第98話 感謝してね、可愛い弟くん
◆レオン視点
レナの処置は、途切れることなく続いていた。
灯りの下、血の匂いと薬草の香りが混ざり合い、時間だけが静かに削れていく。
待合室で、レオンは壁際に立っていた。服も髪も乾ききらない赤に汚れ、力なく垂れた左腕には、ディアンが応急に巻いた布が、もう赤く滲み始めている。
痛みはあったが、そんなものに構っている余裕はなかった。
処置室の扉は、まだ開かない。
その沈黙を、鈴の音に似た足音が割った。
レオンが視線を上げる。
金に近いプラチナの髪に、紅玉のような赤い瞳。白いジャケットを羽織った青年が、場違いなほど優雅に立っていた。
どこかの貴族と見紛うほど、整った佇まいだった。
青年は待合室の空気など気にもせず、軽く手を振る。
「ふふ、久しぶりだね。何年ぶりかなあ?」
イリアを認めるとレオンの肩がわずかに強張る。
「……兄さん」
驚きと警戒を滲ませて、睨みつける。
イリアはその視線を受けても、微笑を崩さなかった。
赤い瞳が、レオンの全身を上から下までゆっくりとなぞっていく。乾いた血。焼けた左腕。布の下から滲み続ける赤。
「ずいぶん壊したねえ。自分の身体」
心配しているようには聞こえなかった。
「腕、動かないでしょ。神経まで焼けてる。治すなら、早い方がいいよ」
「……放っておけ」
レオンが低く言い捨てると、イリアはくすりと笑った。
「うん。君ならそう言うと思った」
レオンも、それ以上は何も言わなかった。
「冷静さは戻った?」
「さっきよりはな」
短いやり取りの間にも、処置室から小さな金属音が響いてくる。器具の触れ合う音。誰かが息を詰め時間に追われる、慌ただしい気配。
イリアの赤い瞳が、扉へと滑った。
「ファウレスの娘、まだ処置してるの?」
「……ああ」
「うん、手間取ってるね。傷の数が多いから、普通に塞いでたら時間がかかると思うよ」
そう言ったかと思えば、イリアは迷いなく扉へ向かった。
「処置室はここかな」
「……兄さん?」
呼び止めるより早く、イリアはノックもせずにするりと中へ入っていった。
レオンもすぐに後を追う。
室内では、ディアンとユージンが汗と血にまみれながら処置を続けていた。灯りの下、診察台に横たわるレナは、白い顔のまま動かない。
その姿を目にした瞬間、胸の奥が冷えた。
「あなた誰ですか!? 今、処置をしてる最中で……!」
ユージンが振り向きざまに叫ぶ。
ディアンも顔を上げ、目だけで侵入者を測った。
イリアは笑みを残したまま、低く言う。
「ちょっと、どいてくれる? 順番に塞ぐより、まとめて塞いだ方が早いよ」
「何言ってるんですか!? 先生も何か言ってやってくださいよ」
「……何をするつもりだ」
ディアンはイリアを睨みつけた。
「ふふ。僕のは、治療じゃないよ」
「……何?」
「残ってるものを使って、壊れる前に近い形へ組み直すだけ。裂けた血管も、ずれた組織も、元の位置に戻して固定する」
あまりにも当然のことのように言って、イリアは診察台へ視線を落とした。
「失った血までは戻せないし、傷が治るわけでもない。でも、出血が止まれば、あとは君たちでどうにかできるでしょ?」
ディアンの眉間に皺が寄る。
「……そんな術式、聞いたことがない」
「うん。そうだろうね」
イリアは、楽しそうに微笑んだ。
レナの身体は白布に覆われ、呼吸は浅い。血を失った肌はひどく冷え、蒼白な腕にはいくつもの裂傷が走っている。
イリアはその姿を見下ろしていた。
赤い瞳からは、何を考えているのか読み取れない。
「……このまま悪くなられると、楽しくないね。まだ、ちゃんと再会すらしてないのに」
呟くと、空気が反転した。空間そのものが裏返ったような圧が走り、静寂が軋んで揺れる。
魔術陣はない。詠唱も触媒もない。
それでも、そこには確かに魔があった。
イリアの指先から、薄紅色の光が滲む。
封じられていた古い術式の気配が、部屋の温度を奪っていく。
「壊れたものを、完全には直せない。けど」
イリアはレナの額に、静かに指を当てた。
「……処置が間に合う程度にはできるよ」
まばゆい光が走り、レオンは息を止めた。
裂けた血管の断端が元の位置へ引き寄せられていく。
開いた傷口が内側から仮に塞がれ、ずれた組織が正しい場所へ押し込まれる。
治癒とは違っていた。
生体そのものを、正しい形へ無理やり縫い直しているように見えた。
強引で痛々しい再構築なのに、出血は止まった。
レナの浅かった呼吸が、わずかに安定していく。
それを見たレオンの指から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「こんなことは……あり得ない……!」
ユージンが息を呑むと、イリアは微笑んだ。
「うんうん、あり得ないよね。だから、こうして僕がやってるんだ」
笑顔の形だけが、そこに綺麗に残っていた。
レオンは診察台へ近づいた。
「……イリア」
赤と青、二人の瞳が交錯する。
イリアは、レオンがレナの呼吸を確かめるのを待つように、ほんの少しだけ身を退いた。
「やあ、レオン。とりあえずあの女の子は戻しておいたよ」
無造作に言い捨て、イリアはレオンの脇をすり抜ける。
そして、すれ違いざまに耳元へ唇を寄せた。
「ちゃんと感謝はしてよね。可愛い弟くん」
レオンの眉間がわずかに寄った。
昔から、こういうところだけは何も変わっていない。
言い返すより早く、イリアの肩がレオンへ軽く触れると空間が張り詰めた。
白いジャケットがひらりと翻り、イリアは扉の向こうへ消えた。
レオンはその背を追わなかった。
視線を戻すと診察台の上で、レナの胸が小さく上下している。
まだ息をしている。まだ生きている。
それを確かめるように、レオンはしばらくその場から動かなかった。




