27 ……ならば、抗え
——荒廃した協会の一室。
崩れた壁から吹き込む風が、煤けたカーテンをはためかせる。ひび割れた床に散らばる聖具の破片が靴音に小さく鳴き、外には首のない天使像が影を落としていた。その翼は片方が折れ、まるで見捨てられた信仰を嘲笑うかのようだった。
その近くで、編み込んだ金髪をフードに隠したレヴィが、黒い外套の裾を軽く握りしめて立っていた。生地の隙間からのぞく黒い肌が、かすかに光を返す。
彼女の周囲には部下が数人、各々の持ち場につき、警邏隊の追っ手がいつ来るかと目を光らせている。
「……周囲に異常なしです。
警邏隊、幻想図書館は共に、陽動班に釣られて街中を駆け回っているとのこと」
報告の声が、かえって緊張を高める。
レヴィは頷き、ちらりと奥を盗み見て小さくつぶやいた。
その呟きは夜気にかき消され、隣の部下だけが聞き取って苦笑する。
「全体としては、ほぼ計画通りと推察します」
「……そうね。 でも、マスターの様子がおかしいわ」
レヴィはその音にかすかに肩を揺らし、再びフードを深くかぶる。
幻想図書館の広場から連れ去った噂の女子高生。
その腰には三冊の魔導書が張り付くように追従してきた。
「……てっきり、実物を確認したら、有無を言わさず殺すと思っていたわ」
困惑のような囁きを漏らしながらも、その双眸は鋭く暗がりを射抜いていた。
しばらくして、夕暮れの日差しが、荒廃した協会の奥を照らし始める。
高窓から差し込む光が赤銅色に差し込み、埃を帯びた空気を朱に染めていた。石の壁に走る亀裂からは冷えた風が流れ込み、古びた木の椅子をかすかに軋ませる。
椅子に縛られるように腰掛けているのは、レヴィに連れ去られたミカサ。黒髪が風に揺れるままに、浅い息を繰り返しながら、そっと目を開いた。
鼻腔に残る煤と湿気の匂い。耳に届くのは、どこかで滴る水の音。状況がつかもうと、視線を探るように泳がせる。
「……ここは……」
小さく呟く声は掠れて震えていた。
数メートル先。
対面で、大きな影が身動ぎする。
豪奢な椅子に座る大男だ。隆起した肉体が紺碧の鎧からも伝わる筋肉の塊。鋭くレザーカットを施した短髪。額に、ビキリと縦筋を立てた男——闇ギルドのマスター毒島が、黙したままミカサを見据えていた。
光を受けて鎧は暗い青の鈍い輝きを放ち、その存在感は「支配する者」の圧を否応なく漂わせていた。
目が合った瞬間、ミカサの肩が強張る。理屈ではなく、本能で理解した。目の前の男は狩人で、自分は「獲物」なのだ、と。
毒島の視線が腰元に落ち、舌打ちが低く響く。
白紙の魔導書が三冊、彼女の腰に吸い寄せられるように浮かび従っていた。
「……どうして、こうなったか。わかるか?」
その声は冷たくもなく、怒りでもない。ただ感情の読めない問いかけだけが、夕暮れの空気を震わせる。
ミカサは唇を噛み、慎重に答えを探す。
「……なんの……ことですか?」
刺激しないように言葉を選んだはずだが、声の震えまでは隠せない。
毒島は視線を逸らさず、ゆっくりと語り始めた。
「その魔導書は、いっとき『福音の書』と呼ばれていた。
……魔法の才なき者たちが、それを手にして歓喜に震えた。
神からの贈り物だと信じてな」
一瞬だけ、毒島の目が過去を懐かしむように曇った。
だがすぐに硬質な光を宿し、低く続ける。
「だが——それは悪意ある軛だ」
ミカサの背に冷たい汗が流れ落ちる。
「……軛?」
「わからんか。……俺たち、異世界人の言葉で言えば、マーキングだ」
その瞬間、ミカサは心臓を掴まれたような衝撃を覚えた。
逸らしていた蓋をこじ開けられ、見たくなかった真実を突きつけられる感覚。ぞわりと首筋を冷たいものが撫で、不安が骨の奥まで沁み込んでいく。
「……マーキング、だから……離れない?」
ミカサの声はひどく掠れていた。質問というより祈りのようだった。
毒島は視線を落とし、ゆっくりと魔導書を睨む。
「そうだ。お前は……選ばれたんだ。——生贄に」
夕暮れの光が高窓から斜めに射し、毒島の横顔を死神のように染めた。鎧の青が血のような赤に沈み、その声は冷たい石壁に反響する。
「……誰、……から?」
問わずにはいられなかった。恐る恐る、慎重にうかがうように口にした。
毒島は、一呼吸分、告げるか迷うような仕草を見せ、低く唸るように吐き出した。
「——賛美の悪魔だ」
その名を聞いた瞬間、ミカサの喉が詰まった。
空気が冷え込み、背筋をひやりと何かが走る。
悪魔——聞き慣れない単語でありながら、直感が告げる。これは関わってはならないものだ、と。
毒島は、淡々と、しかし静かな怒りを帯びて続けた。
「かつて、『福音の書』が生贄のマーキングであることに……
最初に気づいたのは魔導国だった。
花の都と呼ばれた大都市が、一夜にして灰の谷と化した。
都市国家ノアでも悲劇は続き、いくつもの都市が滅んだ」
ミカサは体験したわけでもないのに、耳の奥で誰かの悲鳴がかすめるような錯覚に陥る。
胸の奥に冷たいものが滲み、手足がじんじんと痺れた。
毒島の声は淡々と、地獄の絵図を描き出す。
「老若男女が、白紙の魔導書に喜び、嘆き。
その怨嗟と共に、悪魔に喰われた。
そしてまた……白紙の魔導書がばら撒かれる。
地獄の繰り返しだ」
ミカサは無意識に身をすくめ、ブルリと肩を震わせた。
聞きたくない——けれど聞かねばならない。
唇が勝手に動く。
「……私は……いえ、私を……どうする気ですか?」
毒島はゆっくりと息を吐き、ほんのわずかだけ目を細めた。
「選択は二つあるが、どちらも悲惨だろうな……。
今なら楽にしてやる……ここで、死んどけ」
その言葉は、まるで岩を落とされたかのように重く、鈍く、胸に沈んだ。
死を——宣告されたのだ、と頭が理解するより早く、心臓が凍りつく。
ミカサは、泣きそうな顔でゆっくりと首を振った。
声にならない声が、喉の奥から絞り出される。
「……死にたく、ない……」
その一言に、毒島の顔に影がさした。夕陽が高窓から差し込む角度で、表情の半分が闇に沈み、読めなくなる。
だが、口元だけがギリリと横に結ばれているのが見えた。
「——なら、抗え。……楽にしてやる」
重く低い声。宣告というより、試すような響きだった。
ゆっくりと毒島が立ち上がる。鎧の紺碧が夕陽に染まり、その後ろに、紫紺の光を帯びた大盾と大剣が立てかけられているのが見えた。
しかし、毒島はそれらに手を伸ばさない。かわりにテーブルから距離を置き、ミカサに背を向けた。
巨躯の筋肉が、まるで山のようにうねり、息遣いだけが静かに響く。
毒島は首のない天使像を見上げ、祈るように目を伏せた。
ミカサは、音を立てないようにそっと立ち上がった。
震える足を叱咤し、胸の奥で恐怖を押し殺す。
頬を伝って、ぽたりと涙が床に落ちた。
歯を食いしばり、両手に魔力を静かに込める。
その手はまだ小刻みに震えていたが、目だけはもう恐怖を越え、鋭く光っていた。
夕焼けの陽光が、一瞬だけ天使像の折れた翼を撫でる。
その刹那——
ミカサの手のひらに、水が音もなく集まり、瞬きの速さで水球が形成される。
その中心に糸鋸のような細い線刃が浮かび、鋭く回転した。
空気が切り裂かれる音が、——ぴしり、と静寂を破った。
鋭い線刃が、躊躇のない軌跡で毒島の背へ向かって走った!
毒島は振り返らず、身体をすり抜けるように避ける。
だが、乱れた軌道を描く糸鋸は終わらない。
床の瓦礫を砕き、廃墟の壁に亀裂を生じさせながら次々と毒島の方へ飛ぶ。
鎧がわずかに光を反射し、衝撃音が薄暗い室内に響く。
「無詠唱とは珍しいな」
ゆっくりと向き直り、冷静に観察する毒島の声に、ミカサは間髪入れず応戦する。
毒島の足元に泥水を張り、周囲にぬかるみを生成して地形的有利を得ようとする。だが毒島が片足を踏みしめると、泥がバシャリと跳ね上がり、霧散した。
「——っ今!!」
ミカサは叫び、勢いよく天井から泥水のカーテンを垂らした。その壁の外側から、水刃の糸鋸を予測不能な軌道で突撃させる。
しかし毒島は、腕を軽く振るだけで泥水を吹き飛ばし、糸鋸は鎧に触れることなく消滅する。
「うううあああああ!!」
焦りを押し殺しつつも、ミカサは前方と後方に高圧の水の錨と鎖を立て続けに生み出した。ぐいっと後方に引き寄せると同時、鞭をしならせる要領で、勢いよく前に突き出す——豪速で跳ねた水の錨が、空気を裂くような音を立てて撃ち出された。
「多才だな……だが——」
——火力が足りない……!!
「ふぐぅぅううう!!」
嗚咽まじりの呻きを漏らしながら、ミカサは何度も首を振る。止まれば終わりだ。止まれば、終わりなのだ。
決死の覚悟に閃きが交差する。それは見えない軌道、わずかな反応、悟られぬ変化——毒島めがけて、空中に水蒸気の通り道を作り出した。室内の空気が一瞬で湿り、冷たく蒸気が漂う。
毒島はその違和感に、眉をわずかに動かした。
見えざる水蒸気は空中で螺旋状に巻き上がり、ミカサのみ見える魔力の輝きは白く光る通路を描く。
肌にかかる冷たさに戦意を持ち直し、思考が加速する。
一瞬にして、その内部の水が急速に凍りつき、氷の弾丸が形成。
無数に、細く、鋭く、研ぎ澄まし、弾丸の速さで射出された!
「……もう、悔いはないか?」
しかし、全く刃が立たなかった。
マシンガンのように放たれた氷弾は、毒島の鎧を激しく撃ちつけただけ。その勢いに衝撃音と氷の破片が舞い上がり、白い水蒸気が渦を巻いたが、鎧はびくともせず、皮膚を傷つけるに至らなかった。
氷弾の残滓が床に鋭い欠片を残す。
ミカサは息を切らし、肩を落としてうなだれた。
絶望の色が、顔を覆った。
「よく抗った……」
毒島の声には、冷たさが含まれつつも、どこか計算された落ち着きがある。
「駆け出し冒険者にしては、良い動きだった。
充分、絶望しただろ……。
褒美に、最期の晩餐をくれてやる」
その言葉とともに、室内に沈黙が降りた。
毒島の表情は読めず、静かな死の気配が辺りを包む。
まるで、時がゆっくりと流れる中で死神が近づくようだった。
ミカサは、毒島の部下に半ば強制される形で、テーブルに座らされた。
ほどなくして、眼前には豪華な料理が並べられる――色鮮やかな肉料理、香り立つスープ、甘く煮詰められた果物。
強制される食事。……箸を運ぶごとに、死が一歩ずつ近づいてくるような恐怖が胸を押しつぶす。
一方、毒島の目は複雑な色に濁り、殺意と葛藤が交錯していた。
その視線は、テーブル越しのミカサよりも、三冊の白紙の魔導書に向けられている。重い沈黙が流れる。ゆっくりと視線を離し、顔だけをそらして、首のない天使像の台座に目を向けた。
焼け焦げた本が、淡い光を帯びて微かに震えている。
その色は黒藍――深い夜の海のようで、まるで絶望そのものを映すかのようだった。
ミカサの手元にある白紙の魔導書と、まるで呼応するように、微かな共鳴が漂っている。
毒島の胸に、鉛のような重く鈍い感覚が落ちる。
破滅の五冊目――賛美の悪魔が生贄に送る、最後の魔導書だ。
勝色の次は鉄紺。そして、最後に黒藍。
首のない天使像の台座に、無造作に置かれた其れは、燃えかすのように焦げ付いた黒藍の魔導書であった。
「……賛美の悪魔は、悲劇を好む」
呟くように口からこぼれた言葉は、空気の澱みに溶け込む。
絶望を与え、後悔を呼び起こす。だが、賛美の悪魔の姿はまだ見えない。
それでも、蘇る悲劇の幻影が、毒島の中の殺意を揺らした。
目の前には、震える唇を結び、恐怖に瞳を潤ませる少女がいる。少女の絶望では、まだ足りないというのか。
毒島は拳を握り締める。鎧の節がきしむ音が、廃墟に微かに響いた。
焼け焦げた本の香り――焦げた紙の匂いが、鼻腔をつき、胸の奥に沈痛を落とす。
——もうすぐ、日が落ちる……。あまり長引かせても、状況は変わらないだろう。
殺すか、滅ぼすか。
絶望の中で生き延びる意志――それを潰すことの残酷さを、彼はほんの一瞬、ためらった。
毒島はゆっくりと息を吐き、深く胸の内を押し殺す。
夕暮れの光が窓の割れ目から差し込み、二人の半身を照らし、半身を闇に飲み込んだ。時が、残酷に傾き始めていた。
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