58 バイバイ・ラプソディ
角の折れた少女を魔導国に送り届けた翌日。
帰路の途中で、不穏の影を見た毒島達が襲われる。
だが、動揺したのは、いったい誰なのか。
茂みの奥が揺れて――
雑木林の奥から、魔導国の部隊が姿を現した。
哨戒網に走った異変を察知し、最短経路で集結したのだろう。足並みは揃い、装備も整っている──だが、その動きにはどこか焦りが混じっていた。
統制は取れている。
それでも、洗練されてはいない。
駆け去るレヴィを追撃しようとする者は、誰一人として現れなかった。
視線は、ただ一点に吸い寄せられている。
毒島が漂わせる熱に気圧される。
魔法が通じないという異常性──それだけが理由ではない。
複数の眼光は、雄々しき体躯そのものを値踏みするように捉え、盛り上がった筋肉の隆起に、無意識の恐怖を刻み込んでいた。
引き絞られた腕が、わずかに持ち上がる。
それだけで、魔導国兵たちは一斉に後ずさる。
空気が、息苦しくなるほど張り詰めた。
剣の柄を握る指が白くなり、喉が鳴る音が、やけに大きい。
──違う。
彼らが怯えているのは、これから起こる災禍ではない。
「……あっ、な……」
誰かの声が、乾いた空気を裂いた。
「うそだろ……皆殺しの悪魔……」
囁きは、瞬く間に伝播する。
かつて魔導国との緩衝地帯で起きた、大虐殺。
生存者が一人も残らなかった、記録から抹消された事件。
その中心にいた男の名を──覚えている者が、いた。
だからこそ、誰も前に出られない。
だからこそ、隊列は整ったまま、凍りついた。
「有名人なのね」
張り詰めた空気を、嘲るように、声が近づいてくる。
震える魔導国偵察兵たちの列が、自然と左右に割れるのは、これ以上、毒島へ近づきたくないからだ。
現れたのは、楽しげに口元を歪めた狂人。
白と黒――相反する色を、それぞれ編み込んだ長髪。
縞模様のように走る髪が、異質さを隠しもしない。
ウルヘルミナだ。
毒島から向けられる威圧を、正面から浴びながら、微動だにしない。余裕を見せる態度のまま、つり上げた口元で蠱惑的に囁いた。
「……何しに来たの?」
「気が変わった」
ピシリ、と乾いた音が走る。
毒島の足元から、一本の裂け目が生まれた。
亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、地表を割り裂いていく。
「死人が今さら何に執着するのよ。腹が立つわね」
言葉が終わるより早く、地面が崩れた。
ウルヘルミナの異能。
砕かれ捏ね上がる怪音と共に大地が螺旋を描いてうねり始める。
逃げ場などない。
巻き込まれたものは、敵味方の区別なく、直下に口を開けたトンネルへと引きずり込まれていく。
魔導国の偵察兵達は救援の叫びを上げるが、安全など、最初から眼中にないのだ。
悲鳴を上げる兵士の背中を、ウルヘルミナは毒島めがけて蹴り飛ばした。
落ちてくる絶叫を気にも留めず、毒島は、わずかに上体を反らす。
兵士の身体が、鼻先を掠めて通り過ぎる頃には判断を終えた。
おもむろに岩壁の濁流に手を伸ばす。
指先が触れたのは、渦を巻きながら沈みゆく──
「──【改写】」
低く告げた刹那、世界が裏返った。
舞い上がっていた砂利は、粒子を失い、しぶきへと変わる。
空気を裂く音は、水を切る重音に塗り替えられ──
──ザブンッッ
爆ぜるような水音とともに、
大量の水が、誰も彼もを一息に飲み込んだ。
異変を察知したウルヘルミナは、すでに水域から離脱していた。
いつ跳んだのか、その動きすら掴ませない。
だが、背後から伸びた毒島の腕に捕まった。
錐揉みするように絡まりながら、二人の影が岸辺に落ちる。
硬く大きな手が、ウルヘルミナの首を地面に押し付けた。
荒い息と殺意の熱が交わる距離で、狂気の瞳に、獰猛な笑みが映り込む。
毒島の異能によって、うねりを上げて沈みかけていた大地は完全に水へと書き換えられ、周囲は歪な湖岸と化していた。
先ほどまでそこにいた魔導国偵察兵たちは、深々と呑み込まれたまま、二度と水面へ浮かび上がらない。
「酷いのね」
掠れた呟きは、半ば感嘆だった。
余波の大きさがようやく現実味を帯び、ウルヘルミナの喉が小さく震える。
毒島は、湖岸を一瞥し、暗い嗤いを零した。
「この世は地獄だ。今死ぬのも、後で死ぬのも変わらんだろ」
「それには同意するわ。……あんた以外はね!」
ウルヘルミナが頭を振ると、縞模様の髪が風を連れ、頬を打った。
一瞬、視界が遮られる。
その死角を突くように、続けざまの刺突。
毒島はそれをかわし──だが、そのわずかな隙を衝かれ、体勢が入れ替わる。
地面に後頭を打ち付け見上げると、焦点の先にはウルヘルミナが堪えきれない様子で狂気を振りほどいた。
──彼女に、何があったのか。
毒島には、推し量る言葉すら浮かばない。
掛ける言葉を、とうに失っている。
湖岸が、ざわりと波打った。
次の瞬間、地面が生き物のようにうねり、隆起する。
突き上げられた土塊は空へと持ち上がり、鎌首をもたげる巨大な壁となった。
津波のように、それを覆う土砂が崩れ落ち、ウルヘルミナごと毒島めがけて降り注ぐ。
「エリゼは……あんたを待っていた」
弾雨の中に突き出すように、ウルヘルミナが毒島を持ち上げ締め上げる。
先ほどまでの嘲りは消え、わずかに揺れる音色だった。
「なのに、あんたは魔導国で虐殺を起こした。
その報復で……私たちの街は、滅ぼされた」
襲い来る岩石の嵐を、毒島は煩わしそうに弾き、ぎりぎりと首を絞められながらも、身体を入れ替えながらやり過ごす。
だが、その瞳は揺れた。
赤黒の惨劇が脳裏を掠め、続くのは焼け落ちる街と泣き声、血と灰の匂い。
「……もう一度言うわ」
ウルヘルミナの声が、低く震える。
「エリゼは、あんたをずっと待っていた」
胸の奥が、強く掴まれた。
誰かの怒りが、別の鉤爪を伴って心臓を抉る。
冷たい土に埋もれた記憶。思い出せないはずの、最後の顔が、ちらつく。
「あの日から……私は、ずっと覚めない夢の中にいる」
歪んだ唇に、殺意の裏側が微かに見えた。
「覚めない夢なら……いっそのこと……」
ドスッ──
鈍い音とともに、熱を帯びた雫が落ちた。
視界が、わずかに傾く。
「……なお、や?」
ウルヘルミナの腹に、剣が突き立っていた。
傷口など、見なくてもわかる。
ただ、見上げた先には焦がれた男の顔がある。
懐かしい血の匂いと、見開かれたままの両目。
その口は固く結ばれている。あの日のままだ。
──よく笑う人だった。だけど、口数の少ない人だった。
ウルヘルミナは苦悶を身体の奥へ押し込み、放すまいと毒島の目を見つめる。
二度と忘れないために、深く、焼き付ける。
──お互い、少し大人になったかしら……。
隣に並んだ肩は、いつの間にか大きくなっていた。
──エリゼが恋した人。
消えた背中を追いかけた。
──私が焦がれた。……この世は地獄だ。
ウルヘルミナと毒島の表情が、重なる。
「温かい……お、と」
毒島は力を失ったウルヘルミナを抱き寄せる。
静かになっていく心音を交換するように、力強く掻き抱いた。
開いた瞳孔に染まる殺戮の光。
鬼の形相たる口から、どす黒い怒気が漏れた。
「婚約者、じゃなかったのか?」
毒島の視線の先、ウルヘルミナの背の向こう。
彼女ごと、毒島の腹を貫いた利剣。
それを握るラース・ザインは、ニヒルに口元を歪めた。
次回――裏切りの代価は、命では足りない。
怒りの終着点に、戦鬼が灯した答えとは。
これは――選び取った未来の話。
▶ ep.59 ドーン・フォルテ
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