36 二つ目の執着を追え
闇ギルドが起こした騒動の翌日。
幻想図書館の応接室には、紅茶の香りがゆるやかに漂っていた。
ステンドグラス越しの朝光が、古い木製のテーブルに斑の模様を描く。
昨日の血と煙の匂いがまだ鼻の奥に残るが、それでも、静けさが心地よい。
「いっっ、痛い。 セラさんや、少し乱暴しすぎ……うぐっ」
ジョシュアの悲鳴が、緩やかな静寂を破った。
セラは冷ややかな目で彼の腕を押さえ、包帯をきゅっと締める。
「何よこれくらい。傷口が開いたら危ないでしょ、黙って私に任せ、な、さいっ」
「いや、骨まで締まってる、これは折れるかもしれない、本当に!」
隣では、『撃墜の魔導書』がページをぱたぱたと鳴らしながら、ゲラゲラと笑っていた。
その横で、『呑欲の魔導書』がテーブルの上の大量のお茶菓子を次々と飲み込む。
皿が空になるたび、机の脚が小さく揺れた。
「おい。私の焼き菓子」
セラが振り返りざま、容赦のない拳骨を叩き込む。
鈍い音が響き、魔導書の表紙がへこむほどだった。
情けない呻き声を上げて、『呑欲』はページをばさりと閉じる。
引き気味に笑うジョシュアの隣で、『撃墜の魔導書』が慌てて姿勢を正した。
表紙をきちんと閉じ、背筋を伸ばしてソファに立て掛かる。
その姿があまりにも「いい子」すぎて、ミカサが思わず吹き出した。
その笑みが、図書館の重厚な空気をふっと軽くする。
「笑顔が戻りましたな」
熟年の司書——メモリウスの声は、深い書架の奥で鳴る鐘のように柔らかい。
ミカサは恥ずかしそうに視線を落とした。膝の上で指をいじる。頬には、確かに昨日にはなかった色が戻っていた。
けれどその目の色は、不安が一つ混ざっていた。
「大丈夫だ。一つの執着は、断ち切れた。
不安の闇も、見つめれば道が見える。
……ここにいるのは、君の味方だ。独りじゃない。」
ジョシュア達は、改めて毒島、そしてミカサから語られた内容を、一つひとつ、慎重に整理した。
まるで紙の端を確かめるように。
やがて老司書は、深く息を吐き、小さく頷く。
「……やはり、闇ギルドの騒動こそが“ひとつ目の執着”で合っているでしょう」
ミカサの腰元の魔導書に目を向ける。
沈黙が記憶を呼び起こすのは、かつて『福音の書』と呼ばれた惨劇だ。魔導国に『賛美の悪魔』と称された前例のない化物の出現。
異界から渡ってきたとも、異世界人が召喚したとも噂が飛び交った。ある噂では、何十年も前から潜伏していたのではないかと荒唐無稽なものまであったほどだ。
幾人かの勇者が敗れた後、危機感を募らせた魔導国と大都市ノアの冒険者ギルドが手を組み、討伐隊を組織したと記憶している。
その後、悪魔は討伐され、平和が戻り。戦争が起きた。
悲劇は形を変えて紡がれていくのか。
心の奥底で、揺らぐ理不尽と苦悩。
考えすぎは良くないと頭を振り、メモリウスは皆の注目を集める事にした。
「では、次なる導きを得なければなりませんな」
——ゴトリ。
白磁の装丁に覆われた魔導書が、テーブルの中央に置かれた。
硬質な音が室内に広がり、空気がふっと張り詰める。
遠のく茶葉の香りに代わりに、浮き立つ紙の匂い。
メモリウスが指先で表紙に触れると、白磁の表面に亀裂のような光が走った。
“真言の魔導書”——
それは再び、彼女の未来を映すべく、ページがひとりでに開く。
風を頼らず、紙片が舞い上がり、淡い光が室内の壁を照らした。
浮かび上がった文字は、静かに連なり、ひとつの詩文に。
波打つ揺らめきが、視線を誘う。
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灰と死の谷を 歩み続けた幼子
その足は 戦地に染まり 鬼と成り果てた
童心の夢物語は 塗りつぶされ
その果てに 炎は彼岸より来る
寿ぎは 踏み入れてよいものか
狩られるまでは 気づかれまい
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推考と疑念が、応接室の隅々まで静かに広がった。
壁に連なる重厚な木製の書架、ティーカップから登る湯気、思考に落ちる息遣い。それらが言葉の余韻を吸い込み、まるで時まで止まったかのように感じられる。
しばらく、ただその沈黙に身を委ねていた。
メモリウスは、浮かび上がった詩文を目で追い、眉間に深い皺を刻む。
彼の指先がテーブルの縁をかすかに撫でるたび、静かな軋む音が空気に溶け込む。やがて、低く唸るような声が、静寂を破った。
「……これは、かつての戦乱に育まれた英雄譚でしょうか。
復讐のために鬼と化した者。
その連鎖を——称賛すべきだとでも、言いたいのか……」
彼はゆっくりと視線を上げ、ミカサを捉える。
老いた瞳の奥には、探るような光が宿り、微かな警戒心と知的好奇心が同居していた。
「……この“鬼”は、ミカサ。あなたとどう関わるのか、それが執着の鍵になるかもしれませんな」
重い沈黙が再び応接室を包む。
セラは腕を組み、天井の装飾を仰ぎ見ながら、思考の糸を手繰るように静かに言った。
「空から降る魔導書——偶然じゃなかったということね。
裏で糸を引いてる存在がいる気がしてならないわ」
ミカサは息を詰め、両手を膝の上でぎゅっと握る。
小さな指先に、内なる恐怖と決意が交錯する。
「……鬼と呼ばれる人が、私を狩ろうとしている……ということでしょうか」
ジョシュアがその言葉にゆっくり頷き、テーブルの上に掌を落とした。
指先の圧が、無言の覚悟を空気に刻む。
「毒島から聞いた“賛美の悪魔”の話と照らし合わせると、符号する点が多い。
この詩は、おそらく“賛美の悪魔”の成り立ちを示しているか……
もしくは、別の誰かを指している。
どちらにせよ——狙われているのは確かだ。
灰と死の谷もいえば、このあたりでは——」
メモリウスが静かに頷く。
「“灰と死の谷”……それは、かつてノアと魔導国が大戦を繰り広げた地。
もし真言がそこを指すのなら、次の執着は、ノアの西部に広がる大森林、そして魔導国との緩衝地帯」
「その地に、あるいは、そこから近づいている、ということね」
セラの声は、応接室の冷えた空気に吸い込まれるように低く沈んだ。
紅茶の香りはわずかに残るが、緊張の影に押されてか、かすかに揺れている。
——こういう時は、不敵に笑うといい。
それが、積み上げた自信を固めるのよ。
「狙われてるなら、逃げるんじゃなく討つ。 それが一番早いわ」
ミカサは顔を上げた。瞳の奥には、決意と恐れが入り混じっている。
ゆっくりと椅子を押しのけて立ち上がったのはジョシュア。
一同を見渡し、息を整える。
「そうだな。やるべきことは、変わらない。
真言の書が示す先へ行こう。二つ目の執着を断ち、ミカサを解放する」
ジョシュアの言葉に、皆が力強く頷いた。
準備に取りかかるべく、それぞれが静かに立ち上がる。
紅茶の香りがまだ残る応接室を後にし、扉の音が一つ、静寂の中に消えていった。
その背中を見送りながら、メモリウスがふとジョシュアを呼び止める。
一歩踏み出した足音が、古びた床板にかすかな軋みを残した。
穏やかな表情。しかしその目元には、硬質さが宿る。
「——ここは、世界の知恵と秩序を収める幻想図書館です」
柔らかい声色に潜む影に、ジョシュアは一瞬、眉をひそめた。
それでも、少しだけ目を細め、短く頷く。
「ここで働く私たちは、世界の観測者であり、記録者でもある。
今回……その怪我は、使命のために負ったものではない。
少し、彼女に寄り添いすぎではありませんか?」
肩の力が抜けた。この熟年司書は、心配しすぎなのだ。
自然に、口元に笑みができる。
「……いけないか?」
一瞬の沈黙。メモリウスは息を飲むように言葉を止めた。
叱責に対してではなく、いつもは冷淡な同僚の変化に。誰かを想う感情が芽生えたことに。
静かに驚き、そして、ほのかな安堵を覚えたのだ。
老司書の口元に、わずかに自嘲めいた微笑が浮かぶ。
「いいえ。そういう時もありますとも。
……ですが、貴方の使命は魔導書の回収。
秩序の番人の一人として、本分を忘れてはなりません」
ジョシュアは短く「心得ている」と答え、窓の外へ視線を向ける。
ステンドグラス越しの光が、包帯に染みた血の赤を淡く揺らめかせ、静かに照らす。
メモリウスはその背に一瞥を残し、ゆっくりと応接室を後にした。
扉が閉まると同時に、室内に残ったのは、紅茶の香りと遠くでめくれる魔導書の紙の音だけだった。
風が、吹いたのだろうか。
誰もいない応接室で、真言の魔導書が、ひとりでに一枚だけページをめくる。
まだ、誰も読んでいない、文字が並ぶ。
—— 賛美よ、逃げろ
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