38 喝采の禁書
『さあさ、読者の皆さま——ご一緒に。 喝采!』
その瞬間、世界が裂けた。
断崖絶壁を思わせるような熱波が地面から噴き上がり、
炎が天を舐め、音が、光が、空気が——煉獄と化した。
そして。それらすべてを讃えるかのように、
どこからともなく、万雷の拍手が轟いた。
「な、なん……ですか、これッ!?」
熱風が爆ぜた。焦げた空気が肌を刺し、ミカサは反射的に叫ぶ。
周囲の木々が一斉に炎を噴き上げ、爆ぜる音が耳を裂いた。
自分の声すら、炎の咆哮にかき消されて、もう届かない。
セラが倒れかけた幹を蹴り払うと、振り返りざまにミカサの手を掴んだ。
「近くにいなさいっ」
引き寄せた瞬間、背後でバキバキと音を立て、燃え盛る木々が次々と倒れ込んでくる。
炎の熱が肌を焼き、空気が悲鳴のように軋んだ。
——どこにも安全な場所がない。
数日の間に、よくもまぁ、何度も死にそうな目に遭うものだと皮肉が芽生える。
自棄になり笑いがこみ上げたところ、無言で頭を撫でられた。力強くて、優しい女性の手。バカだ私は、と、奮起したミカサは、両手に魔力を集中させ、洪水のような水柱を打ち出し、火の粉を押しのける。
「いいぞ、突破口を押し広げよう!」
隣に走り寄ったジョシュアが小型模型を周囲に投げつけ、建造魔法の起動紋を叩き込む。まばゆい光が地面を走り、土塁と防壁が立ち上がった。
だが、わずか数秒。炎がそれらを飲み込み、赤い舌が壁をなめ尽くしてしまう。
「……一瞬も、もたないのか」
冷静を装うジョシュアの笑顔に、苦い陰が落ちる。
止まってはいけない。
「——あれが、讃美の悪魔ですか!?」
息を切らせながら問いかけたミカサの声。炎と風がさらっていく。
ジョシュアは答えず、ただ視線だけを空へ向けた。
そこには、炎の中心でゆるやかに浮かぶ一冊の書——金属めいた背表紙が、灼光を反射していた。
「違う。あれは……《禁書》だ」
「禁書……?」
「魔導書ではあるが、あいつらは“概念”を喰らい、自由に解釈する。
世界に再定義を突きつける存在だ」
走りながらも、ミカサの思考を止めるまいと努める。
——概念を、喰ら……なに?
最後がよくわからなかった、でも。
自由に解釈するという言葉が引っかかる。
惨劇を歌い、拍手が起きた。なら、あの詩の意味は……。
脳裏で、さきほどの調べが再生される。あの、妙に芝居がかった讃歌。
「魔導書、生贄……拍手……!」
ジョシュアがふと立ち止まり、独りごちた。
その顔が見る間に険しくなっていく。
ミカサは険しい顔から目を外せない。この胸の奥がざわめきはなんだ。本能が告げる。あれは、私を、“知っている”。
空に浮かぶ禁書が、ゆっくりとこちらを向いた。
——狙われている。間違いない。
宙に浮かぶ禁書が、ふたたび頁をめくった。
紙の擦れる音が、風の唸りに紛れて低く響く。
——次の瞬間、声が降った。いや、詩が、歌うように世界へ染み出した。
『無粋な学友を伴って、秀才は告げた——努力が足りないと』
ミカサがピクリと反応する。
学園都市で魔法の才なしと笑いものにされた記憶が過ぎる。
まるで記憶を覗かれたようで気持ち悪い。
『凡人の必死さなど、いともたやすく、崩れ落ちるのだ』
その言葉と同時に、ジョシュアの築いた防壁が砕け散った。
土塁が跳ね上がり、炎が竜の舌のようにうねり、風の刃が森を裂く。
どこからともなく、ぱらぱらと拍手が響いた。
すぐに一人、二人と重なり、増え、狂気じみた喝采が空を満たす。
ヒラリと満足気に禁書が回転し、背表紙が陽光に反射した。
《 喝采の禁書 》
そこに記されたは——金泥で刻まれた禁忌の題目。
「喝采……って、まさか」
セラが息を呑む。
「いいえ、アーカイブは絶対。
たしかに封印してたはずよ。誰かが持ち出したの?!」
「……もしくは、封印が破れた、か。脱走でもしたかもしれん——考えにくいが」
セラとジョシュアが言葉を交わす間にも、空気が震え。
拍手の音が、人の声を真似て笑い出す。
爆炎が林の奥から立ち上がり、それはまるで、この世の嘲笑そのものだった。
悠々と睥睨するように、禁書が、主導権を握った。
詩が紡がれるたび、世界が歪む。
『努力は、報われぬこそ、美しい』
風が逆巻き、地が裂け、炎が鮮やかに塗り変わる。
森そのものが“喝采”に取り込まれていく。
『凡俗の涙を、拍手で覆え』
音と光が交錯し、幻惑の奔流が押し寄せた。
セラが魔導障壁を展開し、ジョシュアが建造魔法を繰り出していく。が、間に合わない。
石壁の砲塔、鉄格子の壁、トラバサミのような妨害装置、次々と立ち上がる防壁が、瞬く間に風圧で吹き飛ばされていく。
禁書がまるで楽しむように、指揮棒のように頁をひらめかせた。
「波状攻撃——歌えば何でもありってこと!?」
理不尽な現象に我慢できずセラが叫ぶ。
「こんなの誰が封印できたって言うのよ!」
その言葉を呑み込むように、拍手がまた一斉に響いた。
嵐の中で、無数の手が打ち鳴らされる音。人間のものであるはずがない。さながら怨讐。
この世ならざる“観客”が、悲劇を美化して歓声をあげる。
——幻想が、侵入してくる。
ミカサの視界が、揺らぐ。
気づけば、そこは森ではなく、灰色の学園の教室だった。
机の上にはビッシリと板書したノートに、
何度も読み返してクタクタになった教本。
それらを嘲る、見るに堪えない不合格通知。
壁際では、誰かが笑っている。
“努力しても無駄だよ。魔力が無いんだろ”
“いつまでも委員長面しないでほしいわ。落第生”
胸が、締め付けられる。
——どうして、今さら。
この世界に来た当初の記憶。
誰も、認めてくれなかった努力。
誰も、助けてくれなかった孤独。
それらすべてを、あの拍手が“肯定”している。
「やめて……そんな拍手、いらない!」
ミカサは耳を塞ぐ。
けれど、音は止まらない。
拍手は空から降り注ぎ、皮膚に刺さるように焼きついていく。
「ミカサ、気を保て!」
遠くで、か細くも、誰かの声が届く。
「禁書の幻惑に飲み込まれるな!
あれは“感情”を喰う——ミカサ、君は、いま此処にいる!」
ぎゅっと手を握られた。
張り詰め、血が混じった、必死の温もり。
その叫びで、ミカサははっと目を見開いた。
現実に戻る。だが、その間にも禁書の光は強まっていく。
燃え盛る森の中、ジョシュアが危険な眼光で指を鳴らした。
「——《建造》、鉄艦!」
轟音とともに、土中から鉄の塊が出現。
周囲の倒木と岩を爆ぜ飛ばし、鉄を束ねた、巨大な戦艦が、禁書を閉じ込めるように組み上がった。
だが、次の瞬間——。
『空の群青を裂く 鉄火の竜胆。
うねる弾幕の雨は降り注ぎ、
鉄の海に生まれた星を 穿ち沈めた。——これぞ喝采!』
詩が終わるや否や、戦艦が見えざる砲火を受けて破壊され、音を立てて崩壊した。
まるで意味を失った建築物のように、形そのものが砕けていく。
「っ、……建造魔法とは、どうにも相性が悪い」
ジョシュアの眉間に深い皺が刻まれた。
禁書はくるくると舞い、拍手がまた響く。——まるで舞台の主役のように。
バサリと、湿った紙の裂けるような音が落ちた。
「——えっ」
ミカサの足元に、鉄紺の装丁をした魔導書が転がっていた。
ゾワリと肌が粟立つ。頁が勝手にめくれていく。
しかし、その中身は——どこまでも白い。何も、書かれていない。
「……いやっ」
浮き上がった鉄紺の悪夢を見て悲鳴が上がる。
唇が震わせてミカサが後ずさるが、ピタリと吸い付くように鉄紺の魔導書が追随して離れない。
もはや限界に近い。ギリギリで精神を持ち堪えている。
追いつめられたミカサを見やりジョシュアは息を詰めた。
――まずいぞ、……四冊目か!
頭の奥で、毒島が語った言葉が蘇った。
ーー五冊集まると、禁書に喰われる
「まだ、間に合うはずだ……落ち着け、一度ここから離脱するぞ」
焦燥を押し殺すように、ジョシュアはセラを探して周囲を見渡した。
ーー禁書の回収は、……どうする
メモリウスの言葉が脳裏をよぎる。幻想図書館の使命。外勤員の本分。
しかし、今は——そんな理屈を抱えている余裕はない。
「ミカサ!」
ジョシュアの呼びかけに、セラが駆け寄り、ミカサを引っ張る。しかし、彼女は膝を折った。
全身を縫いとめるように貼り付いた四冊の魔導書が、淡く白く光り出している。
ページの隙間から、細い光が糸のように浮かび上がり、互いに絡み合ってゆく、不吉な予兆。
「……あ、あつい、なに、これ……!」
ミカサの身体から白い靄が抜け出した。
それは、ゆらゆらと宙に漂い、喝采の禁書へと吸い込まれていく。
顔のない喝采の禁書が、笑顔を隠したように見えた。
だが、微かに震える、しぐさは隠せない。
それは、明らかに愉悦。
「五冊、溜まってからじゃないのか……
つまみぐいとは、行儀が悪いんじゃないか?!」
絶妙な手詰まりにジョシュアは焦った。
耳を打つように、悲鳴が大きく重なる。
ミカサの身体がガクガクと震え、ついに倒れた。
拍手が狂笑のように波打ち、舌舐めずりする。
倒れた少女の全身から浮き出た白い靄が、集まる様子を。
立ちつくしたセラが、息を呑み、顔を引きつらせた。
「それ、五冊目じゃ、……ないわよね」




