60 ドーン・フォルテ
夜。遠くで小さく野鳥が鳴き交わす暗闇。
突き刺すような寒さに、浅い眠りを引き裂かれて目が覚めた。
瞼をわずかに持ち上げる。
視界は暗く、鉄の格子がぼやけて重なっている。
──檻だ。
山間の奴隷市場に連れられ、放り込まれた。
その事実を、遅れて思い出す。周囲に人の気配はない。
昨日までいた者たちは、もういない。
見目に麗しい者から順に、どこかへ連れ出されていったのだ。
何処に行ったのかとは考えない。
今を直視すれば、震えが止まらないので感情に蓋をする。
……なのに。
外が、やけに騒がしくなった。怒鳴り声が近づいてくる。
引きずられるような悲鳴が漏れ聞こえる。
走る足音が通り過ぎ、地面を叩く振動。
「火事だ!」
その一声で、意識が一気に覚醒した。
なぜ。そんなもの、分からない。誰かが争ったらしい。
怒号が飛び交い、叫びが重なり、混乱が膨れ上がっていく。
はち切れたのは意識ではなく、破壊音だった。
牢の扉が、乱暴に破壊された。崩れ落ちる鉄枠。
倒れ込んでくる、血に濡れた肢体。
赤黒い広がりが鼻を突き、喉が引きつる。
目をそらした先で、むき出しの短剣が転がった。
甲高い音が耳を打ち、反射的に身を強張らせる。
悲鳴が喉に引っかかって上手く出ない。
逃げなければと視線をさ迷わせるも、間髪入れず、影が差し込んだ。
豪奢な鎧に身を包んだ、冒険者の姿。
背後に立ち上がる炎の揺らぎが、金属に歪んで映る。
「もう大丈夫だよ」
声色は優しくも、濁った響きが、静かに落ちてきた。
顔は見えない。差し伸べられた手の向こうに、表情が隠れているからだ。
──救いの手には、ちがいない。
そう思って、ほんのわずかに顔をかがめる。
影の奥を、覗き込むと、正義を宿した目と合った。
けれどそこにあったのは、濁り切った光だった。
使命感と優越が混じり合った、澱んだ色味。
その背後に控えるのは、首に枷をはめられた、数人の女たち。
彼が「助けた」と思われる、元・奴隷。
私は、弱者だ。これまでどおり、手を取ればいい。
それが、生き延びるための最善だと、手を持ち上げかける。
……ピクリ、と。指先が、裏切るように震えた。
女たちの視線に吸い込まれる。
鎧の男を見上げるその目は、感謝でも希望でもない。
──あ。
理解は残酷だ。奴隷は、奴隷のままなのだ。
喉を伝った、温いスープの記憶が蘇る。
あれは幻だったはず。一瞬だけ触れた、別の世界。
現実は暗い泥だ。澱みに沈んでいく、この場所が、私の日常。
強く、落ち着いた、あの声が──頭の奥で、静かに蘇る。
だから、それは幻だ。それでも。身体は、思考と真逆に動きだした。
床に転がった短剣を、素早く掴む。
腰元に構えて刃先を向ける。こっちに来るなと威嚇した。
「大丈夫。怖くないよ」
鎧の男は笑顔を向けてくる。
だが、その目の奥にある侮蔑を、隠し切れていない。
……怖い。でも。
この身体は、私のものだ。挫けそうな心を奮い立たせる。
──そう。自分を、誰かに委ねるな。
散らばる思考を必死に集め、それでも一筋。
固めた覚悟に芯に通った──その瞬間。
後ろから、ごつい手に頭を撫でられた。
見上げると、巨躯。
隆起した筋肉の壁に遮られて、顔は見えない。
それなのに──ひしと閉じた唇に、涙がこぼれ落ちた。
「そうだ。他人に生殺与奪を任せるな。
どう足掻こうと、未来は自分で引き寄せろ」
その声は威圧的で、怖く、そして優しいと感じた。
驚きの声を上げようとした鎧の男が、
何かを言うより早く──大剣が唸った。
檻も、鎧も、ひしゃげる音を立てて薙ぎ払われる。
尋常ではない力が、鎧の男ごと、荒々しく叩き飛ばした。
続いて、視界を覆ったのは、鈍く、紺碧に輝く大盾の裏。
大きな背が、前に立つ。
雄々しい腕が、大剣を振るう。
人も、瓦礫も、壁さえも──等しく、薙ぎ払われていく。
絶叫が響き、辺りは騒然となった。
悲鳴が悲鳴を呼び、銃火が轟く混戦。
だが、大剣の暴威は、止まらない。
日が昇るころ。
ようやく、辺りは静まり返っていた。
骸の山に突き立つ大剣。
太陽を浴びる、その背中。
駆け寄った。
しがみつくか、ほんの一瞬だけ躊躇して──それでも、しがみつく。
毒島が振り返る。嫌そうな顔をして。
乱暴に、角の折れた少女の、頬についた返り血をぬぐった。
少女は、もう離さなかった。
これは、依存ではない。
私が決めた、私の未来だ。
毒島と少女の小さな戦いと決断。
幕間の物語がいったん終わりました。
小さな一歩、踏み出す勇気を思い出す、
そう感じていただけたら幸いです。
彼らの選択が未来をどう変えていくのか、
いよいよ第二部が始まります。どうか、お楽しみに。




