼い身の上で途方にくれながら彷徨っている清夏を京職の役人が悲田院へと連れてきて以来、約十年間此処で暮らしている。
悲田院は仏教の慈悲の思想に基づいて孤児や病人を救うために建てられたものだが、他に行く所もない清夏にとって此処が実家のようなものだった。それに、手伝いをしながら病人に感謝される暮らしも悪くはない。
今年は三年前から流行り、衰えを見せない疫病のせいで運ばれてくる病人は例年よりさらに多かった。だが、悲田院に運ばれる人はまだ『まし』である。多くの病人は穢れを忌み嫌われる為に家には置いてもらえず路上に捨てられる。そして動く事も食べる事も出来ず、ただ人々の足早に脇を通り抜ける様子を眺めつつ死んでいかなければならないのが実情だ。
清夏は冷たく凍り動かなくなる手を息で温めつつ、何とか井戸の水を一杯にした桶を掛け声と共に両手で持ち上げた。
(よりにもよってこんな寒い日に当たらなくてもいいのにな)
今日は面倒に思う水汲み当番の日だった。
年齢よりも幼く見える上、少女と間違えられる顔立ちの為に頼りなく思われるらしく、いつも誰かしら手を貸してくれるのだが、今日は体を突き抜けるような寒風のせいで辺りには誰も居らず、一人で重い水を運ばなくてはならないようだ。
強い風が清夏の真っ直ぐな黒髪を遠慮無しに乱していく。その風にのって遠くから馬の嘶きと男たちの勇ましい掛け声が届いた。
「また何か起きたのかな」
洪水や旱魃で治安の悪い平安京内では京職が賊を追い掛け回す風景など日常茶飯事で、清夏も見に行こうという気さえ起こらない。
(とりあえず、目の前の仕事を片付けよ)
気を取り直し、せっかく汲んだ水をこぼさないようにと気をつけながら一歩進み出ると、今度は微かに喚き声が聞こえた気がした。
(風の音?)
病人がいる棟からは離れているので聞き間違いかもしれない。棟を通り抜ける風は時に唸り声のように聞こえない事も無い。だが、耳を澄ますとやはり喚き声が聞こえた。しっかり人の声で。それは塀の外らしい。
(どうしようかな)
迷った末、清夏は桶を下に置くと門まで走り声の主を確かめるべく辺りを探した。誰かがせめても、と悲田院の近くに病人を置いていったのかも知れない。だがすぐには見つからなかった。
あきらめかけた頃、木の植え込みに隠れるように一人の男が猫背で座っているのを漸く見つけた。袖の端からは赤い血が流れるように滴り落ちている。
(うわあ、大変だ)
清夏が慌てて近寄ると、男は荒い息の下微かに笑った。
「このまま誰にも見つからないかと思った」
「喋らない方がいいですよ」
自分の知っている血止めの措置だけでは無理な事は見ただけで分った。
(そうだ、尼姉さま…)
そう思いかけて清夏は唇を噛む。姉の様に慕い信頼を置いている尼姉さまは今日弥勒寺へ読経に行かれていないのだ。彼女は熱心な法華信者で、暇さえあれば念仏を唱えている。
(と、とにかく人を呼ぼう)
急いで立ち上がる清夏の腕を男は掴んだ。
「頼みがある。もうお前だけが頼りの様だ」
思いがけない力強さに清夏は驚いて見返した。痛さに清夏は顔を顰めたが、構わず男は懐から袋を取り出した。
「これを…ショウジ様に。リョウコ様からと言って渡してくれ」
清夏にはどちらも知らない名前だ。
「ショウジ様に渡せばいいんですね。どこに住んでおられるのですか?」
「いや、左京四条の六角小路と堀川小路の辻の東にあるサダモト様の屋敷に行き、そう言って渡してくれればいい。極力公にしないでくれ。姫様たっての願いなのだ。頼んだぞ」
最後は消え入るような声で、風にかき消されてしまいそうなのを耳を近づけて聞いた。 言い終わった男の腕は袋を握ったまま力なく地面へ下ろされた。体もずるり、と横になる。
「分りました。約束します」
男にはすでに聞くことは出来ないと知りつつもそう呟いた。清夏は男の手から袋を取ると胸元へしまい、垂れ下がった男の腕を胸の上で組ませてやった。今度こそ人を呼んで運んで貰わなくてはならない。
(無縁仏になっちゃうのかな)
清夏はこの男について何も知らない。名前くらい聞いておけばよかったが、今となっては後の祭りだ。
一つため息をつき立ち上がる清夏の背後で急に騒々しい足音がした。振り向くと三人のがかいの大きい男がこちらに駆け寄ってきた。
「稲取ではないか!」
三人は清夏を押しのけると事切れた男の前にしゃがみ込んだ。一人は何度も稲取の名を呼び、そうすれば生き返ると思っているのか頬を何度も叩いている。
「おい、何か言っていなかったか?」
他の一人の男が清夏に振り向いた。三人の男達といい、稲取と呼ばれた死んだ男といい、身なりが庶民よりは立派なのでどこかの貴族に仕えている家人なのかも知れない。
「いいえ、僕が来た時はもう…」
渡された袋のことは黙っておいた。突き飛ばされた事と横柄な言いようにカチンときていた事もあるが、稲取本人が公にして欲しくないと言ったのだ。
(三人が何者なのかも分らないのに話すわけにはいかないよね)
清夏は胸元へしまった男からの袋を無意識に着物の上から押さえていたが、すでに清夏に興味のなくなった三人はその動作には気づかず、力なくされるがままの男を分担して運んでいった。清夏はただ黙って見送った。
(埋葬者がいてくれるのは幸せな方だ)
身よりもなく亡くなっていく人々に見慣れた都育ちの清夏にとって、それは正直な感想だった。