018
なんか洞窟の入り口にでも立った気分だな、というのが佐神沙希の千代エービルに対する第一印象である。
表玄関にちょっとした警備員の詰め所のようなエリアがあり、声を掛けて身分を明かすとすぐに入館証のカードを持ってくる、と告げて一人がどこかへ行った。
待っている間に首だけ動かして周囲を見てみる。冷静な観察者、といった風貌ではなくその様子は誰がどう見ても〝おのぼりさん〟であろう。
良く言って〝好奇心旺盛な人物〟だ。
その分なかなか調査・捜査の目的でやって来た人物とは見られにくいので、この仕事をしている限り得な性分だと言えた。これは佐神沙希の素に近い振る舞いなのである。
『スゲーピッカピカじゃん。ここだけ見ると会社っていうかホテルのロビーみたいな感じ』
出来て間がないということもあるだろうが、床や壁の端正な佇まいと煌めくような優美さはちょっと想像を超えていた。
『大理石……? かな。なんかこういうのって時々化石があったりするんだよね』
以前ネットの記事で読んだ知識を元に、周囲の石材の表面を目で追ってみる。
しかしパッと見ただけでは模様なのかアンモナイトなのかウミユリなのか、なんともいえない。
「お待たせしました」
いやに愛想の良い警備員からカードを受け取り、礼を言って首からかけた。
カードには端っこの上の方に『GUEST』と書かれている。セキュリティレベルでいえば一番制限のかかる下っ端だろう。
「いやー、なんかさー私も良くわかんなかったんだけどさー、まあ良かったじゃん。日頃の行いがいいんじゃないの? 感謝しろよ!」
「いやいやいや、ちょ、ちょっと待って数凪さん! 感謝って何にですか?!」
通話を切りそうな気配を濃厚に感じ、沙希は慌てている。
ついさっき、千代エービルに向かう路上での話。
一応、話は通っているかどうか数凪に確認の連絡を入れたら、こんな会話が始まってしまったのだ。
数凪はSNOWから千代エーに話を通してくれ、と頼まれたことをすっかり忘れており、昨日慌てて直属の上司に〝ヨネプロの佐神沙希がそちらに行く〟と連絡を取ったのだそうだ。
そこまではまあ良い。本当は良くないのだが数凪なのでしょうがない。
そうしたら、
「どんな理由にしようかなー、〝見学〟とかもなんか違うかな……とか私なりに色々考えてたんだけどさあ、なんか〝あ、わかってるわかってる。あの件ね?〟みたいなさ。そんな反応で。なんかスルスル話が進んでって私ほとんど何も考えなくて良かったんだよ。助かった~。いやもう、な。ほんと感謝だよ。感謝したほうがいいって」
「だから何に感謝なんですか!」
わかっている。そこではない。問題はそこではないのだ。ただ言わずにはおれなかったのだ。
「なんかこう……〝神〟的な?」
沙希も本題ではないので、もうこれ以上はツッこまなかった。
「それで……先方はどう言ってたんです?」
数凪に〝先方〟なんて言うのも妙な感じだ。立ち位置的に。
「どうって?」
「いや、その……私はどういう立場で千代エーに行くことになってるんですか?」
「さあ? 行ってみりゃわかるんじゃない?」
頭がクラクラする。
「こんなふわっとした感じで行けませんよ! もうちょっと何か情報ください」
「いや、それもわかるんだけどね~……探り? 入れるっつうか、どういう話になってんのか引き出してみようか、とかも考えたんだけどさ。下手なことして藪蛇になるかもしれないじゃん? だからやめといたの」
まあ、らしいといえばらしい。沙希はおざなりに礼を言い、通話を切った。
機に臨んで変に応ず、だ。それしかない。
幸いに、入館証は手に入った。声を掛けられるまでは勝手に動き回ってみよう。
沙希は首を動かさず眼の球で視線を彷徨わせながら、まずは一階をブラブラをしてみることにした。
千代エージェンシーのビルは、真ん中がぽっかり空いていて青天井の見える吹き抜けになっている。屋根がないので排水は何か工夫がなされているのだろう。
真上から見ると建物は、カタカナでいえば〝ロ〟漢字でいえば〝口〟の形である。
沙希は事件現場であるところの、吹き抜けの庭に出てみた。
あんなことがあったので立ち入り禁止になっているかな、とも思ったのだが特に制限もない。
『おお……こりゃキレイ』
ガラス部分が陽光を乱反射し、おとぎ話に出てくる魔法の庭に迷いこんだような気分になる。青々とした植物たちも、きらめきを浴びながら心なしか嬉しそうに見えた。
まだ新しく、立地が立地だけに虫などもいない。小一時間くらいなら快適に過ごせそうだ。
『妖精さ~ん、なんつって。メルヘンじゃないっての』
この上なく地上的な、俗物たちが集まるこの建物の中心は何か荘厳な気が満ちていた。若木の柔らかな匂いが鼻の先を掠めていく。
周囲を鋭角な直線で切り取られたこの空間を、沙希はなんとなく無機質な人工の神殿のようだ、と思った。
『おっかしい! なんそれ』
一寸間を置いて、沙希は吹き出してしまう。
〝人工の神殿〟なんて言い方はない。少なくとも今、地球上に人の手で造られていない神殿は存在しないからだ。
『天然ものの神殿? って』
空から降ってきたり、海から浮上したり。
何か奇妙に、感情の上では辻褄があってしまうような妄想をひとしきり楽しんだのち、沙希は我に返った。
『さて、真希が落ちたところってどの辺りだろね』
しばらく植物の中をウロウロして、緑の灌木の根本にお供えのように花が並べられているところを見つけた。
『ん~?』
何か違和感を感じ、顔を近づけてみる。どうも造花のようだった。
これっぽいか?
危うく手を伸ばしそうになり、慌てて引っ込めた。さすがにデリカシーがなさすぎる。
バラ、ユリ、チューリップ。丁寧に並べてはいるが、バラバラな印象で味気ない。事故現場に置く花に種類の決まりなどないだろうが、なにかおかしな感じだ。
見上げてみると、ちょうど大きな樹木の下になっていた。注意して見ると、真ん中のほうでところどころ枝が折れている。
『当たりっぽい』
沙希は反射的に一歩下がった。もう片付けられてはいるが、死体があった場所を踏んでしまうのは躊躇われる。
ちょうど太陽が真上に来ていることもあり、緑の葉が光の薄絹を纏ったようにきらきらしていた。
公園の匂いだ、と沙希は思った。
どこかで嗅いだことがあったのだろう。彼女は知らなかったが目の前の樹は楠である。
樟脳の源となるつーんとした匂いが身体に沁み込んできた。なんだか頭の中心がしゃきっとする。
交差する枝の向こう、ポッキリ折れた細い枝を越えてビルの内側の壁面が見えた。下から数えて六階……七階、どうやらあの辺りから落ちたらしい、と沙希は推測する。
しかし……枝に当たって緩衝したのなら死なずに済んだのではないか? という気もする。
地面も土だし、この穏やかな空気に包まれていると、そんな気がしてくるのだ。
まあ、服が引っかかってちょうど頭から落ちるような恰好になったのかもしれず、運が悪かったということだろう。




