涙の欠片を鍵にしてPART:1
「あら、2人とも知り合いだったの?」
イクトと吹雪の顔を交互に見ながら、楽しそうにいう先生。
一瞬動きを止めたイクトだったが、すぐにこの状況から次の行動を選択した。
「先生すみません。用事を思い出して…。後ほど改めて伺います」
弾いていたピアノの蓋丁寧にしめてから一礼すると、イクトはすぐさま音楽室をあとにした。
向かう先は3年C組の教室。
そこにいるのは…。
『星河吹雪がまだここにいるってことは、ハルもまだ教室に残っているってことだ。とっくに帰っていると思い込んでいたが…。最初から双葉について行くべきだった』
今のハルには、双葉の本質までは見抜けない。
二人が対峙すれば、ハルは確実に双葉を責めるであろう。
そして双葉は、ハルに対して何の反応も示さない。
『いや、あいつは示せないんだ。だから今はまだ、間に俺が入らなきゃいけないのに』
双葉の事をすべて理解できたわけではない。
理解したなどと、簡単には口に出せない。
これから少しずつ歩み寄っていくもの。
今はまだそのきっかけをつかんだだけに過ぎない。
『でも、そのきっかけを失いたくない。だから…』
イクトは静かに駆け出すのだった。
その頃、3年C組の教室では、イクトの推測通りハルと双葉が対峙していた。
「テメーか…水上双葉…」
あからさまに敵視するハルに、双葉はその場に立ち止まる。
「真中…ハル…」
小さく発したハルの名前。
双葉は慌てて口を手で覆う。
とっさに関わりたくないという気持ちが表出したように1歩後ずさる。
と、ハルがため息をつく。
「お前さ、態度悪くね。吹雪に対して謝ってないのも許せねーってのに、あげく、イクトに取り入ってさ。いったいどんな手を使ったか知らねーけど、あいつのお人好しなところを利用しやがって」
ハルがゆっくりと近づいてくる。
「…っ」
ハルの言葉に双葉の体に緊張が走る。
『逃げたい…。ここにいたくない…だけど…』
後ずさったはずの足が、今度はすくんでしまいその場から動けないまま、ハルとの距離が近づく。
そして、ハルの手が双葉の手首をつかむ。
「っく」
双葉の表情が苦痛に歪む。
ハルの握った手首は、双葉が昨日痛めた部位だった。
けれど、双葉はハルの手を振り払うことはせず、ただハルの視線から瞳をそらすことはしなかった。
「…お前、なんで言い返さねーの?それとも言い訳できないほど図星なわけ?」
そういってハルが乾いた笑みを浮かべた時だ。
双葉の視界が急に暗くなり、代わりに感じるのはぬくもり。
背後から包み込むように回された腕と視界を隠した手は力強くも優しい。
「いい加減にしろ、ハル。その手を今すぐ放せ」
頭の上から降ってくるその声に、双葉は自分の目が熱を持っていくことに戸惑う。
「イクト!なんでこんなやつかばうんだよ!」
「いいから、とにかくその手を放せ!」
珍しく声をはるイクトに、ハルは納得できないままその手を放した。
「ちゃんと説明はしてやる。それまでは双葉に手を出すな」
イクトは言いながら片手を出すと、ハルの手にあった双葉の携帯を受け取る。
そして双葉の表情を隠したまま、イクトは双葉をつれて教室を出ていった。
残されたハルは、自分の手に残る双葉の体温に首をかしげる。
「…俺、なんであんな悪態ついたんだろう…」
教室を後にして、イクトはその足で屋上に向かう。
双葉のけがをしていない方の手を引いて、ただ無言で歩く。
声を押し殺して、涙をぬぐう双葉を背に感じながら、イクトの歩調は双葉のため。
イクトにとっては行きなれた屋上へたどり着いて、外へ出る。
そこでようやくイクトは双葉に向き直った。
「双葉」
そっと呼んだ声に双葉は小さく肩を震わせる。
うつむきながら、必死の涙をとめようとする双葉の頭をイクトはそっと頭をなでる。
「悪かったな。手首、大丈夫か?悪化していないといいんだけど」
「平気…、問題ない…。それに、私、そんなに弱くないから」
少しだけむっとしたように、視線だけをイクトに向けた双葉に、イクトは微笑む。
「確かに、双葉は弱くはない。でも、泣き虫だな、意外とさ」
「う、うるさいな」
いまだ瞳は涙にぬれたまま、けれどそこに悲痛さは存在しない。
あるのは芽生え始めた信頼。
「ほら、ケータイ。まったく、心配したんだ」
ハルから受け取った双葉の携帯はようやく持ち主の手に収まった。
ぎゅっと握りしめた携帯に、双葉の表情が一瞬強張る。
ふとよみがえった先ほどの感覚。
イクトは双葉の差の小さな変化に再び頭を撫でた。
「よく、頑張ったな」
「…え…?」
「ハルを前にして、あんなに怖がったのに、双葉は逃げなかっただろう?それに、俺の前では、素直に涙を流してくれた。そのどちらも勇気がいることだったじゃないか?」
からかいでもなく、同乗のまなざしでもない。
イクトの瞳が探すのは、双葉の心。
イクトだからこそ、気付きぬぐえる涙。
そのすべてが双葉を知るための大切なピースとなる。
「…イクトって、本当にお人好しなんだね。たいてい一言二言話したら、みんな離れていくのに、わざわざ私なんかに関わろうとするなんて…」
「…違うだろ?」
「え?」
イクトは疑問を口にしながら、双葉をまっすぐに見つめる。
「離れていくのは、お前の方だろ?周囲がお前から離れるんじゃない。お前が周囲から距離をとろうとしてるんじゃないか?」
これまでいくどか感じていたことを、イクトハ言葉にする。
と、同時にイクト自身が、これまでの自分にも覚えのある事でもあった。
相手を知ろうとせず、ただ遠ざけていたあの頃。
友人の幅が広いハルとは対照的に関わろうとしなかった頃。
関わろうとしてくれた者にも、心を開こうとしなかった。
今になって、関わろうとしてくれた者たちに優しさを純粋に感じることができる。
大切なのは変わるためのきっかけ。
無理やりにでも陽の光の方へ引っ張ってくれる存在。
『俺にとってはそれがハルだった。双葉にとってのそれが、俺やハルであれば嬉しいかな』
イクトの言葉に黙ってしまった双葉が、何を感じ何を思ったかはわからない。
けれど、誰かがその心に少しでも触れることができたなら、こぼれる涙は笑顔に変わっていける。
「…イクトは…」
「ん?」
「イクトは、怖くないの…?たくさんの人に関わって、自分を知られること…」
双葉の小さな問いかけに、イクトハそっと笑って見せる。
「怖いよ。正直、いつも怖さはある。でも、少しずつ分かってきたこともある。自分が知りたいと思った相手なら、怖くても自分を出さなきゃいけない。そうしないと、相手も本心を見せてはくれないから」
そう考えられるようになったのも、ハルの存在が大きい。
それは偽りようのない真実だ。
イクトの言葉に素直に耳を傾ける双葉。
「大丈夫だよ。いきなりできるものじゃないし、俺もまだまだだ」
苦笑するイクトに、ようやく双葉の表情もほぐれる。
「私にも、できるかな。イクトだけじゃなくて、ちゃんと本当の自分を見せられるかな」
「あぁ、きっとできる。俺も、ハルもついてるんだ。俺の事も、ハルの事も、これから知っていけばいい」
「…うん。…ふふっ、変なの。イクトと話してると、大丈夫な気がしてくる」
イクトは双葉の頭をなでながら、「そうか」と一言つぶやいて微笑んだ。
その頃、吹雪を待つハルは、教室の窓から空を眺めていた。
なぜかいまだに消えないのは、双葉の手をつかんだ感触。
「あいつ、何なんだよ。イクトもかばってばっかりだし。何の反論もしてこなかったし。……。…俺、反論しないやつをひたすら責めてたのか…。しかも、女の子…。うわっ、リオにしれたら怒られるっ!」
独り言ちて、ハルは小さくため息をつく。
「あんなにイクトが怒ったのも久しぶりに見たな。何事も一歩引いてみてるってのに。っていうか、あのイクトがかばうってことは、あいつ、本当はいいやつなのか?」
腕を組みながら、真剣に考えだすハル。
ハルにとってイクトへの信頼は絶大なのだ。
「………だぁー!考えたってわかんねーよ!バカイクトー!」
思考回路が完全にショートしたハルの行きつく先はここだった。
と、背後に微かな気配を感じて、ハルは振り返る。
そこには少々混乱気味の吹雪が立っていた。
ハルの声は良くも悪くも大きく響きやすい。
「うわっ!ごめん、吹雪!びっくりさせたよな?!」
ハルは慌てて謝りながら、自分のカバンを手に吹雪のそばに駆け寄る。
「おかえり、吹雪!もう用は大丈夫なのか?」
「あ、はい。お待たせてしまって申し訳ありません。…先輩、何か悩み事…ですか?」
心配そうに見上げる吹雪に、ハルはバッと顔をそむける。
吹雪の表情やしぐさをみて、これまで感じたことのないドキドキを抑え込むのにハルは必死だった。
「先輩?やっぱり、どこか具合が悪いのでは…」
「違う、違う。吹雪が可愛すぎて、直視できなかっただけ!」
ハルの言葉に、吹雪の頬は赤みを増し、恥ずかしそうにうつむいてしまう。
そんな吹雪に、ハルはクスクスと笑みを見せながら、頭をなでた。
「今は、これで十分!さ、帰るか、吹雪!」
「あ、はい!」
二人で並んで歩く帰り道、春風がそっと頬を撫でる。
ただ隣を歩くだけで、こんなに穏やかな気持ちになる。
ハルにとってはこれもまた、確かに初めての感覚だった。
途中立寄った公園には、クレープの屋台が出ていた。
「吹雪は何がいい?俺はね、イチゴと生クリームとカスタードのやつ!」
メニューを見る前から決まっていたハルの横で、吹雪は真剣な表情で選ぶ。
ほほえましくその姿を見ながら、ハルは待つのだった。
「では、チョコバナナで」
「了解!吹雪は先にベンチで座ってて!俺もってくから!」
「あ、お支払い」
吹雪がお財布を取りだそうする前に、すでにハルが会計を済ます。
「いいからいいから、席とっといて!」
少し先に見えるベンチを指しながら、ハルはニッといたずらな笑みを見せる。
一瞬戸惑いを見せる吹雪だったが、素直にそこへと駆け出した。
その素直さに、ハルは優しい気持ちをもらうのだった。
『ハル、とにかく最初は相手を知る事!特に内面をね!外から見えるものがすべてじゃないわ』
リオの言葉と、その時の笑顔を思い返す。
『リオのいうこと、なんとなく、わかるんだ。でもさ、上手く言えねーけど、こう、掴みきれないというか…。とにかく、俺なりにやっていくしかないよな』
「はい、クレープ二つ、お待たせ」
「あ、どーも!」
ふわりと甘いクリームの香りが漂う。
二つのクレープをしっかりと受け取って、吹雪の待つベンチへ急ぐ。
「お待たせ、吹雪!はい、チョコバナナ!」
「あ、ありがとうございます。あの、クレープ代…」
「そんなの気にしなくていいよ!今日は、俺が一緒にクレープ食べたかったんだから!」
ハスから受け取ったクレープと、ハルの顔を交互に見ながら、吹雪はようやく表情を崩し笑顔を向ける。
「今度、まとめてお礼させてください。ハル先輩にはよくして頂いてばかりで…」
「え、俺、なんかお礼されるようなことしたか?!」
「え?!あ、あの、いつも、していただいていますよ?」
出会ってからたった二日、その二日の間に得たもの。
知らずに与えたもの、与えられたもの。
吹雪にとって、どれほど安心できたか。
ハルにとって、どれほど嬉しかったか。
『きっと、この先、俺は昨日の出会いを忘れることはなんだろうな。吹雪との出会いが、俺にとって、きっと…。…っち』
昨日の出来事を思い出しながら、ハルの頭にはイクトにかばわれる双葉が浮かぶ。
幸せ気分から一転して、ムカムカがとまらない。
「ハル先輩は、本当に優しいです。いっぱい助けていただいています。春宮先生も、ほめていました」
吹雪の柔らかな笑顔と声に、ハルの気分はいっきに回復する。
「忍ちゃんが俺を褒めるなんてめっずらしー!いっつも、イクトばっかりよくいうんだ。確かに、イクトはすごいんだけどさ」
パクっとクレープにかじりつきながらハルが言う。
そのどこか子どもっぽいしぐさ。
吹雪は小さく笑みをこぼしながら、ハルに真似て同じように一口クレープをかじった。
「おいしいです、ハル先輩」
「よかった、吹雪が喜んでくれてさ!」
それから二人は一緒にクレープを食べながら、他愛のない話を続けた。
終始笑顔だったのはハルだけではない。
吹雪にとっては、ハルとの関係はとても温かいものだった。