23 都市国家を揺るがす大掛かりな謀略
赤髪を後ろで結んだ男が、夜の街を音もなく歩いていた。
石畳に革靴が触れるたび、乾いた音が小さく反響する。灯火の揺れる市場区を抜けると、貴族街に近い一角に、煌々と明かりを放つ高級レストランが見えてきた。
扉を開けると、香ばしい肉とワインの芳香が鼻を刺す。内装は白大理石に金装飾、壁には楽団の演奏が流れ、ざわめきの余韻だけが漂っていた。
――だが、すれ違った客の顔は険しい。苛立ちを隠そうともせず、肩で男を突き飛ばすように出て行った。
案内スタッフの丁寧な仕草に導かれ、奥の扉をくぐる。途端、外の華やぎが遠のき、静けさが支配する。
そこにいたのは――闇ギルドのマスター、毒島。
巨躯を椅子に沈め、分厚い指でワイングラスを持ち上げる。赤い液体が揺れ、燭台の光を映して妖しく煌めいた。
レザーカットされた短髪、剥き出しのうなじからは、鍛え上げられた肉体の緊張が滲み出ている。背中だけで、猛獣を思わせる威圧が張り詰めていた。
その背中が、ゆっくりと振り返る。
鋭い眼光が射抜くように向けられ、低い声が落ちた。
「――来たか」
空気が重く沈む。グラスの中で赤い液体がわずかに揺れ、まるで血のように光った。
赤髪の男は促されるまま、毒島の対面に腰を下ろした。革張りの椅子がわずかに軋み、沈む音が響く。
その気配を察したのか、毒島は厳しい顔つきのまま言葉を落とした。
「今のは、話題のゼムント家の使用人だ。密猟の流れに滞りがあると文句を言いに来やがった。……俺が裏切ったことにまだ気づいていない。おめでたいことだな」
燭台の炎が、毒島の横顔に影を落とす。落ち着き払った声音に、冷笑の色はない。ただ理性の底に潜む狂気が、重たい空気を押し広げていた。
「……不遜な態度でした。処理しておきますか?」
赤髪の男が低く問う。
毒島は短く鼻で笑うと、再びワインを口に含んだ。重い液体が喉を流れ落ちる。少し考え込んでから、首を横に振った。
「黒の奴(黒兵衛)に任せておく。サイモンの部下を選別して闇市を吸収したのは想定通りだが……俺たちの分け前まで器用に調整しやがった。抜け目ない野郎だ」
ナイフの刃先で突いた肉を噛み切り、毒島は淡々と咀嚼する。音は静かだが、顎の力強さに野獣の気配が宿る。
――他人に裏切られる前に裏切る。それが毒島の鉄則だ。にもかかわらず黒兵衛を動かすのは、珍しい判断といえた。
巨躯を縮めて読書にふける昼行灯な姿に似合わず、闇ギルドの政治屋であり、参謀を担う、それが黒兵衛の正体だ。
赤髪の男は、目を細めて言葉を継ぐ。
「闇市の反発する者たちをうまく扇動して、西の密猟ルートにおびき出し……魔導国の猟兵に一網打尽にさせた、と聞きました」
その声音には、わずかな感心がにじむ。
毒島はグラスを指で軽く弾いた。赤い液体が揺れ、血潮のように光を散らす。
「……そのクソ猟兵からもクレームが来たのは、想定外だったがな」
わずかにむっとした表情で、彼は再び肉を口に運んだ。噛み砕かれる音が、静まり返った個室に重く響く。
赤髪の男の脳裏に、先日の会合に乱入した灰色の旅人の姿が浮かんだ。
分厚い威圧を叩きつけても、眉一つ動かさなかった強者。腰に吊るした符具から立ちのぼる、得体のしれない気配を思い出す。
「……無用の火種を始末させる。こちらの意図が、見抜かれていたのでしょうか?」
吐息まじりの声に、毒島はちらりと戸口を見やった。燭台の炎が、無表情の横顔に影を落とす。
視線の先に浮かんでいたのは、ゼムント家の使用人ではない。彼らよりも先に訪れた魔導国の使者――グラヴェルの姿だった。
扉を蹴り開けるように入ってくるなり、怒鳴り声が響いた。
「何か企んでいるかと思えば……てめぇの尻拭いをさせやがって!」
「黒装束の連中は、あれで全部なんだろうな?」
ワインの渋みを舌に残したまま、毒島はその場面をなぞる。
グラヴェルの目には、怒気と同時に奇妙な揺らぎがあった。深入りを避けながらも、何かを案じる匂いを隠しきれていない――あの矛盾めいた気配。
「幻想図書館の連中とぶつけやがって……あれは規格外だったぞ」
「銀髪の外勤員、あれはヤバい。ヤバいが、……だが女の方はどうにかしねぇと。すでにニ冊貼り付いてやがった」
憮然とした面持ちで文句を並べ立てる姿は昔と変わらぬ。変わったのは、自分が苛立ちに動じなくなったことか。
かつては状況の変化に一喜一憂し、よく騒いだものだ……時折、耳に蘇る笑い声は今や耳障りな雑音でしかなく、あの頃、自分がどんな顔をしていたのかも思い出せない。
――毒島は舌に残る酒の渋みを噛み砕くように、胸の奥の悔恨を押し殺した。
思考の深みから顔を上げ、彼はゆっくりと赤髪の男へと向き直る。
「……そうだな。サイモンの残党を始末するついでに、あのクソ猟兵は幻想図書館の連中と遭遇し、退いたようだ」
赤髪の男は、グラスの水面を揺らすほどに眉をわずかに上げた。
灰色の男から感じた脅威は尋常でなかった。そんな相手を退かせた「幻想図書館」の外勤員――ただの魔導書回収屋ではないという事か。
胸の奥で、膨らむ疑念を頭の片隅に避け、赤髪の男は一呼吸おいて、毒島の視線を受け止めた。
「……それでは、報告いたします」
先日の闇ギルドでの乱入騒動、ゼムント家への裏切り。
その一幕における大掛かりな謀略の成果の報告がはじまる。
「ご指示どおり、裏切り者の残党は“ゼムント家の私兵”に見せかけて、西の緩衝地帯へと誘導し、最後の処理が完了しました」
低く落ち着いた声が、グラスの縁に反射した灯りを震わせる。
「ふん。あいつの部下はどいつも裏切りそうな目をしてたからな……あの小物どもも、最期は見せしめの駒として役に立ったな」
毒島は無感動に吐き捨て、杯を傾けた。強い酒が喉を焼く匂いと共に、かすかな果実香が空気に溶ける。
赤髪の男は続ける。
「これで、黒装束の密猟者と、我々の接点はなくなり、魔導国は報復の矛先をノアの評議会——ゼムント家に向けるでしょう。
……さらに。ゼムント家が裏で手がけていた密猟品の競売事業、あれを“土産”として、アイゼンヒュート家に接触することに成功しました」
そこで一度、彼は毒島の反応を探るように言葉を切った。
説明すればこうだ。もとは闇ギルドが都市国家ノアの評議会 ゼムント家と密猟事業で繋がっていたが、魔導国からの刺客——グラヴェルに察知され、粛清を受けた。
このままでは国家間同士の摩擦に発展しかねない為、ゼムント側から裏切られるのは時間の問題。だからこそ、先んじてゼムント家を裏切り、密輸事業を手放した。
さらには密猟事業の関係者——故サイモンの部下から造反しそうな者たちをゼムント家の私兵と見立てて押し付けた。
造反者達は密猟事業を継承し独占しようと、西の緩衝地帯の狩場で動いたところで、魔導国のグラヴェルに見つかり、一網打尽に葬むられた。
そして、この混乱を利用して新たな足場を築く——作戦の第一段階。次なる標的は、ノア政権の対立派閥――アイゼンヒュート家。
「……なるほどな。それで、アイゼンヒュート家には鞍替えできそうか?」
毒島は指先で机をとん、と軽く叩く。乾いた音が高級木材の表面に響き、重苦しい沈黙を区切った。
「アイゼンヒュート家の令嬢が、ゼムント家との婚約者関係にもかかわらず、下女同然に扱われているという情報を掴みました。その屈辱を利用し、奸計を仕掛けました。両家の関係を瓦解させれば……我らが入り込む隙は充分にございます」
毒島の目が細くなる。赤髪の男が差し出した書類を受け取ると、無言で魔法陣が起動した。
淡い光が立ちのぼり、書類に封じ込められた投射魔法が発動する。虚空に映し出されたのは、ゼムント家の屋敷の裏庭。そこに立つのは、下女のような粗末な服を着せられ、冷たい視線を浴びるアイゼンヒュート家の令嬢だった。
映像の中の少女がうつむくたび、耳飾りが微かに揺れ、夜の静けさの中に金属音が虚ろに響く。
毒島は長い呼吸ののち、低く頷いた。
「……使えるな。そのまま進めろ」
闇へと包むような、吐息のような声。抗えぬ重さが宿り、赤髪の男の背筋を縫いつけた。
都市国家ノアを揺さぶる謀略は、今まさに歯車を噛み合わせ、音もなく回り始めている。
氷片が小さく砕け、鈍い音を立てた。
毒島は揺れる琥珀を一息で呑み干し――次の話題へと移った。
「――で。空から落ちた魔導書の件だが」
赤髪の男が相槌し、新たな報告書を差し出した。
「布木こぼれ、霧吹カケル、泡立のぼる……釣り餌用に利用していた学生冒険者達ですが、
例の魔導書を手にした女子高生と再び接触しました」
忍ばせた部下からの報告によると、
酒場で少し騒ぎを起こしたらしいが、和解した様子だ。
空から堕ち魔導書が、讃美の悪魔という存在と関連づけられた今、彼らは無用の存在と成り下がった。
——処遇については指示をいただいていないが、もう少し利用したいところだ。
赤髪の男は、胸中で新たな謀略を思案しつつ、魔導書の様子についても報告する。
酒場の騒動で確認できたのは二冊の魔導書。女子高生にピタリと貼り付くように追従していたとの事だ。
「魔導国の猟兵が言っていた通り、魔導書は貼り付くように追従していました。しかも——二冊」
「……で、何色が貼り付いていた?」
水色と群青と聞き、毒島のこめかみが僅かに痙攣した。
——色が濃くなってやがる。……昔と同じだ。
記憶を掘り起こして思い出す。かつて討伐されたはずの「賛美の悪魔」 。先日の会合に乱入してきたグラヴェルの言葉が耳の奥で反響し、胸の底に鉛のように沈む。
もしそれが事実ならば——。
讃美の悪魔が標的にしたのは異世界転移の女子高生。
一冊目は水色、2つ目は群青。記憶のとおりなら三冊目は勝色だ。
五冊溜まれば、魔導書に書き込まれ……喰われる。
その瞬間、讃美の悪魔は、取り込んだ生贄の力で災禍を巻き起こすだろう。大都市ノアが蹂躙されるのは火を見るよりも明らかだ。過去、幾つもの都市が、人もろとも跡形もなく瓦礫の山と化した。
毒島の肺に重苦しい空気がまとわりつく。鼻を刺す記憶の中の錆びた血の匂いが、嫌に鮮烈に感じられた。
耳の奥で蘇るのは、何処かで聞いた叫び声——老いも若きも、女も子供も、皆まとめて喰われていった。
次々と降り注ぐ白紙の魔導書が血と涙で満たされ、最期の悲劇を記すたび、悪魔は恍惚としてそれを貪り、飲み干した。
「対処は二つしかねぇ……」
毒島は唇を舐め、苦い酒精の残滓を嚙みしめた。
「贄に選ばれた女子高生を殺すか……あるいは、それを餌に讃美の悪魔を釣り出し、討ち滅ぼすか」
赤髪の男は平然とした表情のまま、毒島が気にするであろう情報を付け足す。
「……ですが、ミカサは未成年の異世界転移者だと」
「子供を……排除するのか、俺が」
毒島の胸に、焼け爛れた記憶がよみがえる。悲劇を好む讃美の悪魔。血に染まった瓦礫の匂い、泣き叫ぶ声、地獄に飲み込まれた街の残像。
目線は自然と、部屋の隅の書庫へと吸い寄せられた。
蔵書に埋もれるように隠されている、一冊の焼け焦げた本。
黒い表紙は煤けているはずなのに、今は仄かに色を帯びて見えた。
その本は一つの傷跡であり、勝利の残滓だった。
繰り返しはしない。毒島は、静かに決断を下した。
密猟の抜け道は潰され、評議会の繋ぎ手——ゼムント家を切り捨てた今、計画は新たな局面を迎えている。
盤面を描くようにグラスを転がすと、氷が鈍く鳴った。
残すべき駒は明白だ。有能な部下、そしてアイゼンヒュート家に通じる細い糸。どちらも未来を開くためには欠かせぬ。
だが、それを守るには、讃美の悪魔を退けねばならない。
密猟を嗅ぎつけた図書館員への落とし前。
小間使いを返り討ちにした女子高生への報復。
どれも計画の盤面に並べ直され、毒島は声を低くして指示を放った。
狙うは——目障りな幻想図書館 外勤員、ジョシュア。
窓の外では、夜の闇を押しのけるように薄紅の光が差し始めていた。
毒島の胸中に、濁った不快感と静かな昂揚が混和し、鎌首をもたげ始める。
――長い一日が、いま始まろうとしていた。
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