第4話 オルフェ・クライド
◆校舎・廊下〜中庭/放課後 ― エリック視点
放課後の廊下は、いつもよりざわついていた。
理由は一つ。名前が出るだけで空気が変わる類の噂だ。
「オルフェ・クライドが復学するらしい」
どこから始まったのかは分からない。
けれど、廊下の端から端まで、その囁きは染みていた。
エリックは足を止めた。
胸の奥で、古い記憶が嫌な音を立てる。
(確か、サラも言ってたな。──あいつが戻ってきたら、また誰かが死ぬ)
結界訓練の日。
制御を失った術式が、教室を“事故”の形にして塗り替えた。
泣き声より先に、熱と光だけが走った。
エリックは歩調を早めた。
中庭へ抜ける扉の向こう、陽の当たる石畳に、白衣が見えた。
制服の上に羽織った、無地の白衣。
その背中は、周囲のざわめきから切り離されたように立っている。
「……エリック・ハーヴィル。久しぶりだね」
声は静かで、しかし確信に満ちていた。
振り返ると、白銀の髪に紫の瞳。穏やかな微笑。
「オルフェ……お前、本当に戻るのか」
エリックの問いに、オルフェは軽く頷いた。
「ああ。教官に挨拶に行くところさ」
彼は首元のペンダントに指を添え、楽しげに言う。
「魔竜の森の異常反応は耳にしたかい? 俺は現場を一度見たが、空気が妙だった。復学しないと研究が続けられないだろう?」
エリックは眉をひそめる。
「また、誰かを壊すつもりか」
皮肉の形をした警告。
だが、オルフェの笑みは揺れない。
「あれくらい止められない方が悪いよ」
淡々と、悪意もなく言い切る。
「そういえば、君はもうSクラスじゃないんだって?」
「倫理観最悪なお前と一緒にいたくないからな」
エリックは短く言い放つ。
「上の空気が腐ってる。……利用できるなら何でも使う」
「ここはそういう所だよ。最初から、ね」
オルフェは肩越しに空を見上げた。
「それで、君はどうするの」
「お前には関わらない。もう誰も巻き込ませない」
エリックは即答した。
オルフェは小さく笑った。
「君がそう言うなら、きっと関わることになるよ」
意味の分からない言い方だった。
なのに、嫌な予感だけが綺麗に残る。
エリックは何も返せず、中庭を抜けた。
石畳の上で、白衣の男は静かに立ち続けている。
空気は変わらない。
それでも、世界は少しだけ冷たくなっていた。
***
◆オルフェ視点/Sクラス
オルフェ・クライドが教室の扉を開けると、空気が変わった。
いつも通り、空調の効いた魔術制御空間。カリグレア魔術学院、Sクラス。
休学の穴を埋めるように並ぶ机と椅子。その配置だけが、何事もなかった顔をしている。
静かな空間の中、いくつかの視線がこちらを刺すように突き刺さる。
オルフェはそのすべてを無視した。
(変わらないな、この場所も。変わるのは生徒だけだ)
事故の件を、誰も口にはしない。
けれど、何人かは明らかに身構えていた。結界の癖で分かる。視線が先に逃げる。呼吸がわずかに浅い。
その中に──見慣れぬ顔があった。
金髪、碧眼。肩にかかる短髪。
机に向かい、淡々とノートを取っている。周囲のざわめきに反応しない。
(……新入りか。俺がいない間に、変なのが入ったもんだ)
そう切り捨てかけて、オルフェは眉をわずかにひそめた。
(……ん?)
輪郭。目の形。首の角度。
見たことがある気がする。
記憶の中のどこかが、薄い針で刺されたみたいに痛む。
(……似ている)
口には出さない。ただ、視線が勝手に吸い寄せられる。
その新入り──レオン・ヴァレント。
何人かが、ざわめいた気配に気づき、オルフェの目線を辿った。
だが、レオンは気づかない。気づかないふりではない。そもそも必要がないという顔をしていた。
(面白い)
オルフェは自分の席につき、背筋を伸ばして座る。
(調べる必要がある。偶然の顔じゃない)
ふと、視線が横へ滑る。
かつて隣にいた席。今は空いている。
エリック・ハーヴィル。
うるさくて、正しくて、邪魔な男。
教師は席だけ残しているらしい。だが、本人はもうここにはいない。
エリックの声色や言葉の端々が、記憶の中に蘇る。危険だからやめろ、命を軽んじるな、結果より過程を──そんな建前を何十回も聞かされた。
(……倫理だの規則だの。口を開けばそればかり。結果がすべてだろう。手段に価値を置くのは、敗者だけだ)
空席は静かだった。
静寂の方が、遥かに心地いい。少なくとも、もうあの声を聞かずに済む。
***
魔術理論の講義室。黒板に映し出される術式を、オルフェは淡々と写していた。
指先が数式を追い、頭が計算を組み立てる。
それなのに、不意に意識が別の一点へ引っ張られた。
(……レオン、だったか)
教室の後方、静かに席に着く金髪の少年。
ただ座っているだけなのに、周囲の空気が違っていた。
緊張が走るわけじゃない。威圧でもない。
むしろ“侵入を拒む余白”が、彼の周りだけ薄く張られている。
(……妙だな)
演算もしていない。術式も展開していない。
それでも、魔力が寄りつきにくい。
まるで、こちらが踏み込む前に、空間の方が一歩引く。
講義後の実技演習。訓練内容は「結界展開」。
Sクラスの演習は、模擬用の魔弾では終わらない。
飛来するのは雷撃や炎槍。避け損ねれば重傷、下手をすれば即死に届く威力だ。
結界の立ち上げが僅かに遅れた者から、火傷や痺れに呻き声を上げた。訓練場の端では学院専属の治癒師が待機し、治癒の光が絶えず走っている。
そんな中、レオンだけは違った。
無詠唱。速い。
張る結界は最小。だが、弾くべき威力だけを正確に弾き、すぐ次へ移る。
余計な力みがない。余計な呼吸がない。余計な迷いもない。
(……術式が上手い、じゃない)
オルフェは目を細める。
(身体が戦うために出来上がっている)
剣を振るう姿勢を見ただけで分かった。
これは理論や反復訓練ではない。
殺すことに慣れた身体であり、実戦で削られた動きだ。
(……やはり。俺の魔術が「術式」なら、彼のそれは「殺しの手癖」だな)
戦士の勘と、術式構築の直感は似ている。
ただ、方法が違うだけ。
彼は計算せずに選び、最短の破壊を実行する。
無駄がないのは、美しい。だが同時に、乱雑だ。
(精密さなら俺が勝つ。だが、接近戦では──剣を持つあいつが上だ)
金髪の少年の青い瞳は氷のように冷たい。
それなのに奥底で、燃えるものが揺らめいている。
(興味深い)
次の瞬間、レオン・ヴァレントは、オルフェの「研究対象」の片隅に加わっていた。
紙に書く必要はない。記憶に刻めばいい。
(観察する価値はある)
オルフェは静かに息を吐いた。
そして何事もなかったように、次の術式へ視線を戻す。
教室の空気だけが、僅かに薄くなった。




