18 少女の覚醒——そんなこと分かってる。本命は、今ッ!
大都市ノアの市街区、その一角を占める学術院通り。
石畳の路地には人影もまばらで、昼下がりの光を浴びた研究棟や治療院が、どれも白壁を静かに輝かせている。風に混じって乾いた羊皮紙と薬草の香りが漂い、遠くでは学者の議論する声が微かに響いていた。
その通りを、二人の影が並んで進む。
二冊の魔導書を従える少女ミカサと、隣を歩くジョシュアだ。
ことの発端は、ミカサの「二冊の魔導書」にあった。
片時も離れようとせず、まるで生き物のように彼女へ寄り添う白紙の魔導書――それが何を示すのかを確かめるため、二人は幻想図書館に収められた『真言の魔導書』の予言に頼ったのである。
書が告げたのは「執着」という言葉。
その正体を探るべく、彼らは市街区の奥、学術院通りでもひときわ目立つ治療院へと足を運んでいた。
石畳を踏みしめ、白壁に囲まれた大きな建物の前に立つ。
窓からは新しく干した薬草の匂いがふわりと流れ出し、どこか清潔で冷たい空気が漂っていた。
重い木製の扉を押し開けると、廊下はしんと静まり返り、消毒薬の匂いが鼻を刺す。壁際には患者用の長椅子が並び、空になった水差しが光を受けて鈍く光っていた。
二人が受付に顔を出すと、帳簿をつけていた年配の治療師が、眼鏡の奥からゆっくりと視線を上げた。
「運び込まれた学生の三人なら、もう退院したよ。傷は浅かったし、昨日には荷物をまとめて帰っていった」
「……そう、ですか」ミカサが小さく息を吐く。
ジョシュアは隣で腕を組み、ちらりとミカサを見やった。
「追いかけるか?」
「……いえ、布木さん達が何処に住んでるかわからないので……先に、西の緩衝地帯——もう一つの“執着”がある方に行こうかと。……ついてきてくれますか?」
彼女は腰に貼り付くように追従する魔導書を見下ろし、不安げに見上げる。
もちろんさ、とジョシュアは肩をすくめてみせた。
「面倒は山ほどあるが、放っておく方がもっと厄介だ」
二人は治療院をあとにし、再び石畳の通りを歩き出す。行き交う商人たちの声が背に遠ざかり、やがて町を抜けると、風に揺れる森林の匂いが濃くなった。
日が昇り、空の青が澄み渡るころ、二人は緩衝地帯へと続く森に足を踏み入れた。木々の影が濃く、外よりもひんやりとした空気が肌を撫でる。
道を進む彼らの足元に、妙な鈍い光がちらりと覗いた。ジョシュアが足を止め、目を凝らす。そこには――歯のように尖った、大きな鉄の輪が潜んでいた。
「……罠、か……何かでしょうか?」
ミカサが眉をひそめ、慎重にしゃがみ込む。
枯れ草に隠された鉄具を観察し、ジョシュアはそれが、魔獣を狙った密猟者の仕掛けではないかと推察した。
「たしか……緩衝地帯では、魔獣の密猟がされていて、魔導国が監視を強めてるんですよね?」
ミカサが不安げな顔でつぶやく。
この森林は緩衝地帯ではないものの、魔獣用の捕獲罠があるとすれば油断できない。森林は塀で囲っているわけではないのだ。魔獣が水場を求めて入り込むし、もし捕獲された魔獣を見つけてしまうと密猟者との問題に巻き込まれる。
二人は慎重に罠を解除し、森の脇へと放り捨てた――。
そこへ、安堵する間もなく怒声が森の奥から叩きつけられる。
「っおい、そこで何してやがる——!」
ミカサが思わず息を呑む。
罠を解除する手元を見られた――どうするかジョシュアと視線を交わす間もなく、黒い装束に身を包んだ影が十数、木々の間からにじり出てきた。
「くそっ、サイモンが裏切ったせいで、俺たちが何でこんな……冒険者ギルドはビビって協力しやがらねぇし」
「あまりしゃべるな、どこに監視の目があるかわからん。俺達は一刻も早く成果を出さねば……」
「そうだ。卸事業は俺たちのものだ……新参者の女狐や読書野郎に取られてたまるか。だから、怪しいやつらは」
「ああ、魔導国の仕業にしてやれ……」
面布の下から放たれる鋭い視線が、獲物を射抜く猛禽のように二人を縫い止める。殺気を伴う空気が張り詰め刹那、黒装束たちは合図もなく地を蹴り、闇が一斉に襲いかかってきた。
「来ま——っ?!」
だが、牙を剥くより早く、黒衣の襲撃者はたちまち崩れ去った。
迫る刹那の気配ごと、突如として吹き荒れた影のごとき衝撃が襲撃者たちを薙ぎ払った。
呻き声を上げる間もなく、彼らの身体は草地や木の幹へ叩きつけられ、乾いた衝撃音と鈍い肉の音が連続する。
土と草の匂いが強く立ちのぼり、舞い上がる砂塵が木漏れ日を曇らせた。血の色は見えず、訪れたのは風に流れる鉄錆の残り香と、不気味な静寂。
ジョシュアは反射的に外套の内へ手を伸ばし、強襲した影の痕跡を探る。ミカサはジョシュアに背を向けると同時に背負ったラウンドシールドを左手に装着し、ショートソードを低く構えた。訓練の成果がよく出ている。
黒衣の襲撃者を圧倒した力――その気配を探りながら、二人の鼓動が強く響いていた。
「……なんだ、隠れたネズミが、もう二匹ってか?」
振り返ると、背後には長柄の外套をまとった異国の男がいた。腰に下げた符具が乾いた音を立てる。
風になびく灰色の長髪の隙間から、ギラついた双眸が覗いた。
戦闘に高揚してか、口の端を獰猛につり上げる様は鬼の形相。
緊張感が漂う中、鋭い視線がジョシュアからミカサへとゆっくりと移動する。
ミカサの腰に貼り付く2冊の魔導書で視線が止まった。
——まずいっ!
ジョシュアは反射的にミカサの腰のベルトを掴み引き寄せながら、強く地を蹴って後退した。
そこに、地面が爆ぜる様な蹴撃が撃ち込まれる。
後退を続けながらも、あまりの早さに目を見開くジョシュア。
その眼前に、あらゆる角度から稲妻のような蹴りが殺到した。
空気を裂く風切り音が耳を打ち、爆ぜる衝撃が木々を震わせる。
ミカサの悲鳴はその轟きに呑まれ、かき消された。
ジョシュアは歯を食いしばり、懐から小型の牢の模型を取り出す。指先で弾いた瞬間、閃光が迸り、足元に巨大な牢屋が顕現した。
鎖がジャラジャラと鳴り響き、無数の蛇のように襲撃者を絡め取る。
しかし光の檻に囚われたはずの男は、口元を吊り上げ、まるで愉悦するかのように笑った。
次の瞬間、鎖は溶け崩れるように形を失い、豪脚が牢の壁を粉砕して四散させた。
「待て、話を聞いてくれ! 俺たちは密猟者じゃない!」
ジョシュアの叫びは森の木々に反響したが、返答はなかった。
灰色の外套を翻し、襲撃者はわずかに膝を沈める。土を裂く靴裏の軋みとともに、獣めいた気迫が空気を圧迫し、二人の肺を強張らせた。
次の瞬間、視線が交錯するより早く影が迫る。
殺意の気配に晒されたジョシュアの心拍は一気に跳ね上がり、冷や汗が背筋を伝う。
防御障壁を展開するも、衝撃は骨の芯まで響き、腕が弾かれた。
襲撃者はジョシュアに何もさせまいと、その一挙一動に完全に狙いを定めたようだ。肉弾戦が不得手なことを見透かされ、後退を余儀なくされた。
「ジョシュアさん!」
ミカサの声が張り裂ける。彼女はショートソードを構えながら必死に魔法を発現させた。
地面を濡らした水が冷たく光り、瞬く間に足場を滑らせる罠と化す。続けざまに鋭く研ぎ澄ませた水刃を放った。
しかし、襲撃者はまるで遊ぶかのように拳で打ち砕き、飛沫を霧散させた。頬を打つ水しぶきは冷たいのに、皮膚を刺すのは熱のような圧迫感――。
「まるで効いてない……!」
ミカサの喉が震え、声が掠れる。
跳ね返った雫のひとつひとつが陽光を弾き、散り散りに煌めく中、圧倒的な存在感をもつ灰色の男だけが揺るがずそこに立っていた。陽炎のように立ち上がる魔力と殺気に当てられ、無意識に膝が折れる。
「珍しい水使いがいるな……詠唱ばかりに頼る異世界人じゃないのか?」
貫くような殺気が直接ぶつけられる。隔てるものが何も無い、むき出しの死の気配にさらされ、全身に包丁を押し込まれたような恐怖の感覚。ぶわりと玉のような汗が噴き出した。その恐怖心が、ミカサの胸奥に未経験の極限を呼び起こす。
「っ!……ぅぁぁあああああッ!!」
――声が裏返り、狂乱めいた叫びが喉を裂く。全身の血が沸き立つように、体内で魔力が異様な速度で練り上げられていく。空気が熱を帯びて波打ち、肌を焼くほどの圧が辺りに走った。
ミカサの足元に突如、水たまりが顕現する。それは、ぬかるんだ土砂を巻き込みながら荒れ狂う鞭となり、唸りをあげて襲撃者を打ち据えた。
砂利や小石が混ざった奔流に顔をしかめ、襲撃者は煩わしげに身をひるがえす。
「——あああああああ!!」
ミカサはその隙を狙い、糸のように細い水刃を生み出し、空気を裂くように走らせる。鋭く震える刃は、しかし敵の体に触れる寸前、白い蒸気となって掻き消えた。
「土砂で壁を作って、糸鋸で切り裂くつもりか……?」
襲撃者の嘲笑が低く響く。
「残念だな――圧力が足りねぇよ!」
――そんなこと分かってる。本命は、今ッ!
ミカサは攻撃の手を緩めず、襲撃者の背後に奔流の柱を発現させる。轟音と共に水流が押し寄せ、襲撃者を背後から呑み込まんと迫った。だが、敵は振り向きすらせず、影のように滑ってかわす。
「窒息せよ、——アクア・サフォケイト!」
そこへ――素早く生じた水球が襲撃者の頭を丸ごと飲み込んだ!
魔法の構築と、詠唱魔法を組み合わせた連続攻撃が決まる。
冷たい圧迫が襲撃者の頭部を覆い瞬時に空気を追い出した。ガボボッと内部で泡がはじけていく。だが、襲撃者が片手を当てると、水球は一瞬にして蒸気へと変わり、湯気になって霧散した。
「その程度じゃぁ――」
襲撃者が何かを言いかけたその瞬間。
頭上に、鋭利な音が落下した。
ッザン! 土草が舞い上がる程の衝撃と共に、高密度の水刃が襲撃者を斬り裂く。
反射的に身を翻した敵は間一髪で避けたが――頬に赤い線が走り、鮮血が一筋、溢れた陽光に散った。
「……お前、面白いな」
襲撃者の双眸が細まり、空気が一瞬にして凍りつく。
静寂の刹那、より濃密で危険な殺気が激流のように立ち昇り、周囲の空気が湾曲するかのように激しく揺らいだ。
圧し掛かる視線は、腰に提げた魔法書からミカサへと移り、彼女の身体は杭で打ち付けられたように動きを奪われる。
喉が焼け付くように乾き、背筋に氷柱を滑らせられるかのような恐怖。絶望的なまでに強大な力に、ミカサは思わず身をすくめた。だめだ……もう、心が持たない……。
——そこに、優しい影がさした。
揺れる白い外套。ふわりと風になびく銀髪に、敵の視線を遮るように広げられた腕。
襲撃者は、少女を庇おうと、隣に立つジョシュアに侮蔑の視線を向けた。
その男の事は、闇ギルドで情報収集していた。幻想図書館の無名の外勤員。街中でたまに目撃される蔵書の回収者。だが、魔導書を連れ歩かないジョシュアは、男にとって取るに足らない存在と見なされていた。
異世界人を連れ歩く、非力な外勤員に過ぎぬと、冷笑を浮かべる口元が呟く。
「図書館員風情が、魔導国とノアの問題に、首を突っ込むんじゃねぇよ」
その声は、氷刃のように鋭く突き刺さった。
——だが。
「待たせたな」
低く、しかし確かな声が森を震わせる。ジョシュアが一歩踏み込み、掌をかざした瞬間、地を這うような光が走った。草地に隠れるように転がった模型が次々に反応していく。
足元に広がるのは精緻な幾何学模様。彼の周囲を包み込むように巨大な魔法陣が展開し、まばゆい光を放つ。
大地がうねり、木々が悲鳴を上げるように軋み、空気は轟音と共に渦を巻いた。
襲撃者の瞳に驚愕がよぎる。
次の瞬間——視界が弾け飛んだ!
目に映る鬱蒼たる森林は、草の香り高い風にさらわれ、別の景色に塗り替えられていた。
地平まで広がる緑の高原。風が頬を叩き、鳥の鳴き声が遠く響く。
そして、そこに。
天を突き破るように、空の彼方へと伸びる巨大な塔がそびえ立っていた。
第一章のあらすじや場面イメージをPixivに掲載!
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