第38話 罠
◆サラ視点/廊下
「──君、サラだっけ? レナ・ファリスの友人だったよね」
名を呼ばれて、サラは反射的に振り返った。
廊下の端、影が濃い場所に、銀髪の青年が立っていた。
「……オルフェさん?」
胸がわずかに強く打つ。
Sクラス。禁術使い。噂だけなら、いくらでもある。
でも、実際に目が合うと、噂のほうがまだ人間味があった。
彼は一歩、影から出てきた。
紫の瞳が、何も映していないみたいに静かで、サラは理由もなく背筋を伸ばす。
「すまない。少し話がしたかったんだ」
低くて落ち着いた声。
丁寧で、だから余計に怖い。
「え……あ、あの……急にどうしたんですか?」
「大丈夫。すぐ終わる」
次の瞬間、オルフェの指先に紫の光が走った。
冷たい色の“線”が空気に滲んで、形になる。
(え……なに、今──)
詠唱がない。
気づいた時には、もう視界の端がふっと霞んだ。
足元が、遠い。
「……っ……」
声が出ない。まぶたが、急に重い。
意識が、手のひらからこぼれていくみたいに滑る。
「眠っていればいい。少しの間だけ」
声だけが、やけに鮮明に届く。
(いや……だめ……レナに……)
名前を思い浮かべた瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
何かを伝えないと。何かがおかしいって。
でも身体が言うことをきかない。
膝が抜ける。
視界の最後に見えたのは、オルフェの紫の瞳だった。
そこには、申し訳なさも、ためらいも、ない。
ただ、必要な工程を終える人の目。
(……なんで……私……)
答えに辿り着く前に、闇が降りてきた。
冷たい沈黙だけが、廊下に残った。
***
◆レナ視点/校内
レナは胸騒ぎがしていた。サラが校内にいない。
午前の授業のときは確かに隣に座っていたのに、午後から姿を見せなくなった。
教師は「体調不良で早退したのだろう」と言っていた。
けれど、そんな事をする子ではない。
胸の奥に重い靄が広がり、レナは嫌な予感を拭えなかった。
(どこに行ったの、サラ)
午後の授業が終わったあと。
帰り支度をする生徒たちのざわめきの中、廊下の片隅に、彼が立っていた。
銀髪、紫の瞳。白衣の裾を静かに揺らす姿。
オルフェ・クライド。
「……レナ」
呼び止める声は低く穏やか。
だが、彼女の背筋はひやりと強張った。
(オルフェと二人きりになるな。レオンがそう言ってた……)
心臓が跳ねる。
危険だ、と理性は告げている。
けれど彼は、ゆっくりと微笑んだ。
「少し、話したいことがあるんだ」
レナが戸惑いの色を見せた、その瞬間。
「……サラさんのこと、だよ」
微笑みは柔らかく、だがどこか冷たい。
それは“知らせ”なのか、“誘い”なのか。
判別できなかった。
夕暮れの校舎裏は、不気味なほど静かだった。
赤く沈む陽光が細道を鈍く照らし、石畳に長い影を落としている。
レナは立ち止まった。
そこにいたのは、学院制服を着崩した銀髪の青年。
紫の瞳が、夕日の名残を拒むように冷たく光っていた。
「探してるんでしょ?サラさんなら──預かってるよ」
低く、気だるげな声が空気を裂いた。
「今夜、来てほしい場所があってね」
示されたのは、学院外縁の旧研究棟。
かつて禁術の研究が行われ、今は立ち入り禁止区域に指定された場所だった。
(……罠だ)
レナは拳を強く握りしめる。
けれど──サラの名を出された瞬間、胸の奥が冷たく締め付けられていた。
「サラは……無事なの?」
掠れた声で問う。
オルフェは口の端をわずかに上げて、楽しげに答えた。
「今のところは。君が来ないなら……どうなるかは分からないけど」
一拍置き、紫の瞳が鋭さを帯びる。
「僕の研究に──協力してくれる?」
「……っ!」
レナの喉が震えた。息が詰まる。
だがオルフェはそれ以上、言葉を重ねない。
「待ってるよ。それじゃ、また」
背を向け、夕闇に溶け込むように歩き去っていく。
残されたレナは立ち尽くし、拳を握ったままその背中を見つめていた。
サラを助けなければならない。
だが、その先に待つのは、自分を狙う“罠”であることも分かっていた。
遠くから、そのやり取りを見ている影があった。
廊下の柱に寄りかかり、じっと視線を向けているその影にレナは気付かなかった。
***
◆レナ視点/夜道
学院の門を出ると、夜風が頬を撫でた。
吐いた息が白く揺れ、闇に溶けていく。
森の縁に向かう細道。昼間なら生徒の声で賑わう通りも、今は足音だけが響いていた。
靴底が砂利を踏むたびに、やけに大きな音に思える。
(……怖い)
その一歩ごとに、胸の奥が小さく悲鳴をあげる。
胸の奥で、何度も言葉が反響していた。
(私のせいだ……)
サラが巻き込まれたのも、狙われているのも、全部“血”のせい。
分かりきっていることだった。
(オルフェの狙いは、私……死ぬかもしれない。でも……私が行けば、サラには危害を加えないはず。誰にも言えない。一人で、行く。)
拳を握る。爪が掌に食い込むほどに。
恐怖はある。震えもある。けれど、それでも──
(……レオン、ごめん)
心の中で名を呼んだ。
約束を破るのは怖いのに、それでも……自分で選ばなければならない。夜の森は、まるで彼女を呑み込むかのように暗く広がっていた。それでも一歩ずつ、レナは進んだ。
森を抜けると、不意に視界が開けた。
そこに、時代から取り残されたような石造りの建物がぽつりと佇んでいた。
二階建てのはずの外観は、上階の半分以上が崩れ落ちている。屋根は抜け落ち、壁には深い亀裂。だが、倒壊して然るべき姿が、なぜか“そのまま保たれている”。
建物全体を覆うように、無数のツタが絡みついていた。
幾重にも重なる緑の鎖は、まるで何かを“封じ込めている”かのように見える。湿った空気が重たくのしかかり、ただそこに立つだけで呼吸がしづらいほどだった。
(……ここが、オルフェさんの……)
胸が強く脈打つ。
足を一歩踏み出した瞬間、空気がびり、と震えた。
「レナ、ここで、何してるの」
不意に背後から声。
振り返ると、そこにはエリックが立っていた。




