第6話 見慣れない顔
※本話には軽い暴力・流血描写を含みます。苦手な方はご注意ください。
夜風が、街路樹の枝をかすかに鳴らしていた。
レナは両腕いっぱいに食料の袋を抱えて歩いていた。
どこか浮き立った足取りだった。
(今回は……ちゃんとしたバイトだった! 危ない仕事じゃないし、即金だったし!)
心の中で小さくガッツポーズをする。
今日は久しぶりに、野菜と肉の両方が買えた。
(早く家に帰ろっと)
──そう思った矢先、背後の足音に気付いた。
(……誰?)
歩調を速める。
だが、靴音も同じ速度で近づいてくる。
冷たい汗が背中を伝った。
(いや、気のせいじゃない……つけられてる)
息を呑む間もなく、影が横切った。
そして、視界の端に銀色の線が閃く。
「動くな」
低い声とともに、ナイフが喉元に突きつけられた。
冷たい刃の感触。反射的に体が硬直する。
次の瞬間、腕を掴まれ、背中を壁に押しつけられた。
袋が地面に落ち、リンゴが転がる音が夜に響いた。
「こっちに来い」
荒い息。男の手がレナの腕を締め上げる。
抵抗の動きより早く、頬を強く叩かれた。
口の中に血の味が広がる。
(……まずい。このままじゃ──)
そのときだった。
背後の空気が一瞬、凍るように張りつめた。
「遅いと思ったら、こんなところで何してる」
夜の闇を割って、低い声が落ちた。
金の髪が月を弾き、碧い眼が静かに光る。
レナはその姿を見て、息を止める。
「……レ──」
呼ぼうとした名は、刹那の音で途切れた。
男のナイフがレオンに向かい横薙ぎに振られたからだ。
レオンはほとんど動いていなかった。
ただ一歩踏み出し、男の腕を掴み、逆方向に折る。骨の砕ける乾いた音が鈍く響く。手にしていたナイフが音を立てて地面に転がる。
悲鳴を上げようとした男の喉を、踵で蹴り上げる。空気が潰れるような鈍い音。男が倒れ込む。
「……そいつを傷つけて、無事でいられるとでも?」
「レオン……もう、やめて……」
レナの声が震える。だが、届かない。
「そうだな。時間の無駄だ」
レオンは男の落としたナイフを拾い上げた。
手慣れた手つきで、そのまま胸の奥へと突き立てる。何のためらいもなく。
倒れた男の口から一瞬のうめき声。
それを見下ろすレオンの表情には、感情がなかった。
“動かなくなった”という事実を確認するだけだった。
レナには、その無表情が一番怖かった。
そして、同じくらいに安心してしまった自分が、もっと怖かった。
「……もう、お前は寮に戻れ。俺は、後で帰るから」
振り向いたレオンの声は、驚くほど柔らかかった。その温度差が、かえって背筋を冷たくする。
「えっ、あっ、う、うん……」
レナは慌てて食料を拾い上げる。震える手で袋の口を掴んだ。
「ああ、そうだ。後で、俺の部屋に来い。話がある」
レナは何となく気まずくなった。
バイトしたことが、薄らとバレている気がした。
ただ、うつむいたまま足早に去った。
***
「で、言い訳はそれで終わりか?」
深い海のような青の瞳が、真っ直ぐに射抜いてくる。
部屋の空気が、わずかに重くなる。
ソファに腰掛けたまま、レオンは穏やかに微笑んでいた。
床に正座しているレナは、視線を落としたまま、指先をいじっていた。
「え、えっと……」
「言ったはずだ。働くなと。これで何度目だ?」
「三度目……くらい?」
「四度目だ」
レオンは短く息を吐き、彼女の頬をそっと触れた。その指先が、さっき叩かれた場所をかすめる。
「──っ……!」
痛みにレナは息を呑んだ。
「腫れてる。後で冷やした方がいいな」
「だ、大丈夫だよ…!それより、本当にもうバイトしたらダメなの?」
彼は手を離すと、天井を見上げた。
灯りの反射が、金色の髪を淡く照らしている。
「ダメだ。色んなトラブルがあっただろ」
「……ギルドは?」
「お前、魔竜の森でのこと、忘れたのか?なんであんな目に遭ってるのに、まだ働きたいんだよ。金が足りないのか? あといくら欲しい?」
レオンはテーブルの上に銀貨の入った袋を出す。
「そんなんじゃないよ……レオンに甘えるわけにはいかないから」
レオンは、静かに笑った。だが、どこか刺すように冷たい。
「なあ、俺がいなかったらどうしてたんだ?」
「そ、そんなの、隙を見て逃げるに決まってるよ」
「逃げる? 甘いにも程があるな。お前には無理だよ」
「うう」
レナは反論できずに縮こまる。
「とにかく、その袋に入ってる金はお前に渡しておく。充分あるはずだ」
「受け取れないよ」
レナは首を振った。声は小さく、しかし確かな意志を帯びていた。
「いらないなら捨てろ」
しばらくの沈黙の後、レナはため息をついた。ゆっくりと手を伸ばして、袋の端に触れた。
***
学院の教室。朝の光が差し込む窓際の席で、レナは机に突っ伏していた。
「あはは! レオンにバイトがバレて、怒られた?」
サラが腹を抱えて笑う。
向かいに座るエリックまで、苦笑している。
「……笑いごとじゃないよぉ……」
顔を伏せたまま、レナは情けない声を漏らした。
「折角、まともなの紹介したのになあ」
エリックの声は優しいけれど、どこか呆れている。
「普通の仕分けバイトだったんだよ!?」
レナは顔を上げた。
昨日暴漢に叩かれた跡が、まだうっすら赤い。
「でも、暴漢とか怖いね。無事でよかったけどさ。レオンが捕まえたんだっけ?もしレオンがいなかったらゾッとするよねー」
サラがふと真面目な声を出す。レナは本当の結末を、誰にも言えなかった。
エリックは何となく察しをつけながら頷いた。
「この街、最近物騒だしな。学院の外は、魔力犯罪も増えてる。……しばらく気をつけた方がいいかもなあ」
「うん……暫くはバイトは無しかなあ」
レナは小さく笑って、二人を見た。
その笑顔には、昨日の恐怖がまだ少し残っている。けれど確かに“日常”が戻ってきていた。
***
レオンがSクラスの教室の扉を開ける。そこには見慣れない顔──復学したという青年が教室に来ていた。レオンはその姿に思わず眉をひそめた。
オルフェ・クライド。
黒い学院制服を着崩し、白衣のような上着を肩から滑らせている。一見すれば、ただの不真面目な生徒。
だが、足を止めさせるほどの“異質さ”がそこにはあった。
(……隠してるつもりか?)
無造作な銀髪。紫の瞳。童顔めいた柔らかい顔立ち。普通なら人畜無害に見えるはずの外見なのに、纏っている空気はまるで逆だった。底の見えない結界の残滓のような気配。一歩でも間違えれば、全てを焼き払うような“理性を欠いた危険”の匂い。
(あの顔で……中身は、化け物か)
オルフェの瞳が、一瞬だけこちらを捕らえた。
感情の温度が一切ない瞳。標本を見るような視線。
戦う意思を見せてはいない。だが、あの視線は「分解してしまいたい」と無言で言っているのと同じだった。