第30話 月夜の独白
◆レナ視点/街中
思い出すのは、平和だった頃の記憶。
母と歌いながら歩いた小道。
隣家の少年と遊んだ庭。
初めて見た自分の血の色の魔石。
ふっと思い出したのは、似ていたからだろう。
夕方、聞き覚えのある童謡を歌う少女と、手を引く母親をレナはすれ違いさまに見た。
幸せだったあの頃を思い出す。
気づいたときには、もうその親子は人混みに紛れていた。
見失った背中の代わりに、胸の奥で、忘れたはずの風景が静かに立ち上がる。
(あの頃には、もう戻れないのに)
そう思っているはずなのに、心のどこかではまだ、あの日々を願っている。手を伸ばせば届きそうな気がして、それでも決して届かない景色を。
その夜、レナは夢を見た。
***
◆レナ視点/夢
夜空が、赤く染まっていた。
村は、業火に包まれていた。
崩れ落ちる家々。響き渡る叫び。
折れる木々と、泣きじゃくる声。
鼻を突く、血と煙の匂い。
空気は熱に焼かれ、地面さえも燃え上がる。
そのとき、レナは、まだ十一歳だった。
「このリュックを持って。絶対に、離さないで。レナ」
母が震える声で言う。
彼女の手には、レナには少し大きなリュック。
中には、手紙。書類。緊急の薬やお金。
家族の形見、小さな〈赤い魔石〉。
そして、レナが大切にしていたネックレスが、乱暴に放り込まれていた。
「お母さんは……?」
「行って。お願い、レナ。あなたは生きて。絶対に、生きて」
外で、何かが砕ける音がした。
木が倒れたのか、誰かの悲鳴なのか。もう、わからない。
レナは、母の手を離す。
玄関の扉に手をかけると、視界がぐにゃりと揺れた。
扉を開けた瞬間、そこに広がったのは──
燃えさかる夜の村。
炎に照らされた路地に、三人の少年たちが立っていた。
二人は深くフードを被り、顔が影に沈んでいる。
ただ一人、眼鏡をかけた少年だけが、無表情でこちらを見つめていた。
そのとき──誰かが、レナの手を掴んだ。
「こっちだ! 走れ!」
レナより三つ年上の少年。ソラトだった。
「ソラト……?」
「迷ってる時間はない! お前も、お前の母ちゃんも、あいつらに狙われてる!」
振り返ると、母が誰かと魔法を撃ち合っている。
赤と青の火花が弾け、建物が崩れ、悲鳴が炎に呑まれていく。
ソラトはレナの手を強く引いて、駆けだした。
夜風が火の粉を巻き上げる。
燃える村が、すべてを飲み込んでいく。
場面が、唐突に飛んだ。
気づけば、村の外れ。
そこにも、あの〈フードの少年〉が立っていた。
剣を持ち、魔力が滲み出している。
口元が何かを言いかけたように動くが、音は聞こえない。
「くっ……! 行け、レナ!」
ソラトの声だけが、やけに鮮明だった。
「でっ、でも──!」
「ここは俺が引き止める! 絶対に振り向くな、いいな!」
喉が震える。泣きたいのに、泣けない。
泣いたら、すべてが崩れる気がした。
「行け!」
ソラトの叫びが、胸に刺さる。
レナは──走った。
土を蹴り、石につまずき、それでも前だけを見て、
森の中をひたすらに走る。
枝が頬をかすめる。
足音と心臓の鼓動だけが、世界の音になった。
──森の影。
家の前にいたはずの、もうひとりのフードの少年が立っていた。
動かない。
その手には剣。
魔力の気配が肌を刺すのに、攻撃は飛んでこない。
(……気づいてない?)
息を呑み、レナは別の道へと進路を逸らす。
背後から、追ってくる気配はなかった。
風の音と、遠くの爆音だけが、耳の奥で反響する。
やがて、森を抜けた。
草の生い茂る丘の上。
振り返ったレナの目に映ったのは──
燃え盛る、村の光景。
空が裂けたような、真っ赤な炎。
煙が夜空を黒く塗りつぶし、光と影の境界がぐしゃぐしゃに歪む。
この日。レナは、すべてを失った。
母も、家も、日常も。
笑い声も、歌も、当たり前だった明日も。
そして──愛した村と、そこにいた人々も。
炎の向こう側で、誰かの声が重なった気がした。
──二度と、戻れない。
──二度と、あの場所には。
それが、レナの“始まりの夜”だった。
***
◆レナ視点/深夜の寮
レナは真夜中に目覚めた。
あの日見た炎を今も覚えている。運命に対する業火のように、揺らめく炎の前に立ち尽くした。
フラッシュバック──
あの日から数年経っているのに、記憶自体は忘れたいからか薄ぼやけているのに、感覚だけは鮮明だった。
(ダメだ、今日は、眠れない。)
ベッドから這うように起き上がると、窓の外の月を見た。穏やかな月明かりだ。
強くなりたい。そう願っていても本質は変わらない。
精神的な脆さは隠せない。レナは胸の真ん中に触れる。
ぎゅっと締め付けられるような心の奥。
目を瞑り深呼吸してみる。
「お母さん……」
小さな声で呟いた。レナが呼んだ声は空中に儚く消える。
この部屋には自分しかいない。そんなことはわかっていた。もう一度名前を呼んだ。
本当は、もう少し助けが欲しい。側にいてほしい。
孤独には慣れていたはずなのに、今は抱きしめて欲しい。
不意に温かな日々を思い出してしまったから。
頬を伝って涙が流れる。何度名前を呼んでも虚しく部屋に響くだけだった。
会いたい。
二度と会えないのは分かっている。
生が記憶の連続なら、死は記憶の断絶だろう。
死ぬということは、消えることだ。
思い出も、自分という存在の感覚さえも、永遠に消える。
たとえ今、再び会えたとしてもそれはもう、生きてる頃の“母”と微妙に違うのかもしれない。
視線を窓の外に向けた時、金色の髪が夜道を横切った。
レオンだ、とすぐに分かった。こんな夜中まで、何をしていたのだろう。外は危険だと散々言われているのに……。
(……どうして、何も怖くなさそうに歩けるんだろう。レオンにとっては、これくらい危険のうちに入らないのかな)
そう思って見つめていると、ふいに視線が合った気がした。レナは慌ててカーテンを閉める。
(泣いている顔なんて、見られたくない……)
静かな部屋の中に、自分の心臓の音だけが響いていた。




