あの頃に戻れたら、会いたいだけで会いに行ける
文官アルドリック・オルテガと女官メルロスは誰もが羨む恋仲であった。もう三つの春を共に過ごしたのだから、その付き合いは長い。そもそもの始まりは堅物のアルドリックの方からメルロスに何度も何度も熱っぽく求愛したのだから、何とも分からないものである。
アルドリックはとてもメルロスを愛していたし、メルロスもアルドリックをとても愛していた。
筆を取っている時は悪鬼の如く機嫌の悪いアルドリックも、見兼ねたメルロスが息抜きでもされたらどうですかと声を掛けると、ああそうしようと大人しく従う程だ。他の者がそんな寝呆けたことを言えば、ようもそんな寝言が言えたものだ、と、ねちねち文句を言われそうなものだが。
とにかく二人の仲睦まじさといったら、知らぬ者はいない程であったのだ。夫婦の契りこそ交わしていない二人であったが、そんなものは必要であるのか判らなくなる程、二人は強い愛情と絆で結ばれていたのであった。
ある秋の夕間暮れ。
アルドリックは書物を繰ることに夢中になっており、メルロスがいないのも気付かないほどに熱中していた。ようやく一段落ついた頃、メルロスと茶でもと思ったのだが肝心のメルロスがいない。他の女官にメルロスを知らないかと聞いても、そういえば街へお出かけになってからまだお帰りにならないようですワと何とも胡乱な答えが返ってきた。アルドリックは腕を組み、苛々と脚を揺すったが待てども待てどもメルロスは帰って来ない。その日は結局一睡も出来なかった。
メルロスは帰らなかった。
最後に会ったメルロスは、全くいつもの通りだった。愛想を尽かせて出て行ったのか?それとも匂引かしにでも合ったか。北の蛮族どもが関所を越えてやって来たとも考え難い。考えれば考える程分からない。
何故メルロスは私の前から姿を消した?
みるみる憔悴したアルドリックをそれなりに気遣ってか、家の者はアルドリックへの負担を減らすよう取り計らったもののアルドリックは前にも増して大量の書物に目を通すようになった。そして知識を一通り詰め込むと糸が切れたようにバッタリ倒れ込み、少しの睡眠を摂ると、夜明けと共に再び起き出し、また大量の書物に身を埋めるようになった。そんな同じことを繰り返す毎日を過ごすようになり、無味乾燥の茫漠の日々をただただ一人で過ごしていた。
アルドリックは元々柔らかな雰囲気を持つ男ではない。しかし、今はその双眸は鋭さと陰鬱さばかりが増し、メルロスと接する時に見せていた一抹の安らかさは跡形もなく消え去っていた。
メルロスがいなくなり、季節も移ろうと、アルドリックはようやくメルロスのいない日常を受け入れ始めていた。実際は、勿論メルロスのいない日々など受け入れたくはないのだが、メルロスの笑顔は、メルロスの笑い声は、メルロスの香りはメルロスのぬくもりは、もう、ない。自分の手の届かぬところに行ってしまった。何時までも駄々っ子の様に求めつづけるのは、馬鹿馬鹿しい。反吐が出る。それに、あの覇王・バルタサールがアルドリックを召し抱えたいとのことなのだ。そろそろ断り続けるのも苦しくなってきた。
アルドリックはメルロスとの想い出の詰まった家を出て、バルタサールの配下に加わることとなったのだ。
***
「メルロスよ、どうした。浮かない顔をしておるな」
メルロスは、バルタサールの言葉にはっと顔を上げた。そして切なげな表情のまま、ふるふると首を横に振った。
「いえ……何でもございません」
「私はおまえの笑んだ顔が好きでな。そう浮かぬ顔をされては敵わぬわ。何か欲しいものはないか?望むものは何でも叶えてやるぞ」
「……勿体のうございます……」
メルロスはオルテガ家の者が近々取り立てられると知り、心が掻き乱される想いをしていた。
あの日、迂闊にも一人で街に出たあの日。悪漢どもに連れ去られ、あわや輪姦されるかというときに、恐怖で泣き叫ぶことも出来なかったメルロスを助けてくれたのが誰であろう覇王・バルタサールその人であったのだ。怯えて泣きながら震えていた憐れなメルロスはそのままバルタサールに保護され、その内にバルタサールに見初められたのだった。飛ぶ鳥を落とす勢いの覇王・バルタサールから直々に請われ、メルロスは断れずにいた。断れば、バルタサールの顔を泥を塗ることになる。バルタサールはあくまで優しく、努めて紳士的にメルロスに甘い言葉を囁いたのだが、それを断ればどうなるかくらい、メルロスは痛い程理解していた。そうしてメルロスは、身を切られる想いでバルタサールの妾になったのであった。
バルタサールの妾になってからも、アルドリックへの想いは忘れなかった。男への慕情はなかなか消えない。メルロスは己の仕出かしていることの重大さと冷酷さに、何度も何度も自分を責めた。そうして胸中では何度もアルドリックへの愛を叫んだ。
アルドリックが取り立てられてから、一週間が過ぎた。
バルタサール配下の将たちの顔も一通り覚え、漸く執務も滞りなく回転するようになってきた頃。アルドリックの目の前に、愛しい女が上等のドレスに身を包み、今にも泣き出しそうな沈痛な面持ちで立っていたのだから、アルドリックは再会の喜びで万斛の涙を流すどころか呆気に取られてだらしなく口を弛緩させてしまった。
「なっ……何故……ここに?」
漸く出たその言葉は、息災であったことへの喜びの言葉でなく、何故ここにいるのか――少しばかり責め立てるような、そんな口調での言葉であった。
アルドリックも馬鹿ではない。それなりの事情は察していた。大粒の涙を流しながら自分の身に起こった出来事を語るメルロス。アルドリックは、妙な感覚に襲われていた。
あんなに会いたくて会いたくて、愛しくて仕方のなかったメルロスが生きて目の前にいるというのにアルドリックはメルロスの言葉が何故か紗がかかったように、曖昧模糊として聞こえるのだ。さながらそれは芝居を観ているかのような、現実を帯びていない。
アルドリックはただ一言、言った。
「……息災で何よりだ」
もう、それきり、言葉は紡げなかった。
***
「アルドリックよ、もうここでの生活は慣れたようだな」
アルドリックは声の主をちらりと見遣ると、盛大な溜め息を吐いた。
「……クラウディオ様。また執務を放り出してこられたのですか?」
アルドリックの厭味な言葉にもクラウディオは動じず、いつもと同じような不敵な笑みを浮かべ、アルドリックの隣の椅子に腰掛けた。
「アルドリック。メルロスという女を知っているか?父が囲っている女の内の一人だが」
「存じ上げませんな。バルタサール様の情婦まで、この私が把握しているとでも?」
「ほう。ならばあの女はあろうことかこの私に虚言を申したという訳だな」
「……虚言、とは?」
「なに、父の留守中にあの女を抱いたのだが。泣きながらアルドリック、アルドリック、と喚くので、訳を聞いたら自分はアルドリックと恋仲だったと言ったぞ。あれは嘘であったのだな。この私に虚言を並べ立てるとは、然るべき罰を与えねばならぬな、アルドリック?」
「………」
「ふ、眉一つ動かさぬか」
アルドリックはそんなクラウディオを睥睨し、また書簡に目を落とした。
「興味ありませんな。それより、父君の囲う女に手を出したこと、父君に気付かれぬようこのアルドリックめも精々お祈りしておきましょう」
アルドリックは内心はどうあれ、酷く冷静にクラウディオにそう告げた。クラウディオはアルドリックの目をじっと見つめていたが、やがておかしくて堪らないと言った風ににやと口の端を吊り上げた。
「目が泳いでいるぞ、アルドリック」
「…………」
「メルロスを抱いたというのは嘘だ」
クラウディオはそう言うと、立ち上がる。その姿を目で追うアルドリックを見て、クラウディオは忖度しかねる表情のまま、ただアルドリックを見ていた。
「……嬉しくて仕方ないという顔だな。アルドリック、命令だ。メルロスの元へ行ってやれ」
ややあって、クラウディオはもはや自分に見向きもしなくなった臣下にそう告げた。クラウディオとしては、なかなか気の利いたことを言ったつもりだったのだが。
「お断りします」
アルドリックは間髪入れずに、否定の言葉を口にした。そんな言葉を聞いたクラウディオは、らしくなくきょとんとしてしまい、はぁ、と間の抜けた声を出した。
「クラウディオ様が何をおっしゃっているのか解りかねますが、もしこのアルドリックめとその者に面識があったとして―――私がその者に会う理由も、権利も在りませんな」
「ふん。痩せ我慢は止めても良いのだぞ?アルドリック?」
「とんでもありません、我が君」
クラウディオは埒が明かないと悟ったのか、はたまた諦めたのか――アルドリックの部屋を後にした。
一人残されたアルドリックは筆を置き、頭を抱える。
「……私は物の道理も弁えぬ童ではない」
アルドリックの呟きは、ただ虚しく虚空に消えた。
これでいい。これで、少なくともメルロスは幸福な侭だ。今のメルロスの立場を、むざむざ壊してやることはない。
「……メルロス」
目を閉じれば、今でもメルロスの笑い顔が浮かぶ。
「こんなにも近いところにいるのに、何故こんなにも遠いのであろうな」
本当に、愛していた。
***
メルロスはアルドリックに告げられた言葉を何度も何度も反芻させていた。アルドリックとて、辛いのだということが手に取るように分かったからこそ、メルロスも苦しんでいた。あの時のアルドリックの顔。
「ああ……」
メルロスは頭を抱えて呻いた。じわ、と目頭が熱くなるのを感じ、そっと目を伏せる。熱い泪が頬を伝う。泣いたって、どうにもならないのに。そう言い聞かせるように唇を噛み締めるが、もう今生で逢うことは叶わぬと覚悟していただけに、この突然の再会にメルロスは動揺していた。愛しい男が目の前にいる。手を伸ばせばそこにいる。あのぬくもりが、あの優しさ、かおり、声。全てがそこにあるというのに、触れることも叶わず、もうこれ以上話しかけることも叶わず。メルロスは君主バルタサールの妾であり、アルドリックはそのバルタサール直属の部下となったのだ。下手な噂が少しでも立つようなことがあれば、姦通の嫌疑をかけられ即刻二人とも処刑されるであろう。身分の低い者同士の痴情のもつれならばともかく、一国の君主の妾と文官の不義であれば、それは二人の問題を越えて君主の面子に関わる問題となる。他の男と姦通するような淫売を妾にした揚句、その情夫が腹心の部下であるなどと周囲に漏れようものなら、赤恥どころか憤死ものである。
メルロスとて、馬鹿ではなかった。自分の立場も、アルドリックの立場も理解している。二人の運命も、とうに見えている。
それでも。
それでも縋りたいものがあった。
もう一度会いたい。触れたい。話したい。無性に。
それも出来ぬなら、ただ側にいるだけでいい。同じ部屋にいるだけで、アルドリックの存在を側に感じたい。話せなくともいい。触れられなくてもいい。アルドリックがこちらを見ずとも。その息遣いを感じ、最早帰らぬあの日々を、突然終わりを告げた幸せだったあの日々を、最後にもう一度だけ感じたい。
メルロスは次から次へと溢れ出る涙を拭うこともなく、ただ泣き続けた。去来するのは幸せだったあの日々。アルドリックと引き裂かれてからの辛い日々など霞んでしまうほど、胸を高鳴らせていた。でも、もうメルロスには胸を時めかせる資格はない。
仕方がなかったとはいえ、自らバルタサールの妾になることを承知してしまった。
自分が悪い。アルドリックを裏切ることとなった。その気になれば、アルドリックに文を送ることも出来た筈だ。それをしなかったのは、アルドリックに忘れられるのが怖かったのだ。アルドリックの心からメルロスという存在が消えてしまうのが怖かった。アルドリックが別の女性を愛するのが嫌だった。身勝手な理由から、アルドリックを不必要に苦しめた。
メルロスは、寝台に身を埋め、また泣いた。
「アルドリックよ、まだメルロスに会いに行ってはおらぬのか」
「……クラウディオ様」
アルドリックは大きな溜め息を吐くと、何かと声をかけてくる君主の息子にうんざりした視線を投げかけた。それに気付いているのかいないのか、クラウディオは執務に追われるアルドリックの隣に悠々と腰掛け、その様を眺めた。
「邪魔をするのなら出て行って頂けませぬか」
「邪魔をしているのか、私は」
「気付いておられませんでしたか。ではこの際はっきり申し上げましょう。非常に邪魔です。私はメルロスという女に会う義理もなければ権利もないと再三再四申し上げたはず。これ以上私の執務を妨害なさる気なら、バルタサール様にでも、あなた様の細君であるバレリア様にでも告げ口をする所存です」
さすがのクラウディオもこれには黙りこんでしまい、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。アルドリックはフンと鼻を鳴らすと、沈黙したクラウディオを尻目に猛烈に筆を走らせる。今はもう、何も考えたくないのだ。
ほどなくして、戦が始まった。アルドリックも軍師として尽力すべく、戦場に赴く。しかし、それ程大きな戦ではないからか、バルタサールはお気に入りの妾を数人、戦場に同伴させた。もういつもの光景であるので、誰も異を唱えない。その中に、メルロスもいた。アルドリックは掻き乱される心を必死に抑え、唇を噛み締めた。
バルタサール軍の圧勝かと思われた戦は予想と反し、なかなか終わりを見せることはない。バルタサール軍にも苛立ちが見えてきた折に、夜半、本陣を敵軍の夜襲に遭ったバルタサール軍は一旦散り散りになってしまった。窮鼠猫を噛むと云ったところか、もしくは初めからバルタサール軍の焦燥を待っていたのか。か弱いバルタサールの妾たちは、一人残らず行方不明となってしまった。
「アルドリックよ……メルロスが行方不明だそうだ」
「………」
逃走の際、クラウディオと行動を共にしていたアルドリックは、その主の言葉に沈黙した。伝令が伝えたところによると、メルロスを始めとするバルタサールの妾たちは皆殺されたか、敵軍に攫われたか、とのことであった。アルドリックは景色が急速に色を失ってゆくのを感じる。未だかつて感じたことのない絶望と焦燥に、アルドリックは戦慄いた。メルロスがいなくなったあの日は、ただ茫漠とした喪失感に苛まれはしたが、心のどこかでメルロスは生きていると感じていた。しかし、今は違う。ここは戦場である。恐ろしい程の虚無がアルドリックを襲っていた。
夜襲を受けてから二日経ったある日、アルドリックは早くも自我を取り戻し、反撃すべく戦場を奔走していた。散り散りに逃げていたバルタサール軍も、別の地に本陣を構え、徹底抗戦の構えを見せていた。そんな中の夜半過ぎ、アルドリックは隠密に敵陣近くまで潜入し、自らの慧眼で戦局を見定めていた。十分に現状を見たアルドリックが本陣に帰ろうと、静かに踵を返したとき、木立の陰に視線を感じて振り向いた。夜目が利いていたおかげで、アルドリックはその人物が何者なのかすぐさま理解し、静かに歩み寄った。
「アルドリック……」
「メルロス!無事だったか!」
「アルドリック……会いたかった……」
アルドリックの衣の裾を力いっぱい握りしめ、今にも泣き出しそうに顔を歪めるメルロスを宥めたアルドリックは、とにかくこの場から離れるためにメルロスを引き連れ、歩き出した。繋いだ手から伝わる何かを確かに感じ、アルドリックは自らの心が力を取り戻してゆくのが分かった。後ろから伝わる息遣い。自らの手に、固く絡ませられた柔らかな手。
「……お前は相変わらず手が冷たいな」
ふと漏れたその言葉に、メルロスが小さくしゃくりあげた。
「このあたりなら大丈夫だろう」
周囲を見渡し、アルドリックが改めてメルロスを振り返る。泥だらけで、衣はみすぼらしくなっていたが、自分を見上げるその顔は変わっていない。アルドリックは、咄嗟にメルロスを抱きしめた。メルロスもアルドリックの背中に手を回し、きつく抱き締め返す。
二人はそうして長い間抱き合っていた。そして、アルドリックが優しくメルロスの顔を上げさせる。メルロスも潤んだ瞳でしばらくアルドリックを見つめてから、そっとその目を伏せた。久方ぶりのメルロスの唇の感触を何度も確かめるように、軽く啄むような口吸いをする。メルロスの目から一筋の涙が流れたが、アルドリックはそれに気付かないふりをして、もう一度深く口づけた。
「ごめんね……アルドリック……」
「何がだ」
アルドリックの胸に頭を凭せ掛けながらメルロスが消え入るように呟いた。アルドリックはメルロスを抱きしめたまま木を背にもたれかかっていて、メルロスもアルドリックに身体を預けている。
「……いなくなっちゃって」
「ふん。お前なぞいなくとも寂しくなどなかったわ」
「……本当に……?」
「………嘘だ。信じるな、馬鹿者」
そうしてまた再び唇を重ねる。唇を離してから、じっと見つめ合っていた二人だが、不意にメルロスの顔がくしゃりと歪んだ。
「ねえ、アルドリック。お願いがあるの。私を――…」
―――殺して。
「アルドリック?何だ、その血は」
「……何でもありません」
いつの間にか陣に戻ってきていたアルドリックにクラウディオは眉をしかめる。アルドリックの手は血で汚れていた。
「よもや敵に見つかった訳ではあるまいな」
「ご安心を。瑣末な出来事ですので…」
アルドリックはそう、消え入るように呟いた。
次の日の朝早く、敵陣を電光石火の勢いで奇襲をかけたバルタサール軍は瞬く間に敵勢を鎮圧し、戦闘に勝利した。バルタサールの妾は、結局一人として戻らずの凱旋となった。だが、勝利に酔いしれたバルタサール軍は、数多くいるバルタサールの妾の内のほんの数人の存在など、勝利の余韻にかき消されてしまっていた。
しかし、クラウディオだけはアルドリックの態度に違和を感じていたのだ。アルドリックの策によりバルタサール軍は勝利したというのに、全く浮かない顔をしている。宴が終わってから、クラウディオはアルドリックを自室に呼びつけた。
「あの日、何が起こったのか話してもらおうか」
「……話すことなどありませんな」
「メルロスのことか?」
「………」
長く沈黙を保っていたアルドリックだったが、ようやくその重い口を開いた。
「馬鹿者!何を言う?ふざけるな。ようやくお前を再びこの腕に抱けたのだ。もう何があっても私はお前を離さぬ」
「アルドリック……駄目よ。駄目なの」
メルロスは大粒の涙を流しながらかぶりを振る。そんなメルロスに、アルドリックは必至で食い下がった。
「駄目だ!離さぬ。離れることは許さぬ。側にいろ。私にはお前が必要なんだ。メルロス、お前が必要だ。私はお前を愛している」
「駄目なの。私、アルドリックを裏切った。でも、バルタサール様も裏切ったもの……」
「バルタサールなど気にするな。お前は私のものだ、何を迷う必要がある!」
「バルタサール様は、ご自分を裏切った相手はきっとどこにいても見つけ出して命を奪うわ。そういうお方だもの……」
「知った風な口を聞くな!バルタサールが怖いか!?なら私が奴を殺してくれるわ!」
「駄目!駄目よアルドリック!やめて!あなたは生きて。生きて、幸せになって」
メルロスはアルドリックに縋り、泣いた。そんなメルロスを、アルドリックはただ抱き締めることしか出来なかった。やっと会えたのに。ただ、それしか出来なかった。
「……お前なしでは、幸せになど、なれぬわ……」
「ふふ」
「何がおかしい」
「私ね……最期にあなたにもう一度会えてよかった。話せてよかった。触れられてよかった」
「馬鹿者。これからもまた、いくらでも出来るだろう」
「幸せだよ……アルドリック……。でもまた、一緒に暮らしたかった。アルドリックとの子供が欲しかったよ。二人で子供の成長を見届けて、年を取っても仲の良い夫婦でいて……最期はね、アルドリックや、子供たちに見送られて、ゆっくり目を閉じたかったな」
「メルロス……」
「でももう、それも出来ないんだね……」
消え入るような声で呟くメルロスを、アルドリックはより一層強く抱きしめた。今メルロスを離したら、今にも消えてしまいそうな気がして、アルドリックはメルロスを苦しいくらいに抱いた。
「アルドリックの鼓動が聞こえる。アルドリックはあたたかいね。大好きだよアルドリック。私はあの日、アルドリックと離れ離れになった時に死ぬべきだったの。でも、アルドリックの心から私がいなくなるのが怖かった。アルドリックの心に別の人が入り込むことが怖かったの。ごめんね、ごめんね。私の我がままで、アルドリックを苦しめて、ごめんなさい。今まで生きてきて、一番幸せで、一番大好きです。私を愛してくれてありがとう、アルドリック。アルドリック、さっき、最後のお願いって言ったけど、ちょっと付け足すね。私のことを忘れて、どうか幸せになってください。どうか、私を振り返らないで。寂しいけど、アルドリックが私のことで囚われてしまうほうが悲しいの。お願い。ねえ、アルドリック。好きだよ。愛してるよ。お願い。おねがい……」
メルロスの言葉は嗚咽に塗れて聞こえなくなった。
ややあって、やっとの思いでアルドリックは言葉を紡ぐ。
「お前がいないと……生きている意味など……ないだろうが……馬鹿め……」
その言葉を聞いたメルロスは、にこりと微笑んで、アルドリックを突き放した。
その手には懐刀が握られており、メルロスはその切っ先を自らの喉元に突き付けた。
「アルドリック、お願いね。今までありがとう。私は幸せです」
***
「……まるで異郷の姫の昔話のようだな」
「虞兮虞兮奈若何……というやつですか。その時覇王は如何ほどの気持ちであったのでしょうな」
アルドリックはまるで自嘲するような笑みを浮かべ、静かにクラウディオの部屋から出て行った。