06 異世界のウサギはウサギじゃなかった件①
草原に、やや冷えた風が吹いていた。朝露に濡れた草が光を弾き、低く茂る緑の影のなかから、小さな気配が跳ね起きる。
「──ああ、もうっ……動きが読めない!」
ミカサは息を詰めて、片手のショートソードを振るった。だが、飛びかかってきた一角うさぎは、地を蹴ってくるりと反転。するりとミカサの刃を避けると、背後へと駆け去った。
つられて振り返ったその脇を、別の一角うさぎがすり抜けるように突進してきた。ミカサは咄嗟に跳ねのき、ショートソードを棍棒のように振り回す。だが、刃は空を切るばかりで、手応えはなかった。
攻撃をかわすたびに息が上がる。肩が上下に激しく揺れていた。
魔法が使えないだけじゃない――。ただの一撃すら、まともに当てられない。
「……っは、はっ……っ」
荒い息を吐くミカサに、ジョシュアが諭すように声を掛ける。
「意外かもしれないが、魔法使いは体力と持久力が必要なんだ。」
すぐ近くでは、金部理仁が腰から引き抜いた墨色の棒──墨杖を軽やかに回す。淡い萌葱色の封紋が表面に浮かび、静かに光を灯す中、左右から飛び出してきた一角うさぎを手際よく打ち払った。
その所作は、ミカサが思わず見惚れるほど流麗だった。三匹目も、薙ぎ払うような一撃で地に伏す。
「……ずるいです、同じブロンズメイトなのに」
ミカサが小声でつぶやく。立ち回りの余裕がまったく違うのが、見ていて悔しかった。
「キャリアが違うのだよ、キャリアが。見よ、この歴戦の棒さばき!」
得意げに墨杖をくるくると回して見せる理仁。とはいえ、一角うさぎたちも怯む気配はない。低く身を伏せ、タイミングを見計らっている。
「……なんですか、その余裕。私だって、それなりに、訓練はしてきたんですから」
ミカサは肩で息をしながらも、剣を構え直す。震える腕を押しとどめ、眼差しに気迫を宿す。
「いやいや、訓練と実戦では天地の差があるのだよ。見よ、この柔軟な対応力!」
理仁はうさぎの突進に合わせて、逆手に墨杖を持ち替える。空いた手で角を鷲掴みにし、背後の別の個体に勢いよく打ち付けた。
「うわ、ひどい……って感心してる場合じゃない!」
ミカサの背後から新たな一匹が迫る。彼女は咄嗟に身を伏せて避けると、風圧で髪がふわりと浮いた。
「いいかいミカサちゃん、戦いは何が起きるか分からない。前衛が楽をしてれば、魔法使いだって最前線だ。攻撃が来たら避けなきゃいけない。基礎体力がものを言う! 回避、回避、そして反撃だ!」
理仁が叫ぶと同時に、ミカサの肩先をかすめて突進してきた一角うさぎに、墨杖の鋭い一撃が突き刺さった。
だが――楽をしている前衛は、その理仁だった。
ジョシュアは軽く苦笑しながら、小石を一つ拾い上げ、無言で理仁に向かって投げつけた。
「いてっ!」
──その数時間前。
冒険者ギルドの掲示板前にて。
ジョシュアとミカサが早速、クエストボードの前で、
特訓にちょうど良さそうな依頼を探していた。
「このあたり、採取クエストなら安全そうです」
ミカサは掲示板に張られた紙を指差したが、ジョシュアは一枚隣の依頼を剥がしてミカサに渡した。
「強くなるんだろ?なら、まずはこのあたりから行ってみよう」
差し出されたのは、一角うさぎの討伐依頼だった。
思わず息を呑むミカサ。小動物とはいえ、討伐依頼は初めてだ。
そんな様子を一瞥しつつ、ジョシュアはミカサの身なりに微かに眉をひそめ、低く呟いた。
「……そんな装備で大丈夫か?」
ミカサの格好は、まるで訓練場帰りの新兵だった。革の胸当てにショートソード一本。盾はなく、補助具や魔法触媒も見当たらない。戦闘の場に自分がどう立ち回るのか、想像すらしていないような装いだった。
「大丈夫だ、問題ない」
隣から、ひょっこりと顔を出した理仁が、口元をにやりと歪めた。紺の襟シャツを着崩し、動きやすそうなボトムスで引き締めている。背嚢をぶら下げ、腰には黒杖を差し、丸い盾を背負っていた。
妙に自信ありげな声色。まるで、どこかで聞いたことのある決まり文句。
「それ絶対ダメなやつじゃないですか! えっ、この装備じゃまずいですか!?」
ミカサは慌てて、自分の装いを確認するが、所持金の都合もあり、これ以上の装備を整える余裕はなかった。理仁は悪びれもせず、掲示板に並ぶ依頼票を眺めながら口笛を吹いている。
「朝から面白いもん見たぜ。じゃ、俺は違うクエストに──」
金部が踵を返しかけたところで、ジョシュアがそのベルトをがっしりと掴んだ。
「付き合ってくれ、理仁。良い盾もってるな、それもくれ」
ジョシュアは当然のように手を差し出しながら、すでに理仁の装備に目をつけていた。なぜかもう外し始めていた。
「……図書館の外にいるときの君、横暴なの自覚してる?」
理仁はため息まじりに呟きながら、背中の小型の丸盾――ラウンドシールドが、するりと引き抜かれていくのを、ただ成すがままに眺めていた。
ミカサは慌てて深々と頭を下げた。
こうして、三人は小さな依頼を受けることになった。
──そして現在。
「左右から来てます! 無理です、避けるだけで精一杯です!」
ミカサの叫びに、金部が軽く答えた。
「戦闘の鉄則、囲まれるなよミカサちゃん。なるべく一対一になるように動いてみよう」
「いや、だからそれが──」
言いかけたミカサの足元を、一角うさぎが横切る。草を裂く勢いで地を蹴り、曲線を描きながらも低く、鋭く、迫ってくる。
回避が間に合わない!ミカサは思わず身構えた。握りしめたショートソードがやけに心もとない。——これじゃ防げない。
「っ……!」
その刹那、視界の端から何かが飛んできた。小さく、丸い影。
反射的に手を伸ばしたミカサの腕に、冷たい重みが収まる。
丸い盾ーーラウンドシールドだった。ジョシュアが理仁から抜き取っていたそれを、彼女の元に放ったのだ。
「っ、ありがとうございます!」
両手で掴んだ盾を前に突き出すミカサに、ジョシュアが指示を飛ばす。
「違う、腕に通して、 肘を曲げるんだ。 脇を締めろ!」
次の瞬間、一角うさぎの突進を盾が受け止めた。予想以上に重い衝撃が腕を痺れさせるが、恐怖が薄れた。すかさず半歩引いて、剣を振り下ろした叩き落とす。
「当たった……!」
初めて、訓練通りの動きが出た。
ショートソードは大きく振りかぶらず、手前に構え、素早く払う。
ジョシュアが見守るなかで、ミカサの動きに微細な変化が現れていた。
「……読み始めているな」
ジョシュアの低い呟きに、理仁が頷いた。
「おいおい、意外とセンスあるんじゃないの?」
ミカサの視線は、確かに一角ウサギの軌道を追っていた。
ただ反応しているのではない。先を読んで、動こうとしている。
まるで、そこに“何か”が見えているかのようだった。
「……何か、見えます。ウサギから、その、何かフワッと漏れてて……」
必死の形相のまま、ミカサは言った。
何かが、漏れ出している――それを察知して動いているのか?
ジョシュアにも見えない、"何か"。
墨杖を振るう理仁の手元が、一瞬揺れた。
彼も、何かに気づいたようだ。見ていたのは、墨杖――墨色の魔法具。
墨杖からは萌葱色の封紋が淡く浮かび上がっている。
漏れ出る……魔力の発露?
ハッとしたように、ジョシュアが目を開く。
「君は……魔力が、見えるのか」
一角ウサギを相手に試そうとしたが、戦闘の基礎も体力もないミカサをどう育てるか――その難題に、今、突破口が見えた気がした。
そこからは、ジョシュアも本格的に参戦した。
「もういいのか?」と理仁が呼応し、三人は息を合わせて一角ウサギの群れを退治した。
結局、ミカサが仕留めたのは一匹だけだった。
だが、その一匹は、確かに彼女が“見た”先にいた。
その後、何度か別の一角うさぎの群れとの戦闘を繰り返し、
気づけばお昼ごろ。木陰が気持ち良い場所で休憩を取ることにした。
理仁は、少し離れた場所で周囲を警戒ーーしているのだろうか。こちらを背にして、採ってきたばかりの瑞々しい果実にかぶりついていた。
「全部、見えてるぞ」
ジョシュアの呆れた声に、大丈夫、大丈夫と適当な返事が返ってくる。
息を整えながら、その様子を見ていたミカサは、朝の戦いを振り返っていた。
冒険者としてこの大都市ノアにやって来た頃、選んだのはショートソード。槍や棍棒は重すぎたし、弓は自信がなかった。魔法学校の実習ではそれなりに振るえていた剣技。
実戦では焦りから振り回すばかりで、飛びかかってくる一角うさぎが怖くて当てられなかった。
――でも、今日は違った。
盾だ。
盾が必要だったのだ。
衝撃を受け止める瞬間は怖かったし、腕や手が痺れるほど痛んだ。
けれど、ないときと比べて格段に安心できた。
そして何より、盾で受け止めてからのショートソードの振り下ろしが、数回だがきちんと決まった。それが、嬉しかった。
心に少し余裕が出たことで、視野が広がるというのは、こういうことなのかもしれない。
まぶたの裏によみがえる。草むらが揺れる。ウサギの軌道は曲線と直線。狙ってくるのは角の先端。
そうして意識を巡らせていたとき、不意に気づいた。ウサギの身体の周囲に、淡く光るものが漂っている。
――見える。
そこから先は、どこから来るのか、どのタイミングで動き出すのかが、不思議なほど分かりやすくなった。
緊張に震えていた体も、気づけば落ち着いていた。
——ジョシュアさんが言ってた、“魔力が見えるのか”って……
そうだ。
自分はこの世界に来るとき、異世界の神を名乗る存在から、ある“チート能力”を授けられた。
――「魔力の流れを可視化する力」。
けれど、その意味が分からなかった。魔法など一度も成功していない。今の今まで、何も見えなかった。
すぐそばで警戒を続けている金部さんや、何か準備をしているジョシュアさんからは、特に何も……見えない。
ミカサは、ジョシュアに自分の能力のことを打ち明けることにした。話を聞いたジョシュアは、少しも驚くことなく、静かに頷いた。それは、ミカサは魔法使いに向いていると確信したようだった。
ジョシュアが何か言いかけた、その時ーー
森のざわめきが、静かに降りてくる。
踏みしめるような重低音が地を這い、いくつかの木々がバキバキと音を立てて倒れていった。
第一章のあらすじや場面イメージをPixivに掲載!
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