第8話 試してみるか
夜の研究棟を青白い魔術の光が照らしていた。
オルフェ・クライドは机に肘をつき、光の投影を無言で見つめていた。
(やはり……あの構造だ)
淡く揺らぐ術式の痕跡は、魔竜の森で採取した魔力データの再現。
何度目かの解析を繰り返し、指先で構文をなぞる。
(魔竜の森で確認した魔術痕跡と、似ている)
脳裏に、あの日の光景がよみがえる。
灰と煤に覆われた大地。炭化した木々。魔力の渦が地層をえぐり取っていた。
そこには、二つの異なる魔術波形が残っていた。
一つは、途絶えたはずの“血脈”──ファウレスの痕跡。
そしてもう一つ。
その血を“守るように”重なる、異質な魔力。
(……あの剣士の波形だ。間違いない)
空間干渉を伴う切断痕、無詠唱の連撃。
常人では再現できない精度。
(学院で見た彼──レオン・ヴァレント。あれは偶然じゃない)
オルフェは小さく笑った。
「……ファウレスの血を、意図的に“隠す”魔術。何のために、隠す?」
独り言のように呟き、机の上の光を手で払う。
青白い輝きが消え、研究室は闇に沈んだ。
紫の瞳が、暗闇の中でかすかに光を帯びる。
(面白い。──もう少し、調べてみる価値があるな)
***
昼休みの鐘が鳴った瞬間。
「ねっ、学食一緒に行かない? 期間限定ランチ、食べたかったんだ〜」
サラがレナの腕を軽く引いた。
教室内のレナに対する冷たい視線など気にも留めず、笑顔のまま。
「……私と? いいの?」
レナが戸惑いがちに聞くと、サラは目を丸くして、すぐに笑った。
「あはは、何言ってんの〜! レナと行きたいの!」
「うん、行こう。私も食べたかったんだ」
レナの顔に、自然と柔らかな笑みが浮かぶ。
エリックがEクラスに来てから、落ちこぼれと呼ばれていたレナに向けられる露骨な陰口や嫌がらせが減っていた。
たったそれだけのことが、どれほど嬉しいか。
並んで歩くだけで、レナの胸の奥がじんわりと温まっていくのを感じていた。
二人は並んで食堂へ向かい、メニューを覗き込んでは「これ美味しそう」「いややっぱこっち」と小声で笑い合った。
「エリックっていい人だよねー。元Sなのに、全然気取ってないし」
「うん、そうだね。彼のおかげでEクラスでも少し過ごしやすくなった気がする」
トレイを持ちながらそんな話をしていると、サラがふと話題を変えた。
「そういえば、この前のSクラスの模擬試合だけどさあ」
席についたサラは、ちょっと目を輝かせて言う。
「レオンってあんなに強いんだね。戦ってるところ初めて見たけど、すっごい迫力だった!」
「……そうだね。でも、あのまま戦ってたらどうなってたのかな。オルフェって人、あんなに強いと思わなかった」
レナは俯く。するとサラがぱっと身を乗り出す。
「ねぇ、あれ絶対モテるでしょ。あの『俺は誰にも興味ない』オーラ、逆に危ないって!」
「いや、危ないは危ないよ……別の意味で」
「ま、まあ、見るだけタダだし! 推すだけなら無害だし!」
「推しって、レオン?」
「ち、違うし! あの強さを推し活してるだけ! 本人じゃないし!」
「ふーん?」
レナが笑うと、サラは顔をそらしてストローをいじった。
その横顔は、ほんの少しだけ赤かった。
***
その数日後。
オルフェ・クライドは、図書館で本を開きながらも、視線の端でEクラスの少女を見ていた。
少女──レナ・ファリス。
柔らかな赤い髪、くるくる変わる表情、平均以下の魔力量。
記録上は“平凡”で、“特筆点なし”と記される女子。
だからこそ、オルフェには不可解だった。
(レオン・ヴァレント。あの男が……Eクラスに、頻繁に足を向ける理由がわからない)
あの男は異質で、理性的なふりをしているが、根底には暴力の影と支配欲の熱を孕んでいる。そんな男が、最下層の平凡な少女と話すためだけにEクラスへ行っている。
(“レナ・ファリス”、魔力量、E-。実技成績、下位。座学も中の下……特に光るものはない。人格は“温厚・協調型”。仲の良い相手は、今はエリック・ハーヴィル……あのうるさい男か)
ページを捲るフリをしながら、観察を続ける。
少女は、ふわっとした雰囲気で、悪く言えば、学院には向いていない。魔術師になるより教師か、絵描きか、誰かの隣で笑っている役が向いている。
(この学院にいること自体が、間違っている)
そう思いながら、ふと気づく。
(……ああ、そうか。孤児だったな、この子)
彼女の提出書類の端に、そう記されていた。
「保証人なし」「出自不明」「両親死亡」──
それは、かつてオルフェ自身が提出した書類と酷似していた。
(似ているのは、立場だけだ)
あまりに普通で、だからこそ不可解な存在。
レオンの執着対象になっている理由がわからない。
レナが手にしているのは、基礎魔術の理論書と、魔力操作に関する初心者向けの副読本。読み込まれたページには、ところどころ付箋が挟まれている。
彼女の仕草は控えめで、誰とも目を合わさず、けれど周囲への配慮は忘れない。
棚の間をすり抜けるように動き、閲覧スペースの隅に腰を下ろした。
そんな彼女の背後に、白銀の髪の少年が近づいた。
本を抱えているフリはしていたが、ページを開く気はなかった。彼の瞳は、じっと少女の横顔に向けられている。
──静かに、淡々と、観察するように。
(やはり……“平凡”だ。喋り方も、佇まいも、目立たない)
やがてレナは席を立ち、読み終えた本を丁寧に返却棚に戻し、職員に一礼してから、図書館をあとにする。
その背中を、オルフェは目で追いながら、微かに息を吐いた。
(何なんだ、この子は)
その疑問が、彼にとっては既に「興味」へと変わっていた。
レナが扉を抜け姿が見えなくなった後、オルフェは棚に背を預けたまま、誰に向けるでもなく呟いた。
「……試してみるか」
感情はなかった。あるのは実験者としての純粋な探究心。
この少女が、何を引き寄せ、何を壊すのか。
それを知るには、世界の側を壊してみるしかなかった。
興味は、やがて導火線になる。
その火種が、まだ無垢な少女に向けられていることに──彼は、何の躊躇いも持たなかった。




