35 身体が勝手に動いてしまった
暗い地下道を、二つの影が進む。
荒い呼吸が響く、狭い通路。少年が、大柄な男の体を肩に担いでいた。
男の傷は深く、手当てと呼ぶにはあまりに拙い包帯が巻かれている。
少年の顔は真っ青だ。理由はいくつもあった。
——見てしまった。
貴族街を吹き飛ばす爆発。
炎の中を走る、幻想図書館のジョシュアの背中。
追いかけた先で、同郷のミカサが闇ギルドの構成員に——目の前で連れ去られた。
——巻き込まれてしまった。
なんとか追跡した先で、息を潜めて廃墟の協会に忍び込んだ。そこは既に激戦の只中。猛攻に建物が揺れ、怖くて近づけない。
大きな亀裂が壁や天井を走る度に「死ぬ!死んだ!」と心で叫んだ。
死闘の末に静寂が戻り、ミカサが救出されホッとする。
そして、ほんの一瞬、生まれたわずかな隙。
気づけば体が動いていた。
自分たちを恐怖のどん底に叩き落とした、闇ギルドの首魁——毒島を、肩に担いでいた。
気持ちは、ぐちゃぐちゃだ。
何が正しいのか、もう分からない。
ただ、本能だけが叫んでいる。
逃げろ。今は、とにかく——逃げろ。
少年——霧吹カケルは、
闇ギルドのボス・毒島を抱え、幻想図書館と街の警邏隊の追手から、
ひたすら闇の奥へと、逃げ続けていた。
「……ぜ、っふ。
何、やってるんだ、僕は」
ずっと同じ景色だ。
ひょっとして全く進んでいないのでは?
振り向きたい衝動にかられるが、迷子になったとは、まだ自覚したくない。
しかたなく声を出す。声を出すたび、肺の奥が焼けるように痛い。
「……ハハ。布木さんと、泡立が聞いたら、……びっくりしちゃうだろう、ね」
足を引きずりながら、カケルはかすかに笑った。
それは、笑いというより、泣き声に近かった。
肩にかかる毒島の体は、岩のように重い。
腕はしびれ、手の感覚も曖昧だ。
ちらりと肩越しに見た男の顔は、血の気が引き、蝋人形のように白い。理由も分からないまま涙が溜まった。
どくどくと、自分の鼓動だけが耳を打つ、胸のあたり。
——全部この人の血だ。怖い……止まってくれ。
包帯を巻いたのに広がる赤い染み。
いざという時のために持っていた高価な回復薬は既に使い切った。
暗い中では毒島の血なのかも、もうわからなかった。
地下道の空気は重く、湿っている。
土と鉄の匂いに、どこか焦げたような、血の臭気が混ざる。
滴る汗が唇に触れ、しょっぱい。
しばらくして、通路が開けた。
「……どこだ、ここ……?」
闇の奥で、遠く水の滴る音がする。背筋をなぞるように不安が這い上がるが、まだ危機ではない。
自身のチート能力【警機と好機】が、心の奥で微かに反応していた。
危険が近づくと、胸の奥で鈍い痛みのようなアラートが鳴り、
安全な方向に進むと、ふんわりと気持ちが楽になる。
ほんのわずかに呼吸が軽くなる方向に従って。
それだけが頼りだった。
カケルはその“好機”の示す方向に足を踏み出す。
冷たい水溜りを踏む音が響き、闇がわずかに震えた。
「——頼む、もう少しだけ、もってくれ……ください」
背中の毒島は、何も答えない。
その沈黙が、まるで死そのもののように重く、
カケルの心臓をさらに締めつけた。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
背後では、どこかで鉄の軋む音がする。
幻聴、追っ手か、それとも——。
立ち止まるわけには行かない。息を飲み、闇の奥へと足を速めた。
やがて、暗がりの先に、ぼんやりと灰色の影が立ちはだかった。
揺らぐ灯りの中で、その輪郭がゆっくりと浮かび上がる。
——灰色の男。誰だ……
急いでこの状況、言い訳を組み立てようとするが思考がまとまらない。
想定外の事には殊更浮き足立ってしまう自分の弱さが嫌いだ。
なんて言って切り抜けるか、何も出てこないまま対面してしまう。
灰色の男は無表情に見えた。だが、ただ立っているだけで、圧が違う。
肺が押し潰されるような威圧。
刹那、カケルの全身が総毛立つ。
——これ味方って感じじゃないよ!
もう、終わった。殺される。チートに騙されたー!
反射的に後ずさった。
毒島の体が肩からずり落ちそうになり、慌てて担ぎ直す。
背中が重さに耐えかねて、足腰が酷い音を立て涙が出るが、離していない。離さない。
——よくやった、僕。
ああ、喉が乾く。怖くて声が出ないよ!
それでも脳裏にわずかな理性が残っていた。胸の奥に鈍い痛みがない。
警機は沈黙していて、“好機”が、続いているということだ。
切り抜けるチャンスを前にして、息が詰まる。
——じゃぁ、どういうことなんだ?
敵じゃないのに、殺されそうな、この圧は……!
灰色の男が一歩、二歩と静かに近づいてくる。
長身、無駄のない体躯、腰に差した符具が乾いた音を立てる。
見上げると冷たい瞳と目が合った。
「……そこの血まみれ、生きてんのか?」
低く、くぐもった声が暗がりに落ちた。
照明の届かぬ地下道だ。男の表情は読み取れない。
けれど、その口元がわずかに動いた気がして、カケルには——にやり、と笑ったように見えた。
胸の奥で、カッと熱が走る。
怒りとも、悔しさともつかない感情が湧き上がる。
「っ、生きてますよ」
反射的に声が出た。
息を荒くしながら、言葉を継ぐ。
「この人は、こんなところで死ぬような人じゃない」
言ってから、自分で驚いた。
なぜ、そんなことを言ったのか分からない。
あれほど恐ろしく、誰もが恐怖した“闇ギルドの毒島”を、庇うような口ぶりで。
自分の言葉に戸惑う霧吹を、グラヴェルはじっと見つめていた。
灰色の瞳が、暗闇の奥で光る。
そして、ほんの少しだけ——笑った。
「……異世界人は嫌いだが」
短く息を吐き、
「坊主、お前は……いいやつだな」
その声色に、ほんのわずかに柔らかさがあった。
男の名は、グラヴェル。異世界人を狩る、魔導国の猟兵。
任務と感情の間に揺れたが、見逃すことにした。
威圧が少し弱まり、視線が毒島へと移る。
暗闇の中でも、はっきり分かるほどに、グラヴェルの瞳が揺れた。
後悔。寂寥。怒り。そして、何か言葉にできない感情が、入り混じっていた。
カケルは、その表情の意味を読み取れないまま、息を飲んだ。
けれど、“ここでは殺されない”という雰囲気だけは伝わってきた。
ほんの一瞬、張り詰めていた緊張の糸が緩む。
ハッと気づき、自分を罵倒した。
肩の毒島を背負い直しながら、霧吹は小さく頭を下げた。
「……急いでるんで」
そう言って、グラヴェルの脇をすり抜ける。
まだ気を抜いてはいけない、その背後から、静かな声が落ちた。
「……坊主。その男を、どこへ運ぶ気だ?」
反射的に答えようとする唇をぐっと噛んだ。
異能はまだ警報を出してないが、次の瞬間にはどうなるか分からないのだ。
善意かもしれない、でも、こんな状況で信用してはいけない。
無言のまま、ペコリと頭を下げた。
「その先は——左の壁沿いに進め」
グラヴェルは、去りゆく背に声を掛けた。
「貴族街の外れに出るはずだ。俺がそこから来た」
足を止めた霧吹が、肩越しに短く振り返る。
「……ありがとうございます」
掠れた声が闇に溶けた。
グラヴェルはその背を見送り、ふっと口の端を上げた。
笑ったというより、誰にも聞かせないため息のような笑みだった。
静寂が戻る。
遠くで滴る水の音だけが響く。
彼は、崩れた壁にもたれ、状況を整理するように息を吐いた。
——毒島は敗れた。
あの“賛美の悪魔”を屠った一人が。
女子校生ひとりと、その身に宿った魔導書を討ち損じた。
グラヴェルは眉を寄せた。
——信じがたい。だが、あいつなら可能だったはずだ。
殺せなかったとは思わない。
——ためらったのか?
あの惨劇を起こした、お前が。
胸の奥が、鈍く疼く。
それは怒りでも悲しみでもなく、
かつて仲間だった頃の残滓が微かに疼いた感覚だった。
「……直弥」
その名を口にした瞬間、記憶の底にある古傷がむず痒んだ。
誰にも呼ばれぬまま捨てられた、“毒島直弥”という名前。
グラヴェルの唇から、雪粒のように零れ落ちた。
己の声に苦笑する。
迷いも未練も、まだどこかに残っているというのか。
——女子校生が生きている。
それは、俺にとって、都合がいい。
もしあの娘が死に、賛美の悪魔が新たな宿主を探して姿を消したなら。
大都市ノアは、魔導国は、再び血の海を渡る羽目になっていただろう。
それだけは避けたかった。故に、次こそ終わらせる。
——あの“悪魔”は、かつて俺の仲間を喰い尽くした。
だからこそ、この手で討たねばならない。
女子校生を“救う”ことなど、どうでもいい。
だが、悪魔を討つことは、俺自身の——けじめだ。
喉の奥からこみ上げる闘志を、ぐっと噛み殺す。
欲に似たそれを抑え込むと、
胸の奥に、灰のような静寂が戻ってきた。
「……次は逃がさねぇ」
言葉を吐き捨てるように息を整え、
闇の奥へと再び足を踏み出す。
向かうは、魔導書を宿した女子校生。
その背がゆっくりと闇に溶けていく。
残されたのは、血の匂いと、湿った石壁に反響する足音だけだった。
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