第50話 闇の狩場
◆学院近くのレストラン前/レナ視点
夕食に連れてこられたのは、学院近くにある小さなレストランだった。表通りに面した古い煉瓦造りの店で、磨かれた窓硝子の向こうには蜂蜜色の灯りが揺れている。木のテーブルには白いクロスがかかり、焼きたてのパンと香草の匂いが、控えめな音楽に溶けていた。
テーブルの向かいで、レナが湯気の立つスープを一口飲む。
その瞬間、少しだけ目を細めた。
「……おいしい」
ぽつりと零したその一言に、レオンは水のグラスを置いた。
「そうか」
彼はそれ以上何も言わず、ただ料理に手をつけるレナを見ていた。
魚の香草焼き、温野菜、淡い色のポタージュ。
普段の食事よりずっとまともで、ずっと静かだった。
「退院できてよかったな」
レオンにあまりにも自然に言われて、レナは一瞬きょとんとする。
「え」
「快気祝いだ。好きなもの食べろ」
いかにも気のない言い方だったが、それが彼なりの気遣いだと分かるくらいには、レナももう彼を知っていた。
思わず、少しだけ笑ってしまう。
「……ありがとう、レオン」
食事が終わる頃、レナが顔を上げた。
「ごちそうさま。……すごく、おいしかった」
「そうか」
レオンは短く返した。
やがて店員が伝票を置き、レオンはそれを無言で取り上げる。
「え、あ……私も払うよ」
「いらない」
それだけ言って立ち上がり、会計を済ませてしまう。
レナは慌てて後を追うしかなかった。
店を出ると、夜気は思ったより冷たかった。
表通りにはまだ人の流れが残っていて、レストランの窓からこぼれる灯りが石畳を照らしている。
レオンは黒いコートを羽織りながらレナを見る。
「……どこか行くの?」
「ああ、用事がある。寮まではすぐだ。寄り道せずに帰れ」
短く告げる声に、レナは小さく頷く。
「……うん。わかった」
少しだけ間があった。
何か言おうとして、結局言えないまま、レナは笑う。
「今日は、ほんとにありがとう」
レオンは答えない。
ただ、視線だけを一度だけ寄越した。
「早く行け」
促されて、レナは寮の方へ歩き出す。
数歩進んでから振り返ると、レオンはまだその場に立っていた。角を曲がるまで見届けるつもりなのだと分かって、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
やがてレナの姿が通りの向こうへ消える。
***
◆街外れの洋館/レオン視点
その瞬間、レオンの顔から全ての“人間らしさ”が剥がれ落ちた。
無表情、無感情。ただ、静かに手袋をはめる。
革の黒手袋の、パチン、という音が夜気に響いた。
夜の街の、照明の届かない裏通りを抜ける。
向かったのは、街の外れにひっそりと佇む古びた洋館だった。蔦に覆われた黒い鉄門。灯りのない窓。誰も住んでいないように静まり返った外観。だが、正面ではなく脇の通用口だけが、わずかに開いている。レオンは迷いなくその隙間に身体を滑り込ませた。
中は、外観ほど荒れてはいなかった。磨かれた床板に、古い絨毯。薄暗い廊下の奥から、かすかなヒールの音が響く。
「遅いわよ、レオン」
赤いドレスに身を包んだ女が、薄暗い応接間の中央に立っていた。巻き髪を美しく整え、艶やかな唇には紅がひときわ鮮やかに浮かぶ。
──仲介屋、リゼ。
表の顔は高級サロンの女主人。裏の顔は、闇仕事を斡旋する冷酷な情報屋。
レオンは無言で歩み寄った。
さっきまで食堂でレナと向かい合っていた青年の面影は、もうどこにもなかった。
「今回の標的は“組織を裏切って情報を流した者”。粛清で構わないわ」
「……何人だ?」
「二人。男と女。小物だけど、口が軽いのは処理しないと他に影響が出る」
リゼが無造作に紙束と地図を差し出す。レオンはそれを片手で受け取り、もう片方の手をゆっくりと腰の剣の柄に添えた。
「旧市街地。今は解体予定の劇場地下を根城にしてるみたいね。魔力の痕跡もあったわ。多少の抵抗はあるかも」
「──問題ない」
短く答えると、レオンは背を向けて歩き出す。
「気をつけてね。女の方、かつてそれなりに名のあった魔術師だって噂よ。……でも、あなたなら大丈夫ね」
「……邪魔をするなら、誰でも斬るだけだ」
そう呟き、レオンは振り返ることなく屋敷を後にした。
***
◆旧市街・地下劇場/レオン視点
標的の潜伏先。
地下劇場の控え室跡は、埃にまみれ、崩れかけた壁が広がっていた。ただ、残響がよく響くこの空間は、声や魔力の気配を探るには最適だった。
「チッ――誰か来やが……っ!」
「リゼの差し金か!? 俺たちはまだ何も――」
鞘が鳴る。次の瞬間には、レオンはもう男の懐にいた。
斜めに走った刃が、男の胸を深く裂いた。
肉を断つ鈍い感触。遅れて、熱い血が跳ねる。
男の身体はそのまま壁際まで叩きつけられ、脇に積まれていた木箱を巻き込んで崩れ落ちた。乾いた埃が舞い、潰れた呻きが短く途切れる。見開かれた目から、焦点が消えていく。
女が息を呑んだ。
「ま、魔術――!」
足元に魔法陣が走る。
青白い光が床を這い、術式が立ち上がる。
レオンは血を払う暇もなく剣を引き抜き、そのまま横薙ぎに振った。刃は魔法陣の核を断ち、女の身体ごとまとめて裂く。
びしり、と硝子の割れるような音。
組み上がりかけた術式は形を失い、光の破片になって闇へ散った。
遅れて、女の体が崩れ落ちる。
重たい音が床に沈み、それきり地下劇場は静まり返った。
二つの気配が消えたことを確認して、レオンは小さく息を吐いた。剣についた血を布で拭い、鞘に収める。
呼吸一つ乱れていなかった。
***
◆街外れの洋館・応接間/リゼ視点
討伐を終えたレオンが戻ったのは、先ほどの洋館だった。
表向きは死んだ屋敷のまま、応接間にだけ灯りが残っている。深紅のソファに身を沈めたリゼが、ワイングラスを緩く傾けている。
「おかえり。……綺麗にやったみたいね」
レオンは黙って向かいの椅子に腰を下ろした。
手袋はすでに外している。
「痕跡は消した。連絡手段も潰してある」
「優秀ね。ほんと、あなたほど手際のいい子はなかなかいないわよ」
リゼはワインを一口含み、机の上に報酬の袋を置いた。
銀貨の重い音が響く。
「……仕事だろ。それだけだ」
レオンは無表情で答えた。
「ええ、知ってるわ」
リゼはグラスの縁を指先でなぞりながら、レオンの頬を見た。
返り血が、一筋。拭い忘れたのか、拭わなかったのか。
「頬、ついてるわよ」
レオンは指の背で頬を拭った。
赤黒い筋が皮膚の上を引きずられ、消えた。
リゼはその仕草を、グラス越しに見つめていた。
(――この子は、こういう顔で人を殺すのね)
美しいだけの、空洞。
それがリゼにとってのレオンだった。
「ねえ、レオン」
声を少しだけ落とす。
「あなた、最近……変わったわよね。ほんの少しだけど」
レオンの手が、一瞬止まった。
「何が言いたい」
「ふふ、別に」
レオンは視線をリゼに向けた。
碧い目には何も映していない。
――少なくとも、リゼにはそう見えた。
「……お前に関係ない」
「そうね」
リゼはワインを飲み干した。
ザイラスの件を聞くつもりだった。
レオンが関与していた可能性は、リゼの情報網ではすでに掴んでいる。
だが、今日はやめておく。
あの一瞬の間。
変わった、という言葉を投げた時の、微かな停止。
レオンがああいう反応をするのは、初めてだった。
追い詰めるなら、今じゃない。
リゼは空になったグラスを置き、口元だけで笑った。
(……その理由は、じっくり見せてもらいましょうか)
レオンが去った後の応接間に、返り血の乾いた匂いだけが、かすかに残っていた。




