39 夜風に馳せる――かつて英雄と呼ばれた男
※31〜35話で描かれた闇ギルド 毒島編の続きのエピソードになります。
静かな寝息が、夜の闇に溶けていた。
鼻をつく薬品の匂い。見上げた天井は、灯りの届かない灰色。
毒島は、重い瞼を持ち上げた。
清潔さの中に死が混じり合う匂い——ここは、闇ギルドの提携医が営む治療院。
覚束ない意識のまま、微弱に全身を動かし、体の稼働域を確かめる。拘束はされていない。
ピクリと指先まで感触を確かめ、何処まで安静な状況なのか確認を終えた。仰向けになった巨躯はそのままに。
次は置かれた状況を把握すべく、意識を急速に研ぎ澄ませていく。闇ギルドの首魁は恐ろしい程に冷静沈着だ。
――敗北し、瀕死で倒れた。その後は誰が運び……。
どこから記憶が途切れている?
息を潜め、そっと腕に力を入れた瞬間、鋭い痛みが全身を貫いた。内臓まで痛めているようだ。
だが、その痛みの奥に、確かな再生の実感を感じる。
死地を越えた肉体が、より過酷な環境へ適応するように、細胞の一つひとつが熱を取り戻し。
異常な速さで、生命の息吹が体を駆け巡る。
——なんだ? 腹部が妙に重い。
ゴキリと手首を鳴らし、ゆっくり上体を起こす。
視界の端に、金糸のような髪が揺れた。編み込まれた金髪。
その先で、毒島の衣服を両手で強く握りしめたまま、
黒肌の美女が苦悶の表情で眠っていた。
レヴィ。闇ギルドの幹部にして、世話焼きの部下だ。
今だけは、毒島の体温に縋るように、静かに寝息を立てていた。
毒島の眉間に、ビキリと皺が寄る。
……だが、目の奥は静かに落ち着いていた。
傍らの椅子で静かに目を伏せていた赤髪の男が、その気配に気づいて目を見開く。
「っ、…………?」
結った赤髪が喜色に揺れる。声を上げかけた瞬間、毒島の静かな視線をなぞって、目線を落とした。
その先で、彼はレヴィを見て、さらに顔をしかめた。
「ぴぇいっ?!」
レヴィがびくんと跳ねる。赤髪の男の“気遣い入りの威圧”が眉間に刺さったのだ。
毒島の身体に障らなぬよう極細に研がれた威圧を受け、まるで猫が怒られたように毛を逆立てる。
不満を漏らそうとして、彼女はようやく自分が毒島にしがみついていたことを悟り、慌てて離れた。
顔を真っ赤にして、衣服を整えながら無理に平静を装う。
「……お目覚めになりましたか、マスター」
声は冷静だが、耳まで真っ赤だった。
赤髪の男が、ふぅと長い息を吐いてしまうのも納得だ。
レヴィは、何事もなかったように背筋を伸ばすが――視線が泳いでいる。
毒島はその様子を見て、わずかに口角を上げた。
普段はあまり見せる事のない、少し角が取れた、笑み。
「……ふ」
低く漏れた笑声に、レヴィはびくりと肩を揺らす。
その瞬間、彼女の胸にふと湧いたのは、畏敬の念。
死に瀕してなお、強者である男。その異常な強かさに、改めて憧憬と尊敬に揺らぐ。
赤髪の男は、そんな二人を横目にちらりと見て、口元を少し緩めた。
何事もなかったように、傍の台から果物を取り上げ、取り出したナイフを片手に器用に皮を剥き始める。
皮を削ぐ音が、静かな夜の治療院に小気味よく響いた。
赤髪の男から果物を受け取ると、毒島は豪快にかぶりついた。
甘い果汁が喉を滑り落ちる感覚。足の先まで英気が染み渡り、覚醒した意識が現実へと戻っていく。
「……それで、状況はどう転んだ?」
果実を嚥下しながら、低く問う。自信ありげな笑み。
赤髪の男はナイフを拭い、淡々と口を開いた。
「ボスが倒れてから、二日。
主目的であったノア評議会への調略は成功しました。
アイゼンヒュート家が、ゼムント家の排斥に動きだしています。
予定どおり、作戦は次の段階に移行。黒兵衛と集金屋から報告が入る運びです」
「……上出来だ」
毒島は短く頷き、差し出されたグラスを取る。
赤髪の男が注いだ透明な酒の中で、魔導具で生成された氷が淡く光を返した。
レヴィが眉をひそめる。
「ちょっと、マスターはまだ療養中で——」
言い終える前に、赤髪の男から無言でグラスを手渡された。
キョトンとした顔のまま、視線を泳がせると、毒島と目が合う。
無言。しかし、恐れも不快さもない、静かな労い。
毒島がレヴィのグラスに、そっと注ぎ足す。
澄まし顔が一瞬で崩れ、レヴィは慌てて両手でグラスを受け取った。
赤髪の男もまた、無言で酒を賜る。
乾杯の言葉もなく、ただ三つのグラスが、軽く触れ合った。
口をつけ、微かな氷の音が響く。誰も笑わない。
それでも、暗幕に秘された、静かな祝杯だった。
夜の帳は、そんな彼らをただ、見守るのみだ。
赤髪の男は、グラスを置き、少しだけ毒島の顔色を伺った。
「……それと、もう一件」
一拍の沈黙を挟んで、続けた。
「幻想図書館の者達は、その後、西の緩衝地帯へ移動。
本日の昼前、変異型の魔導書と遭遇したと報告が入りました」
毒島の眉がわずかに動く。
赤髪の男は言葉を選びながら続けた。
「賛美の悪魔と断定できる個体は確認されず……
ただ、周辺に高濃度の魔力汚染が。
……奴らが禁書と称する魔導書と、現在も交戦中です」
グラスの中で、氷がかすかに音を立てた。
毒島は揺れる酒精を見つめる。
その琥珀の奥に、過去の残滓が淡く滲んだ。
——賛美の悪魔は復活などしていなかった、……ということか。
暴れているのは、奴が遺した「純白の魔導書」そのもの。
思考が静かに形を結ぶと同時。思いが馳せた。
――あのクソ猟兵は、見つけられただろうか。
ぽつりと心奥で呟いた声は、どこか懐かしさを帯び。
ふと、胸の奥に微かな熱が灯る。
それは、遠い昔の仲間を思い出すような、むず痒いほどの郷愁だった。
だが、そんな感情はすぐに、黒く濁った後悔の底に沈んでいく。
毒島は静かに目を伏せ、酒を飲み干した。
かつての自分を呪うように、喉を焼きながら。
氷の音が、遠い記憶を叩いた。
――
夜風を浴びて、焚き火の光が揺らめく。
懐かしい酒宴の匂いと、誰かの笑い声が胸の奥で蘇る。
「おい、毒島さん、またお湯作ってくれよ」
「便利すぎんだろ、そのチート!」
「俺のチートに頼るなってんだ。しゃーねぇ、ただ水を湯に変える力の、何がいいんだか」
「はいはい、“ただの”な。 “ただ”だけに、俺は、お前が手放せねぇ!」
片目を裂く傷をものともしない仲間の、仲間たちの笑い声が、炎の弾ける音に混ざって夜空に消えていく。
あの頃の自分は、まだ信じていた。
世界を救うなんて大げさなことじゃなくても、
誰かの役に立てる力があると——そう思っていた。
――
カラン、と。
現実に引き戻すように、グラスの中で氷が音を立てた。
「お前は、もう死んだだろ」
小さく、ぽつりと零れた言葉は、誰にも届かず夜に溶けた。
今この手に残っているのは、あの温もりではなく、
ただ、冷えた酒の感触が喉を落ちるだけだ。
口の中の違和感。傷口から混ざるように錆びた味が古傷を抉り、惨劇が蘇る。
――
——血風が舞った。
空気が裂け、世界が色を失っていく。
悲鳴を上げる間も与えない。手に触れたものを武器に、何よりも早く命を刈り取る。
斬り、貫き、叩き潰す光景に。恐れと軽蔑の入り混じった瞳を、逃さない。
ここから、出ることを許さない。誰ひとりとして。
反律の大剣を手にした先、すべてが終わっていた。
荒い呼吸だけが、世界の中心にあった。
……赤く塗りつぶされた壁。
滴る血に照らされ、床が濡れて光る。
その匂いを吸い込みながら、立ち尽くす記憶は、何度も悪夢として繰り返された。
決まって最後に——目に入る。
“笑い合った、見知った顔。”
一瞬の交差。抵抗すらしなかったその亡骸を見下ろし、
心の奥で、最後の何かが、音を立てて崩れ落ちた。
焚き火の笑い声が、血の海に沈む。もう、どこにも、戻る場所さえも、失ったのだ。
――
「……今さら知って、どうする」
灯すような、小さな声は、かすれて消えた。
――お前も、俺も──赦せるわけがない。
言葉は、心の泥炭に沈み込む。
毒島がゆるやかに席を立つと、グラスの氷が乾いた音をたてた。
ついてこようとした赤髪の男に、わずかに手を上げる。
「……夜風に当たるだけだ」
そう言って、背を向けた。
扉の向こう、冷たい夜気が撫でる感触を、肩で切る。
胸の奥で、焼けるような熱さが込み上げた。
次回 主人公たちが苦戦する禁書戦に進展が。大きく動きます。




