039
「うわぁっう!」
奇声を発し、葉子は転がるように自分の座っていたベンチから逃れた。いくら呆けていたとはいえ、さすがに一般の人間よりはヤバいことに片足を突っ込んでいる自覚はある。
あははははっ! と快活そのものといった笑い声が天から降ってきた。周囲の人々の関心が少しの間こちらに向く。
ベンチの背凭れの向こう側から、こっちに向かってひらひら掌を振っているのは土佐十子であった……と、思う。
その昔、ステージの上やらその他の集まりやらで遠くから見たことはあるが、すぐにそれと断定出来るほどの親しみはない。
「すごい! 期待以上のリアクション! ……びっくりした?」
「そりゃしますよ!」
何よりサングラスなど掛けていて、一層判りづらかった。目前の人物はシックなロングカーディガンを小粋に羽織り、前身頃の間からは春めいたシャツが覗いている。
全体にいかにもお忍び中の芸能人、といったスマートな雰囲気を纏っていた。
……今は一介の大学生のはずなのだが。
「土佐十子さんだよ~。よろしく。お久しぶり、のほうがいいかな?」
「よろしく、のほうがいいですかね」
SNOWに入ることになった時に雪枝と一緒に引見させられた気もするが、ちゃんと覚えていない。
それよりこの謎の人物が土佐十子と名乗ったことに、葉子は心底ほっとしていた。
違う人間だったらと思うと恐怖しかない。
「いやー、緊張が解けたみたいで良かった! 硬くなられると困っちゃうっていうか、委縮されるの苦手なの。僕」
「いえ、まだそこそこ委縮してますけど……」
「へえ、そうなんだ?」
全く意に介した様子もなく、手を貸して葉子をベンチに座らせると自分もその横に、本当に自然にスッと腰を下ろした。
手馴れた手つきでサングラスをたたみ、
「ふうん、なるほど。なかなか聡そうだね」
ぐいっと顔を近づけて、瞳を覗き込んでくる。
「な、なんすか急に」
「十子さん名物、人物鑑定だよ。ああ、純然たる趣味だからね。あまり気にしないで」
気にするなと言われても無理だ……と考えていて、ふと思い至った。
「あの、なんで私が緊張してるって思ったんです?」
十子は〝あははっ、いいね~!〟とはじけるように笑う。
嬉しそうに人差し指を左右に振りながら、
「そこはほら、〝人物鑑定〟。悪いけど、ちょっと前から所在なげにベンチに座っているキミを観させてもらってたの」
葉子としては雪枝に何か言い含められていたのだろうか、と考えたのだが。
このなんとも飄々とした態度からは何も読み取れなかった。
「で、どう? みんな元気にしてる?」
「み、みんなって?」
「え~~~~~?」
葉子としては、素で何を言っているのかわからなかったのだが十子はいかにも心外だ、と言わんばかりに首を振った。
「SNOWのみんなに決まってるでしょ? ひどいな~。僕、キミたちにそこそこ興味持ってるよ? 昔一緒に戦った仲間なのにさ」
「それはまあ、そっすね」
確かにそういう仲ではある。
しかし当時のチームでは十子ら首脳陣は雲の上過ぎて、いわゆる〝同じ釜の飯を食った〟というような距離感では全くない。SNOWの中でその頃、そういう上の方とコミュニケーションをとっていたのは専ら雪枝であった。
「で、どうなの?」
十子は澄みわたる眼力で、葉子の瞳の奥に潜ろうとしてくるようだった。
『か、顔近っ! っていうか宝塚かよ! タッパもあるし……』
顔立ちは整っている。花のかんばせというよりは、凛々しい猛禽のような美しさだった。
「元気っていやあ、まあみんな元気ですけどね」
少なくとも病気やケガはしてない。
「うんうん。続けていいよ」
……元気ですよ、と終われば良かったのか? いや、おそらくは無駄であろう。しょうがなく、葉子はぽつぽつとSNOWメンバーの近況報告のようなことを喋っていった。
「ふうん……葉子くんはどうなの?」
「ああ、元気は元気っすよ」
近況報告の枕のようなつもりで言ったのだが、
「うっそだぁ~!」
おどけたような声とともに、十子に指で鼻先をつんつんされた。
「ちょっと! 接触は禁止なんで!」
葉子が顔を仰け反らせると、十子は嬉しそうにコロコロと笑った。
『あっ、やばい。私慣れてるな』
いつのまにか十子と普通に話している自分に気付いてしまった。まんまと向こうの思惑通りになってしまっている。なにかモヤモヤというか、イライラのようなものが胸の内に募った。
「ねえ、なんで元気無いの? SNOWのみんなと上手くいってないとか?」
ちょっと考えて、
「……いや、そうでもないです。好かれてはないかなーって思いますけど、ずっとこんな感じなんで」
わりと本心である。
葉子は言わなくても良いことを口に出してしまうタイプなのだが、雪枝以外なら別にどう思われてもいいかな、と考えているフシがある。
「ちょっとヘコんでるのはまあ……自分の不甲斐なさみたいなとこです」
「なるほどね。自分の中に溜め込んじゃうタイプなのね」
十子は身体を離し、ゆったりと座り直した。
「そんなこと言ってませんが?」
「ああー、気にしないで。僕のお気持ち。主観。ご感想だからさ」
『なんだこの感じ……』
グイグイくるタイプは苦手なはずなのだが、話しているとなんとなく気安くなっている。思えば同じ元グループの先輩の武音乙女も数凪もこんな感じだった。




