第4話 炎の記憶
お洒落な音楽が流れる店内。
窓辺の席で、レナは目の前のケーキを見つめていた。
フルーツが山のように盛られたそれは、まるで小さな宝石箱のように輝いている。フォークを手にしたまま、彼女の瞳もまた、同じようにキラキラと光っていた。
「……少しは元気になったか?」
レオンの声は低く、けれどどこか柔らかかった。
レナはフォークを口に運びながら、小さく頷く。
「ありがとう。……ねえ、レオンって、変わったよね」
「何がだ」
「昔より、棘がなくなったっていうのかな。入学してきた頃は、もっと冷たかったのに。今でも覚えてるよ。屋上でさ、結界張って──」
「やめろ。その話は」
レオンは眉を押さえ、頭を抱えた。
その仕草が妙に人間らしくて、レナは思わず笑ってしまう。
「ふふ……でもね。色々と助けてくれてること、感謝してるよ」
レナが穏やかに笑うと、レオンは視線を逸らした。
「去年のレオンの誕生日、覚えてる? プレゼント、万年筆だったよね」
「ああ……覚えてる」
「今年は、もっといいものをあげるつもり。楽しみにしててね」
そう言ってレナは微笑んだ。
レオンは何も言わず、ただその横顔を見つめた。
***
カフェを出たあと、ふたりは並んで歩いていた。
穏やかな風が吹いていたが、どこか焦げたような匂いが鼻を刺す。
「……ん?」
レオンが顔を上げる。
遠くの通りの向こう、黒い煙が空へ昇っていた。
炎が家屋の壁を舐め、ぱちぱちと乾いた音を立てている。
風が熱を運び、肌を灼く。
その瞬間、レナの足が止まった。
「……っ」
肩が微かに震えていた。
唇を噛みしめ、視線が炎に釘づけになる。
「どうした?」
レオンの声に、レナはかすかに首を振る。
だが、震えは止まらなかった。
「ご、ごめん……。昔を思い出して……」
「昔?」
レナの声が掠れる。
その目には、もう今の炎ではなく、遠い過去が映っていた。
「……昔、村にいたんだけどね。ある日、皆、殺された。家も、村も……全部、燃やされた。アロイス家の刺客に襲われて……だから……炎を見ると、怖いの」
レナは俯き、拳を胸の前で握りしめる。
レオンは立ち尽くしていた。
表情は変わらない。
(知ってる。村を焼いたのも、お前の母を殺したのも──)
ただ、黙って立っているしかなかった。
炎の光が、レナの頬を照らす。
その震えを見た瞬間、レオンは無意識に手を伸ばしていた。
「レナ。……もう、思い出さなくていい」
レオンはその手を握った。
レナが何かを言いかけたが、レオンは強く引き寄せる。
火の粉が散る道を離れ、暗い路地へと足早に歩いた。
背後ではまだ、炎の音が聞こえていた。
***
レナは寮の部屋に戻った。
夜は静かだったが、胸の奥はずっとざわついていた。
その夜、悪夢を見た。
炎の中、逃げても逃げても、誰かの足音が背後から近づいてくる夢。
息ができないほどの熱気と、焦げた匂い。
──あの火事を見たせいだろうか。
記憶の底に沈めていた映像が、ひび割れたガラスのように蘇ってくる。
(私は、いつまで“日常”を過ごせるんだろう……)
森での暴走を思い出した。
ただの“魔物痕跡調査”のバイトのはずだった。
血の匂いで魔竜が目覚めるなんて、誰が想像しただろう。
──レオンに助けられなければ、今ごろ国の調査団に捕まっていた。何をされていたか考えるだけで、背筋に冷たいものが走る。
「……お母さん」
小さく呟いて、机の引き出しを開けた。
そこには、古い木の箱。
蓋に指をかけると、かすかな音と共に開いた。
中には赤い宝石のような魔石がひとつ。
母が生きていた頃、母が自分の血で作ったもの。
その隣には、レナ自身の血で作った赤い魔石のペンダントが置かれている。
「私は……いつまで生きていられるのかな」
そのペンダントを手に取り、胸に当てた。
冷たい石の中で、かすかに何かが脈打つような気がした。
***
月の光が差し込む路地裏。
石畳の上を、血がゆっくりと広がっていった。
レオンはその中央に立ち、剣先についた血を無造作に振り払った。
「お仕事ご苦労様。意外と早かったわね」
壁にもたれて立つ赤いドレスの女──リゼ・カルディナ。
月明かりの下で、唇が艶めいた笑みを描いた。
「お前が持ってくる依頼、いつも碌でもないな」
レオンは刃を納めながら言った。
足元には、いくつもの影。息をしている者はいない。
「あら、そうかしら?」
リゼは緩やかに歩み寄る。
ヒールの音が、血の上で“コツ、コツ”と乾いた音を立てた。
「これでも人を見て選んでるのよ。処刑人って呼ばれる貴方には、丁度いいでしょ? で、情報は取れた?」
レオンの碧眼が、わずかに揺れる。
その一瞬の遅れを、リゼは見逃さない。
「こいつら、魔術で情報封じされてた。記憶領域ごと焼かれてる。裏にいるのは……高位の魔術師だな。組織はそれなりの規模だ」
「そう、残念ねえ。最近、色々と騒がしいのよ。アロイス家が最新の“赤魔石”を市場に流したって話、聞いた?あの家は、ファウレスの血を魔石にする技術を唯一持ってるのよねえ」
レオンは無言だった。
ただ、靴先で血溜まりを避けながら、視線を向ける。
「それに加えて、“魔竜の森”で、異常な魔力反応があったらしいの。……あの末裔が、生きてるんじゃないかって噂よ」
レオンの瞳が一瞬だけ動いた。
けれど、声はない。
「ファウレスの血、か」
「ええ。半分は迷信、半分は好奇心ね。それでも“欲しがる人間”は多いの。生きたまま捕まえたいって依頼も来てるわ」
リゼは笑いながら、指で円を描く。
「実験用? 観賞用? それとも、もっと趣味の悪い目的かしら。……希少だからこそ、手に入れておもちゃにしたいって言う人もいたわ」
「くだらない」
「ふふ。そう言うと思った」
リゼの声には、微かな愉悦が滲む。
「でもね、レオン。世の中には“くだらないもの”ほど高値で売れるの。……貴方だって、それを一番よく知ってるでしょ?」
レオンは、何も言わず背を向けた。
黒い外套の裾が、死体の血を掠めて揺れる。
「報酬は、いつも通りだ」
短く言い残し、闇の中へと消えていく。
リゼは微笑んだまま、その背を見送った。