42 決断の時、俺の知らない真相
『賛美の悪魔を、討ち倒した、……喰い損ねぇえ!!』
闇夜の空気が激しく震える。どぷん、と沼地を打つような怨念が落ちた。
――五冊溜まったから、頂きまぁす!!
ぞぶり——
その表現が、最も近いかもしれない。
体の半分をえぐり取られたような衝撃が、グラヴェルの肉体をぐらりと揺らす。
喝采の禁書が放つ、最たる権能――満たされた悲劇性を媒介に、魂の捕食が始まった。
全身から白い靄がほとばしり、喝采の禁書へと吸い込まれる。
開かれた装丁は食むように閉じ、大歓声の拍手が降り注いだ。
不快な音調に視野が揺れ、グラヴェルの手元から、黒藍の魔導書がぼとり、と落ちる。
だが、ここまでは想定内だ。
なぜなら、すでに経験済みだから――今よりもっと満身創痍で、今よりもっと弱かったころに、俺たちは賛美の悪魔を討ち滅ぼした。
だから、次の展開も予測できる。奴は、喰った惨劇を再現する!
喝采の禁書から、どす黒い瘴気が吹き出した。抗えぬ勢いはグラヴェルを丸ごと呑み込む。
五感が恐ろしい速さで奪われていく――手足、腹、心臓、耳、そして最後に両目まで。
気がつけば、真っ暗な世界に伏していた。意識は靄に覆われ、混濁している。
目の前に広がるのは、燃え落ちた街の光景。瓦礫の炎、絶え間ない悲鳴。
『花の都は、一夜にして灰と化した』
どこからともなく、喝采の禁書の声が、暗闇に差し込むように降りてきた。
パッと、目の前の情景が変化し、崩れた瓦礫の山が現れる。
その中から、這い出る小さな手。燃え尽きた骸をどかしながら、泣きじゃくる少年が姿を見せた。ふらふらと周囲を見渡して――親を探しているのだ。
「もう……いねぇよ」
ビクリと体を震わせ、恐る恐る足元の瓦礫に手を這わせる。
その小さな手が、焼け焦げた何かを掴むと、泣き叫ぶ声はさらに大きくなった。
「……父ちゃんは、すぐそこの瓦礫の下にいる」
少年は泣きわめきながら、何度も名前を叫び続ける。
否定するように周囲の小石や瓦礫をどかし、必死に確かめる。
泣き声に絶望が混じった。胸の奥の古傷が疼いて仕方ない。
うつむいたまま振り返る少年――前髪から覗く瞳は、狂おしいほどの恨みが宿っていた。
「よせよ。……何もできなかっただろ」
その言葉を否定するように少年は頭を振り。狂犬のように歯を食いしばり、飛びかかってきた。
「……ぐっ」
グラヴェルは腕で噛みつきを受け止め、頭を包むように抱き寄せる。
そして、優しく、少年の感情を受け止めるように、腕をひねり――静かに最期を迎えさせた。
少年が煙のように消えると、同時にグラヴェルの体調も少しずつ戻ってきた。
これが賛美の悪魔――いや、正確には喝采の禁書の手口だ。
同時に、惨劇の原因を断てば、抜かれた力は取り戻せる。
「あん時は確か、直弥が先に取り憑かれたっけか……。
しょうもない悲劇か喜劇か分からん再現のせいで、打ち破るのは楽勝だったが……」
――これは、趣味が悪すぎるだろ。
次に、眼前に現れたのは、串刺しにされた亡骸の山だった。
突き立つ魔獣や使役獣の間に、幼少期に世話になった村の仲間たちの無惨な姿が見える。
その上、下卑た笑いで飾り付けるのは、人間界の兵士や異世界の冒険者たちだ。
戦時中の出来事――前線の境界にあった村々は、無情にも戦火に巻き込まれたのだ。
兵士の悲鳴が陰湿な空気を裂く。
その背後から唸り声を上げ少年が飛び出した。すれ違いざまに兵士を斬りつけ、打たれて転がる。すぐに体を起こして小石を投げつけて。再び立ち上がって冒険者を斬り倒す。
装備らしい装備はない。拾った武器を振り回し、奪った武器も振り回す。
『死の谷を抜け 少年は 一振りの剣を手に
戦場を駆け 森を守り 侵略を屠り
いつしか彼は 誉を賜り
相棒を背に 今日も駆ける』
喝采の禁書が、どこかで聞いた歌を紡ぐ。
駆ける少年は、やがて青年に姿を変えた。
鎧を身にまとい、武骨な長剣を恭しく掲げ、こちらに向き直る。
怨讐に染まった双眸が、グラヴェルを射抜いた。
「あの詩か、好きだったぜ……きれいすぎて、反吐が出る」
灰色の青年は唸りを上げ、長剣を振りかぶって斬りかかる。
力量差は相手にならない。それなりに鋭い太刀筋も、上体だけでかわす。
がら空きに曝け出された胴体。背骨をへし折る威力で胸中を蹴り抜いた。
青年の短い断末魔と、胸元からちぎれた符具が舞い、グラヴェルの視線が一瞬、縫い付けられた。
心を揺さぶる。それは、父母の――。
――ドスッ
「……ぁぁ?」
背後から、腹部を貫かれた。さらに成長した灰色の剣士が見える。鬼気迫る表情に荒んだ目つき。
拍手が舞い降り、喝采の禁書が嗤う。
流し目に捉えた鎧姿――兵役時代の装いだと、記憶が呼び覚まされる。
思い出したのは、魔導国に従軍し始めた頃。転々とした戦地の臭いが、鼻を突く。
「我ながら、いい不意打ちじゃ、ねえかっ!」
一瞬で体を入れ替え、隙間に手刀を差し込み、命を刈り取った。
――パタタッ
痛みは、現実の傷だった。
ぎりり、と快剣を握りしめる手に魔力が迸り、炎が剣先から噴き出した。
一閃、闇を切り裂き、虚空を裂けるように振り払う。
その刹那、喝采の禁書が僅かに苦しむ声を滲ませた。
「陰険なもん見せてんじゃねぇよ。
貧相な話だから、拍手が弱いんじゃねぇか?
しょっぱい喝采だなぁ、おい!」
声が空間に食い込み、冷たく残響する。
その直後、沈黙が舞台を覆い、世界の音がピタリと止まった。
だが、ほんの一瞬のこと――次の瞬間、会場を揺るがすほどの大歓声と拍手が巻き起こる。
喝采は終わらない。受けた挑発は何倍にしても返してやろう。
禍々しい気配を携えて、スポットライトが舞台を照らす。
次なる讃美は、哀れな男の転落劇。
それは英雄が絶望に堕ちた物語。
――
天井の高い軍法会議室に、乾いた木槌の音が落ちた。
大柄の男が後ろ手に両手を拘束されたまま、壇上の裁判長を睨み上げる。
味方に突如襲われ、あらぬ疑いを着せられた。
それでも、自分を信じて送り出したノアの街と、魔導国の軍法の戒律を信じて捕まり、行き着いたのは処刑場たる、審判の議場。
「……始めよ」
裁判長の低い声を皮切りに、軍検察官が羊皮紙をめくる。
読み上げられるのは、男が知らぬあいだに舞台の裏側で組み立てられた罪状だ。
「被告人は、戦時において魔導国領近傍にて無許可の陣地構築を主導し、侵攻を企図し得る前線拠点を形成した疑い」
「指揮権を逸脱し、軍隊を危険に晒した越権行為」
「和平交渉を有利に導くため、双方に損害を与える共同謀議を行った疑い」
思わず笑った。喉が掠れるほど乾いていた。
「バカ言え……俺は、上の命令で陣地建設の護衛についてただけだろうが。
場所も、目的も……ノアの評議会からの依頼だったはずだ!」
傍聴席の軍人たちは動かない。
目の奥に浮かぶのは同情でも怒りでもない、決まった筋書きを読み進める役者の光だ。
その中には、魔導国の知り合いも、ノアの評議会の顔ぶれすらある。擁護する声はなく、静まった異様な空間に息苦しくなる。
「なんで、だ?
……平和のための会合陣地じゃなかったのか?
なんとか言えよ……そこのあんた、冒険者ギルドの上役だよな?!」
軍検察官は、冷徹そのものの声で告げる。
「被告人の行為は、作戦命令の範囲を逸脱し、
敵国領への侵入と侵攻拠点の構築に該当すると判断される。
以上より、被告人の供述は信用性に欠け、採用しない」
動揺も、ざわめきもない。不自然な状況に男は息を呑んだ。
この瞬間、悟る。
——両方に売られた。魔導国も、大都市ノアにも。
“和平のための犠牲”という旗を掲げて、自分を差し出したのだ。
裁判長が静かに言った。
「被告人。弁明はあるか」
もはや意味がないのだろう。
魔導国にいる戦友、大都市ノアの仲間たち……どちらも助けたくて。戦争を終わらせるためにノアの評議会に従い、足掻いて、走り回った。その結果がこれだ。
大罪をきせられた、滑稽な我が人生。
その最後が、あまりにも虚しくて、首枷が涙に濡れる。
――この世は死地だ。今死ぬのも、いずれ口封じされるのも変わらない。
運命は男に死ねという。真相など誰も気にしない。
ただ、戦犯者の死という記録が欲しいのだ。であるならば。
「真実にはどうせ誰もたどりつかん。ここが最後の分水嶺だ」
――情けや道徳心はここで捨てる。はっ、俺はどのみち今日、死んだのだ。
一拍の静寂。
木槌が、落ちる。会議場の石壁に冷たく反響した。
居並ぶ顔ぶれは誰一人として表情を変えず、判決はただの“予定された段取り”として淡々と進められる。
「主文。被告人・毒島直弥を、死刑に処す」
――なお、や。
絶望劇に震える声が耳を打った。祈りのように差し込まれた呟きは、誰の声か。
この瞬間、毒島が影だけ残して掻き消えた。
――チャリッ
硬質な柄を握る音。その僅かなタイムラグ。血風を巻いて虐殺の嵐が吹き荒れた。
悲鳴を上げる間も与えない。手に触れたものを武器に、何よりも早く命を刈り取る。
議場は突然、慌ただしくなり、怒号が飛び交い物々しさを増す。
外から衛兵が飛び込んできた。だが、毒島は躊躇わず斬り、貫き、叩き潰す。ここから、出ることを許さない。誰ひとりとして。
鬼の慟哭は、大量の拍手の音に埋もれ、血涙は、返り血に染まった。
すべてを屠り終えた議場は血の海に沈み。荒い呼吸を残して、毒島は逃げる。
逃げて、逃げて、その背中が闇にのみ込まれる姿を見届け、グラヴェルは激しく心臓を殴られた。
自分の知らない、かつての相棒の記憶。
自分の知らない、虐殺劇。
そして、惨劇の場に間に合わず、駆けつけた現地で感じた違和感を思い出す。
――死を受け入れた同僚の、穏やかとすら思える悲しい亡骸。
急展開する毒島の苦悩が脳を侵食し、脈打つ動悸に胸が苦しい。
まずい、思考が回らない。
耳まで裂けそうな嗤い声と拍手が渦巻き、奔流となってグラヴェルを飲み込んだ―――。
※次回――今へ。英雄とは誰が決めるのか




