16 もう一つの大都市、黒肌の美女の正体
大都市ノアの市場区は、迷路のように入り組んでいる。
朝から人波で溢れる大通を抜け、薄赤い石畳を目印に幾つかの筋を曲がるだけで、途端に雰囲気は変わる。
石畳の隙間には苔が芽吹き、石造りの家屋が軒を連ね、煤に黒ずんだ壁は時の流れを物語っていた。
通りの頭上には、今では珍しくなった錬鉄製の看板がぎしぎしと揺れ、異国の酒場や靴屋の古めかしい紋章を掲げている。昼なお薄暗い路地裏は、喧騒から切り離された異空間であった。
その一角、情緒ある酒場の裏口を出たところで、ひとりの女が立ち止まった。
頭から漆黒の外套を纏い、影そのもののような雰囲気だ。彼女は壁にそっと手をあてる。
瞬間、石造りの壁面は水面のように波紋を広げ、女の身体を呑み込むように揺らめいた。姿はすうっと吸い込まれ、次の瞬間にはそこに誰もいなかった。
――女が降り立ったのは、市場区の地下に広がるもうひとつの都市。
頭上を覆う大空洞は、幾度もの掘削と開拓の果てに姿を現した巨大な大穴である。壁面や天井には天然の晶石が散りばめられ、青白い光を放ちながら地下世界を照らしていた。
光が反射する水路は川のように街を縦横に走り、吊り橋や階段が層を繋ぐ。上から見下ろせば、まるで星空を逆さに映したような幻想的な光景だった。
都市の中央には、誰も寄りつけぬ一本の塔が聳えている。
天井の岩盤を突き抜け、地底から空を貫くその塔は、まるで天象と大地を串刺しにする巨大な杭だった。
何者が、何の目的で築いたのか。調査を試みた者の噂は聞くが、生還した者の噂は聞いたことがない。塔の先が地上のどこへ繋がっているのか、あるいは空を越えてなお延びているのか、想像の世界だ。
女は塔を見上げるのをやめ、優雅な手つきで顔を覆う仮面を外すと、それを懐へと滑らせる。その瞬間、纏っていた外套が仮面に吸い込まれるように消え失せ、姿は一変した。
磨き抜かれた黒曜石のような肌が露わになり、丁寧に編み込まれた金糸の髪が背へと流れ落ちる。額からこぼれた一房がさらりと揺れ、美貌が覗き、僅かな湿気を帯びた空気に溶け込んだ。
女は視線を正面に向けたまま、軽く後方へと意識を伸ばす。一定の距離を保ち、執拗に尾を引く気配。無言のまま内心で舌打ちをし、苛立ちを抑え込む。
あの時からだ──嫌な影を感じたのは。森で密猟した魔獣を受け取り、地下に続く風穴を越えて交易都市ノアに戻った折、収穫物を闇市へと引き渡した。
長年の顔なじみに魔獣の牙や角を渡し、仲介手数料を受け取る。いつもと変わらぬ取引、下品な視線に緩んだ空気。死角から漏れ出る僅かな殺気。そのどれでもない、勘の鋭さが告げる──見えざる視線が、自分に向けられている。
ーー評議員に雇われた冒険者がしくじったか?
密猟していた冒険者達は、ノアの評議会の一派に雇われた者達だった。密猟は建前、本当の目的は緩衝地帯の開拓と情報収集であったはず。魔獣を受け取る際に、密かに書簡も受け取った。
が、彼らは遊びが過ぎた。必要以上に魔獣を狩猟するきらいがある。
ーーあの旅人が、魔導国から差し向けられた猟兵ならば、殺したか、殺されたかは関係ない。この短時間で、私の位置まで特定されたということだ。
だからこそ、闇市では、あえてよそよそしく振る舞った。「面倒な仕事は、これっきりだ」と。手切れを装い、仲間意識を断ち切る仕草を見せた。さらに市場区へと歩を進め、迷路のように入り組んだ路地を幾度も抜けた。古い石造りの家屋や錆びた看板の下を選んで通り、わざと回り道を繰り返す。人混みに紛れ、死角を探し、煙と喧騒に足跡を溶かす。だが、いくら細工を弄しても、背後の気配は消えなかった。
黒肌の美女は深く息を吐き、足を再び踏み出した。彼女の黒曜の肌に一房の金髪が揺れるたび、追う者との距離は縮まるでもなく、確実に続いていた。
仄暗い大空洞の天蓋を仰ぎながら歩みを進める。
散りばめられた橙の灯火が、石の街並みにゆっくりと命を与え、陰影を濃くしていく。
やがて闇の底から浮かび上がるように、黒々とした石造りの屋敷が姿を現した。
女はその重苦しい存在感の前に立ち止まると、門扉を守る二人の門番と短く言葉を交わし、滑るように中へと姿を消した。
屋敷の内部は、磨き抜かれた無機質な回廊が続いていた。石壁に沿う灯火は少なく、清潔さの裏に、どこか鉄錆のような古い血の匂いが微かに漂う。その違和に、女の口元がわずかに歪む。重厚な黒鉄の扉に手をかけると、低い音を立てて開いた。
その先に広がるのは薄暗い広間。床も壁も天井も漆黒。だが茶褐色の家具や落ち着いた調度が配置され、散らされたランタンの光に柔らかく照らされている。
陰影の奥に潜む影が、まるで息づくように蠢いて見えた。ここは闇ギルドの幹部たちが集う談話室――静謐にして不穏な空気が、彼女を迎え入れた。
手前の席で金貨を数えていた、痩せこけた風貌の男が、女の気配に気づくと、くすりと笑みを浮かべながら横へと退いた。
黒肌の美女は軽く頷き、細身の男の脇をすり抜ける。その先には、大男が丸太のような腕を机に置き、小さな書籍に目を落として座っていた。文字が小さすぎるのか、視線は紙面に吸い寄せられ、女の存在には気づいていない。
女は短くため息を吐き、迂回しながら前進する。だが足元に、冷たい金属が向けられたことで立ち止まった。武器を構えたのは、ギョロリとした大きな目を特徴とする小男で、闇ギルドの幹部の一人――闇市の一角を仕切る大悪党、サイモンだった。
「くせぇな、レヴィ。お前、闇市でやらかしたそうだな」
その言葉に、女は冷徹な眼差しで見下ろし、艶やかな声色で応じた。
「武器をどけなさい、サイモン。私は何もしていない」
サイモンの瞳が鋭利に光る。部下から、レヴィが闇市で不審なやり取りをしていたとの報告を聞いていたのだ。彼の頭の中では、目の前の女が何か良からぬ問題を持ち込もうとしていると思った。異世界人の癖に、冷静を気取る眼差し、愚か者を見下すような態度が気に食わない。煩わしい女だ。
「何もしていない? 俺は、そうは、聞いてないが、なぁ」
サイモンは口を吊り上げて、手元の武器を握る力を徐々に込めていく。だがレヴィの瞳には、微塵も動揺はない。静かで落ち着いた空気が、部屋の不穏な影と混じり合い、まるで女が場の空気そのものを掌握しているかのようだった。
「おい……お前らは、俺の我慢を試すつもりか?」
薄明かりの奥から、低い声が降りた。
レヴィは深く一礼し、部屋の奥に鎮座する男へと声を落とした。
「マスター。到着が遅れましたこと、お詫び申し上げます」
闇ギルドを束ねる男――毒島直弥は、鋭い眼差しを細めた。
応じる声はなく、代わりに背後に直立する赤髪の男から、鋭利な殺気が放たれる。
閉じた瞳がゆっくり開かれ、結わえられた赤髪が僅かに揺れると、瞬間、それは濁流のような圧迫感となり一気に押し寄せた。
————!!
歯噛みする程に、頭上から足元まで押し潰す威圧だ。
加減など存在しない。
部屋全体が恐怖に震えたかと錯覚するほどだ。
「武器を、収めろ。サイモン」
赤髪の男は、同じ立場にあるサイモンの無遠慮を叱責した。
しかし、サイモンは口元にわずかな笑みを残したまま、ゆっくりと武器を懐に仕舞う。殺気の意図を理解していない。まるで我知らずといった態度を崩さない。
――だから貴様は小物なんだ。
レヴィは視線を逸らさず、冷ややかに心中で毒づいた。
「それで? 話の続きだ。空から堕ちた魔導書は、どうなった」
毒島の低い声が場を切り裂く。
部屋中を軋ませる殺気が霧散した。
「はい。こちらになります」
赤髪の男が進み出て、毒島へ数枚の書類を手渡し報告する。
使役する学生冒険者たちが、ミズキと名乗る女子高生から水色の魔導書を奪おうとし、返り討ちに遭ったこと。
そしてその場で、さらに別の魔導書が確認されたことを。
書類には、黒い霧を噴出する水色の魔導書と、群青色の魔導書が投写魔法によって写真のように精巧に描かれていた。
毒島は顎に指を添え、長考する素振りを見せた。学生の処遇には興味を示さず、ただ一つ、思考の底で何かに気づく。
「……マーキングか」
呟きとともに、鋭い眼光が灯る。書類には緻密に現場で起きた委細が記述されており、すでに名が挙がったジョシュアにも一瞥を与えるが、今は後回しだ。
「秘密裏にこの女学生の周囲を監視させろ、魔導書の痕跡を徹底的に洗い出せ」
命令が飛ぶ。赤髪の男はうなずき、さらにノアの評議員との接触を託された。
「例の計画を延期させろ。そして仕入れのルートを固める、バレたルートは切り捨てろ。評議員への根回しもだ。ゼムント側が言うことを聞くかわからんが、奴らに防御を強めろって注意しておけ」
命を受け、赤髪の男が踵を返そうとした、そのとき――。
全員の視線が扉に集まる。
ギィ、と扉が軋み、灰色の外套をまとった影が姿を現した。
足取りは静かだが、まるでその場の空気を塗り替えるような圧があった。
レヴィの瞳が無意識に細まる。
外套の長衣に縫い込まれた模様、腰に下げられた符具。それは彼女が森林で垣間見た“追跡者”の印だった。
――やはり、あの時の旅人か。
最近、異世界人狩りと世間を賑わせる魔導国猟兵の来訪に、
胸の奥で、大きく舌打ちした。
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