夕凪の先へPART:1
「ただいま」
架音学園から約1時間半の道のり。
中等部三年も残りわずかとなった頃、事故以来、それまで暮らしていた学園の近くの家から、母方の祖母の家で暮らす陸斗にとっては、もうとっくに通いなれた距離であった。
祖母に引き取られることが決まり、徒歩圏内だった真中家からも離れた。
りおと物理的に距離をとる意味でも、それが最善の選択だった。
一時は転校も選択肢にはあったが、祖母やりお、れおの両親の働きかけで、今現在に至る。
会話をすることも、目を合わせることもない。
そんな日々であっても、陸斗にとっては十分だった。
『同じ学園に通えているだけでいい。せめて見守ることができる距離にいられれば…』
自分に言い聞かせるように、何度も繰り返す。
ローファーを脱いで、丁寧に端にそろえる。
ふわりと香る夕食のおいしそうなにおい。
と、そこでもう一足のローファーに気づく。
陸斗よりも一回りサイズの小さなもの。
一瞬で陸斗の表情が曇ったその直後だ。
「おっかえりー!」
背後から思い切り突撃された陸斗は、危うく玄関の上りから落ちるところだった。
何とかその場で踏ん張ることに成功し、改めて振り返る。
「やっぱり来てたのか、凪<なぎ>」
陸斗の背中に飛びついていたのは、陸斗の従姉弟にあたる立花凪<たちばななぎ>だった。
陸斗より少しだけ背の低い身長に、勝気な瞳が印象的な少女。
長めのポニーテールが凪の動きに合わせて揺れる。
陸斗よりも一つ年上の凪は、架音学園ではなく別の高校に通っている。
以前は遠方に住んでいたが、数年前に両親の仕事の都合で近くに越してきた凪。
遠方にいた頃も、長期休暇では祖母の家に泊まることもあった。
今は祖母の家から比較的近い距離の自宅だが、共働きの両親は帰りが遅いことも多く、祖母の家で夕食をとることも珍しくない。
そうなると、陸斗よりも凪の方が早く祖母の家につく。
「何、その態度!私がいちゃいけないわけ?」
「そんなこといってないだろ。っていうか、重い」
「うわっ、失礼ね!そんなこという陸斗には、私特製のケーキあげないんだから!」
ようやく陸斗の背中から離れた凪は腕を組みながら得意げにいって見せる。
けれど、陸斗の方はその横をさっさと通り抜けてしまう。
「あ、ちょっと!」
後ろから追ってくる凪の足音を聞きながら、陸斗は自分の部屋へ向かう。
自室の扉の前まで来て、陸斗はぴたりと止まる。
「…お前、どこまでついてくるつもりだよ」
「別にいいじゃん。なぁに?私に見られたくない物でもあるの?」
面白がる凪にため息をつきつつ、扉を開けて部屋に入っていった。
制服のブレザーをハンガーにかけて、ネクタイを引き抜く。
「ふふっ」
「ん?」
凪の笑い声に陸斗が振り向くと、入り口のところで扉に寄り掛かりながら凪は優しい表情を向けていた。
「大きくなったなぁ…って思ってさ」
「はぁ?」
「いつの間にか、背も抜かされちゃったし、ちっちゃい頃のかわいげも今は全くないしさ」
しみじみという凪に、陸斗も笑う。
「まぁ、凪の身長を抜かすのが第一目標だったしな」
「昔の陸斗は、本当に小っちゃかったもんねぇ」
「うるさい。せめて小柄といえ」
「えー?あ!小さい頃といえば、あれ、覚えてる?私が一人、旅に出ちゃって!」
陸斗の部屋の中、机の前まで歩み寄りながらそこに飾られる2枚の写真に凪は触れながらいう。
幼い頃のりおとれおと3人で写ったものと、山倉家と真中家がそろった家族写真。
「何が旅だ。あの時、大変だったんだからな」
「そうだっけ?でも、あの頃だったよね、陸斗がこの写真飾れるようになったの」
凪のその言葉に呆れ顔だった陸斗の表情にフッと切なさがにじむ。
「まぁな。気付かされたんだよ。俺が悲しんだままだと、どっかの誰かがいつまでも不安定なままフラフラと危なっかしいって」
振り返ると、長期休暇など祖母の家に凪が滞在している間は常に一緒に過ごしていた。
事故から2ヶ月ほどたった頃、祖母の家で暮らすようになった陸斗のもとに凪がやってきた。
この頃の陸斗は、事故のショックだけでなく急激な環境の変化もあり、完全に心を閉ざしていた。
「陸、凪が来てくれたよ?」
部屋の扉の外から祖母の声が届く。
と、次の瞬間、すさまじい音とともに扉が開き、ベッドの隅にうずくまっていた陸斗めがけて、何かが飛んできた。
ゴンっと鈍い音がして、陸斗が頭を押さえる。
陸斗の部屋に飛び込んできた凪はその勢いのままに陸斗に飛びつき、その陸斗は背後の壁に後頭部をぶつけてしまった。
「……痛い…」
「陸!遊びに行くよ!凪と一緒なら、ずっと楽しいんだから!ほら!」
差し出された小さな手と、曇りない笑顔。
陸斗は無意識に手を伸ばし、差し出されたその手を取り、引き寄せられるままに凪に抱きしめられていた。
「凪はずっと陸と一緒!大丈夫!凪は陸が大好きだから!」
凪にぎゅっと抱きしめられたその瞬間、陸斗の瞳から一筋の涙がこぼれた。
事故の日以来、抑え込まれていた感情がゆっくりとあふれ出るように、陸斗は小さな声で泣くのだった。
それから数年がたった頃、陸斗の置かれている状況を凪自身が少し理解できるようになった頃、休暇で帰ってきていた凪が行方不明になった。
「陸!凪、どこに行ったか知らない?!」
「……凪姉、りお…れおの家、行くって…」
「はぁ?!あのバカ!」
凪の母親は頭を抱えながら、重いため息をついた。
どうやら、偶然祖母と凪の母親が陸斗と真中家の話をしているところを聞いたらしく、「なんで陸だけが我慢してるの?!私、文句いってくるから!」と律義にも陸斗に宣言をして祖母の家を飛び出していったようだった。
「そんで、結局迷子になってるし。だいたい、あいつらの家、知りもしないくせに飛び出していったんだから、無謀というか、本当にアホだよな」
当時の事を思い出しながら、陸斗はいう。
凪の両親、祖母、陸斗、そして真中家にも連絡が入り、総出で凪探しが始まり、一時間ほどたった頃に真中家とは見当違いの場所で発見された凪。
しかも、凪の行動パターンを読んで発見したのは陸斗だった。
陸斗に連れられて一緒に帰ってきた途端、凪は大声で泣き始めてしまった。
「なんで陸だけが我慢しないといけないの!陸を苦しめるやつは大嫌いだ!」
「俺の事なのに、俺以上に不安定なお前を見てたら、不思議と吹っ切れたんだよ。改めて気づかされた。写真をかざらないことで、無意識に俺だけが辛いんだって思い込んでたんだ。苦しいのはあいつらだって同じなのに。俺たちは誰も悪くない。それなら、大切な思い出なら、隠す必要はないって」
そう話す陸斗の迷いのない瞳が見つめる先。
「陸斗は本当に強くなったよね。『凪ちゃん、凪ちゃん』って、くっついてたあの頃は、本当にかわいかった…」
「急になんだよ。らしくないな」
どこかしみじみという凪に首をかしげつつ、陸斗はふっと笑みをこぼした。
「別にー?なんとなく、懐かしくなっただけ!」
凪がそう答えた時、下の階から二人を呼ぶ祖母の声が聞こえた。
どうやら食事の準備ができたようだった。
「先に行ってろ。着替えてから行くから」
「何よー、パンツ姿なんて、腐る程見てるのにー」
「さっさと行け!」
口をとがらせる凪を無理やり部屋から追いだし、陸斗はため息をついた。
確かに下着姿は腐るほど見ているだろうが、今は小さな子どもではない。
陸斗にも一応恥じらいというものはあるわけで…。
ようやく凪が部屋を出たおかげで、陸斗は部屋着に腕を通した。
と、その時、陸斗の携帯が鳴った。
着信の長さからどうやら電話のようだった。
画面を開いてみると、そこにはれおの名前が表示されている。
「…なんだ。何かあったのか?」
『陸斗!お前に伝えなきゃいけない事があるんだ…』
電話越しのれおの声は、焦っているような落ち込んでいるような、微妙なトーンだった。
「改まって、何だよ」
『…りおの事なんだけど、実は…彼氏ができたんだ…。お前には伝えておかなきゃって…思って…』
レオの言葉に、陸斗は一瞬動きを止める。
「……そうか。…りおは幸せそうか…?」
『え?ん、あ、あぁ』
「…そうか。ならいい。ありがとな、伝えてくれて」
陸斗はそういって、電源ボタンを押し通話を切った。
まだれおが何かを言おうとしていた様だったが、陸斗にとってはもはや関係のなかったことだった。
携帯を握りしめながら、陸斗は先ほど凪と話していた写真へと目を向ける。
手をつないで隣同士、満面の笑みで写る3人。
『思い出は思い出。りおの中に俺はいない。いつかこうなることはわかってただろ。…そうだ、わかってたんだ。だけど、やっぱり…痛いものだな…』
胸を締め付ける想い。
「覚悟を…決める時かな…」
陸斗は飾られた写真たてをパタンとふせる。
両親を失った痛みには、もう慣れてしまった。
事故以来、りおに会いに行けないことも納得している。
学園の中で、姿を見かけるだけでよかった。
気持ちを伝えることはできなくとも、想うことはできた。
「もう、好きでいることも、許されなくなるんだな…」
「陸斗―?何してんのー?」
下の階から聞こえてくる凪の声に、陸斗は握りしめていた携帯を机に置いて、自分の部屋を後にした。
ダイニングに入ると、すでに祖母が用意していた食事がテーブルに並べられていた。
自分の椅子に座り、陸斗はふと考える。
『よく考えれば、アイツのいない空間が今では当たり前に存在しているんだな。アイツにとって、俺の存在は……』
「…陸斗?どうしたの?大丈夫?」
隣の椅子に座っていた凪が心配げに顔を覗き込んでいた。
「…ん?あぁ。何でも…!」
『何でもない』といいかけた陸斗の口を凪は自分の手でふさぐ。
「嘘。何でもなくないよね。陸斗、私はここにいるんだから、大丈夫だよ」
「…そうだった…。ごめん、凪」
「ん、よろしい!」
満足げに、二ッと笑う凪に、陸斗の表情もようやく小さな笑みがともった。
りおがそばにいない空間だけではない、凪はそばにいる空間もまた、今では当たり前であり、過ごした時間の分だけ大切で強い絆になっていた。
陸斗は凪の前では強がりは通用しないことを改めて実感する。
祖母と凪と囲む3人での食卓はいつだって明るい。
凪がそばにいる限り、もううつむくことはない。
「じゃあ、凪のこと、送ってくる」
「あぁ、頼むね。気を付けて行ってくるんだよ?」
食後、午後9時を回った頃、凪の母親から帰宅したという連絡があり、陸斗と凪は祖母の家を出た。
満月が照らす夜道は、ただ静かに時が流れていた。
並んで歩きながら、見上げる広い夜空。
「まだまだ寒いねぇ」
息を吐くたび、白くなって消えていく。
「そうだな…」
小さく答えた陸斗の横顔に、凪は笑みをこぼした。
「それで?どうしたの?」
「…何が?」
一瞬の間の後、陸斗は聞き返す。
「だから、隠しても無駄。私が陸斗の変化に気づけないわけないでしょ?」
そういって立ち止まる凪に、陸斗は小さくため息をついてから、覚悟を決めたように歩みを止めて振り返る。
「ただ、もう、想うこともできなくなるんだなと思って、こたえてるだけだよ」
陸斗はそういって、れおとの電話の内容を凪に話した。
これまでは、どんなに離れていても、想っていることはできた。
けれど、りおには想う相手がいるというのに、想い続けることはいつかりおの重荷になってしまうのでは。
陸斗は苦笑混じりにそういって、ため息をつく。
凪は黙って陸斗の話を聞いてから、ぽつりと声を漏らした。
「…せめて、あと少しでいいから、想わせてほしいよ」
「え?」
凪の声はあまりにも小さく、風の音に消されてしまい、陸斗の耳には届かなかった。
「とにかくさ、別に想い続けてもいいじゃない。たとえ、相手に好きな人がいたって、想うことは…自分の心は自由でしょ?」
陸斗を見つめる表情は、笑顔のはずがどこか切なく、悲しげで、この時の陸斗にはその理由がわからなかった。
それでも凪のいう言葉に救われたのも事実だった。
「…そうか、自由…か」
「そうだよ。だいたい、陸斗から、りおちゃんへの想いを取るなんて、想像もつかないよ。強がって見たって、絶対消せないでしょ?」
凪がそういうと、陸斗は若干ムッとした表情で、止めていた足を動かす。
そんな陸斗に凪はクスクス笑みをこぼしながら、陸斗の横に追い付くのだった。
「まぁ、ゆっくり考えなよ。気持ちにケリつけたいなら、少し、周囲に目を向けてみるのもいいかも…なんてね」
凪の提案に対しても、陸斗はフイっとそっぽを向いて歩き続けた。
けれど、ふてくされながらも、その表情はどこか穏やかなものだった。