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05.バカ

 朝、登校して自分の席で放心していると天園さんが来てくれる。僕は相変わらず自分から天園さんの席へは飛び込んでいけないんだけど、天園さんと話したいなあとは日頃から思っている。それだけでも大きな進歩じゃないだろうか。メンタル的に。


「おっすー猫村くん。動画完成した?」


「おはよう……」とまず僕は挨拶をする。「動画は……昨日は準備してただけだから。今日ゲームのアップデートがあるから、そのあとにプレイしてそれを動画にするよ」


「あ、そうなん? そゆこと?」


「昨日はプリペイドカードを買いに行ったんだ。あ、そうだ天園さん、エナジードリンクって何味が好き?」


「えーそんなん普通味っしょ。一番パンチ利いてるし」


「最初に出たヤツだね」


「でもあれエグみハンパないからさー……濃ゆいじゃん? 飽きるし。だからウチはノンカロのヤツと交互に飲んでる」


「あ、あんまり大量に飲まないようにね……」


「アハハ! 一回に二本開けてるわけじゃねーし! 健康にはちゃんと気ぃ遣ってるよ。長生きしたいし! 美魔女になって魔法使うのが夢です」


「とりあえずエナジードリンクはその二種類が好みってことだね」

 無難なヤツでよかった。昨日僕がチョイスしたものと一致している。


「いろんなの飲んでみたいけどさー、なんか慣れてる味の方が集中できん? 動画作ってるときの話ね? あんま知らんヤツ飲むと、何この味!?うめぇ!みたいになって意識がそっち行っちゃいそうじゃね?」


「まあわかるかも」


「ま、そんなセンサイな作業してるわけじゃねーけど? 楽しんでやってるしー」


「気持ちの問題だよね。わかる気がする」


「以心伝心侍! で、エナドリがどしたん? 猫村くんオススメのヤツがあんの?」


「や、僕も定番の味が好きだけど……そうじゃなくって、昨日コンビニ行ったときに買ったからついでに天園さんにもと思って」


「え、恵みかよ」天園さんの表情がよりパッと明るくなる。「行動が神ってるー。コンビニ行ってるときまでウチのこと覚えててくれたん? うれぴょいなんだが」


「そんな、コンビニ行った途端に天園さんのこと忘れるわけもないでしょ。むしろ最近は天園さんのことばっかり考えてるよ……」


「ぴ!?」


「え……」見ると天園さんは燃えるような頬を手で押さえてうつむいている。「あ、いや、変な意味じゃないよ!? 天園さんがいつも僕の頭の中にいるっていうか……いつも意識してるというか……」


 何を言っても間違ったふうに捉えられてしまいそうでダメだった。とにかく僕は天園さんの影響で他人と接する機会が激増したわけだから、そういう折りに無意識的に天園さんの存在を感じてしまうのだ……ということを言いたいのだ。天園さんのことを思うとドキドキしたりムラムラしたりして夜も眠れない……という話ではない。


「う、ウチもそうだし!」と天園さんが勢いよく言う。「ウチだっていっつも猫村くんのこと考えてるし! 話したいなー、でもいま連絡したら邪魔かなー寝てるかなーって」


「…………っ」僕も顔が熱くなる。本当に、どうして僕なんかに天園さんの脳の容量を使わせるだけの価値があるんだろうと疑問だけど、これだけ慕われるんだったらポジティブになるしかないよなあとも思える。そんな疑問が湧かないような自分になりたい。今の僕ではまだ全然乏しくて、天園さんを可愛いと感じているもののそこで止まってしまっている。可愛いからどうしたいのかというのがない。「……連絡したいときに連絡してください。僕は基本暇だし、寝てたら応答はできないかもしれないけど、邪魔だとは思わないから……」


「う、うん……ゲームとかの邪魔にならんように連絡する……」


「はは。うん」

 でも最近はゲームのプレイ時間も減ってしまった気がする。動画の配信頻度も。天園さんは僕と知り合ってモチベーションが増加したと言うが、僕の方はモチベーションとは別の観点で趣味に集中できていない。天園さんや他のギャルに費やされるエネルギーが大きすぎて帰宅後に体力があまり残らないのだ。これはキャパシティが小さすぎる僕が問題なのであって天園さん達は何も悪くないし、そもそも僕自身困っていない。天園さんのことを考えて、天園さんと関わり合って、それでエネルギーが尽きるんであればそれで一向に構わない。趣味か天園さんか、どちらが大切なのかという話でしかない。


 天園さんとの会話にばかり意識が向かっていて気付かなかったのだが、天園さんの背後にいつの間にか穂坂さんが立っている。


 穂坂さんは緩慢な動作だがガバリと天園さんに抱きつく。穂坂さんの生気のなさだと、しなだれると表した方が適切かもしれないが。「おは、アマゾン」


「おお……おっすーホサコ。ばびる。忍者かよ」


「好きピに夢中すぎなんじゃない?」


「はあ!? そんなんじゃねーし。オマエが幽霊すぎなだけだろー」


「…………」

 僕まで巻き添えで恥ずかしくなる。天園さんの気持ちはグループ内で共有されているのか。まあSNSにも思いきり書いてあったしな……。


 穂坂さんが眠たげな瞳で僕を見て「おはよ」と言う。「昨日は、どうも」


「ああ……全然」

 ほとんど役に立っていない。穂坂さんを余分に歩かせてしまっただけだ。


 当然天園さんが反応する。「昨日なんかあったっけ?」


「送ってもらった」と穂坂さんは平坦に言う。「バイト帰り。猫村に」


「はああ!?」天園さんがどういうリアクションを取るのか読めなかったが「猫村くん優しすぎじゃね?」と意外と軽い。「メチャいい仕事してんじゃん。スパダリかよ」


「スパダリはない」穂坂さんは息をつき、「ヤキモチ焼かないんだ?」と続ける。


 僕も畏れながらなんとなくそういう展開を想像したけれど天園さんの捉え方は違っていて「人に親切なのはよくね?」と前向きだ。「猫村くんが親切な人でウチは嬉しいよ。日々猫村くんの評価激増じゃね? 徳積みすぎ仏かよ」


「ふうん」と変わらず穂坂さんのトーンは一定だ。「付き合ってもないクセに余裕だね」


「つ、つ、つ、つき!?」天園さん、そっちには反応するのか。しかもちょっと過剰すぎる。「そそ、そーゆうんじゃないしね?ウチらの関係性は。ねー?猫村くん」


「う、うん……」

 なんかこうして見ると、僕に告白してくれたときは本当に勇気を振りしぼっていたんだなとわかって……思うところがいろいろある。別に僕とは違って異性に耐性がないわけではないだろうに、このうろたえっぷりは異様とも言える。


「ふうん」と穂坂さんはまた鼻を鳴らし、じとりと僕を眺める。「なんか幸せ者だね、猫村」


「『くん』を付けろし! 猫村くんだろーが」


「えー別にいいじゃん。あたしと猫村の仲なんだし」


「はあん!?」


「あたしと猫村は、そういう関係性」


 穂坂さん、友達といるときはそれなりに活き活きするんだな……と僕はなんとなく安心する。アンニュイな感じは変わらずだけど、それが自然体ならそれでいいと思う。ともあれ、待ち構えていたものの、やはり睨まれることはないみたいだった。穂坂さんもただの人見知りで、昨日会話したことでそれが解けたってだけの話だったのかもしれない。僕が知らず知らずの内に何かしでかしてしまっていたのかと気が気じゃなかったので、これで気まずさは払拭できたんじゃないだろうか。


 朝のようなノリのまま学校があっという間に終わり、僕は帰宅し動画作成に勤しんだ。最近あまり作れていないが、作るとなったら気合いを入れて。動画作成は天園さんとの唯一と言っていいほどの貴重な共通点なので、先細るにしても完全には引退してしまわないよう努力したい。僕の動画を待ち望んでいる人なんていないと思うけど、動画作りの話を天園さんとしているのは少なくとも楽しい。


 ゲームの攻略動画はおそらく天園さんのアイテム紹介動画とかより作成が楽だ。プレイ画面を録画して、ゲーム映像に画角はないので不要な部分をカットしてテロップと音声を入れるだけ。ゲーム以外の素材を用いたりと、凝る人は凝るんだろうけど、僕はそういう盛り上げ方が苦手だし、しない。シンプルでいい。


 動画をアップしてふと時計を見遣ると……九時前。すごい時間だ。何がすごいって、たぶん穂坂さんがバイトを終える時間で、もしかするとシフトが違って今日は休みかもしれないし終業時刻が異なるかもしれないんだけど、穂坂さんが今日もまたあの夜道を歩くと思うとそわそわしてくる。大通りから外れると、本当に暗くて不気味なのだ。しかも冗談とはいえ『毎日送る』と言い放ってしまっている。え、冗談だったよね? たしか冗談だということになったんだよね? その辺りの受け取り方についても不安になってくる。穂坂さんが待ってい……ることは絶対になさそうだが、もしも少しでも期待していたとしたら僕はそれを裏切ることになってしまう。いや、九時に時計を見なければこんなふうに思うこともなかったんだけど、今からコンビニへ向かって穂坂さんを送るには本当にちょうどいい時間だったため、僕は迷う。動画投稿を終えて、ふう、と思っている心境も関係している。


 さすがに……それこそ付き合っているわけでもないし……と思うが、僕は着替えて家を出ている。神経質すぎるのだ。しかも妙な方向に対して。わかっているし直したいんだけど今はまだ直せていないのでこの神経に逆らえない。


 現在時刻は午後九時五分。昨日は九時を過ぎたあとコンビニの外で十分ほど待たされたからまだ余裕はある。穂坂さんは帰っていないと思う。


 早足になり、少し走り、行きつけのコンビニに到着したとき、ちょうど制服姿の穂坂さんが駐車場の辺りを歩いている。


「あ、ほ、穂坂さん……」僕はちょっと弱々しい声で呼ぶ。


「…………」

 穂坂さんは僕を振り返るが何も言わない。あきれているのかもしれない。あるいは不審者だと思っているのかもしれない。


「僕。猫村です」と自己紹介しながら接近する。


「……今日も課金?」と穂坂さん。


「あ、いや……今日は穂坂さんを送りにだけ」


「え、キモ」と率直な感想をいただくが、すぐに「まあいっか」と訂正される。「猫村だし」


「僕だし?」


「他の男だったらキモすぎるけど、猫村ならまあいっかって」


「ええ?」

 それは僕の感性からすると逆で、僕じゃない方がキモくないと思うんだけど。


「他の男だったら体目当てとかあるでしょ。あんたにはない。その違い」


「か……」

 そういう可能性か。なるほど。たしかに僕はそんなステージにはいない。女子に興味がないと言えば嘘になるが、興味があったからってどうなるというんだろう。


「ほら、行こ」


「あ、うん」


「よろ」


「うん」

 僕は歩き出す。アパートの方角は昨日で把握したので、そちらに足先を向ける。


「マジで毎日送ってくれるつもり?」


「え、うーん……」

 今日はたまたまなんだけど、はっきりとそう告げるのもなかなか気が咎める。しかしこれから毎日ずっとというのも……。


「ときどきでいいよ」


「えっ」


「気が向いたら送ってくれればいい」


「あ、わかった……」送ってほしいんだろうか? それとも僕に合わせて言ってくれているんだろうか? まあ穂坂さんにしても、僕がいないよりもいる方がまだちょっとは安全だと感じているのかもしれない。「穂坂さんって毎日働いてるの?」


「てる。毎日九時まで。土曜は朝から夕方まで」


「けっこうハード……」

 授業を受けたあとに接客しなきゃならないなんて信じられない。穂坂さん、偉い。


「親に仕送りももらってるけど」と穂坂さんは補足する。「家出(いえで)してきたわけじゃないし。高校の間だけ芳日にいさせてってお願いして。了承もらってる」


「へえ……」

 高校の三年間限定で、芳日町に……って、えらくピンポイントだな。なんで芳日町? まあ芳日町の近くには有名なパワースポットとかもあるけれど。


「大学は宇羽県内のどこかに入れたらとは思ってるけど」


「そうなんだね……」

 大学か。僕もぼちぼち考え始めなければならない。将来設計がまるでできていない。


 今日はコンビニからの最短ルートを通って穂坂さんちまで行く。学生用アパート……というわけでもないんだろうけど大半の部屋を大学生が利用しているであろうアパート。昨日と同様に真っ暗闇だ。


「おつ」アパートの前で僕と向かい合い、穂坂さんが言う。「ありがと」


「ううん」


「…………」


「……どうかした?」


「いや」


「早く入らないと風邪ひく……ことはないと思うけど」夏前だし。「疲れたでしょ。ゆっくり休んでね。お疲れ様」


「だる」


「えっ」


「いや」暗がりで穂坂さんが首を振っている。「自分だるいな、って」


「…………」


「あたしだるいって」


「ああ、うん……早く休んだ方がいいよ」


「じゃなくって」穂坂さんが僕を睨む。睨むように見据える。「部屋来る?」


「え」僕はおののいてばかりだ。「穂坂さんの部屋に? 僕が?」


「そう」


「な、なんで……?」


「なんでって……送ってもらったから、お礼する」


「お礼……」


「バカ? 変なことはしないよ」


「な、なんにも言ってないでしょ……」


「声でわかるから」


「り、理不尽だよ……」たしかにさっき体がどうとか言っていたから連想はしたものの、そんなの現実とはまったくリンクしていない夢想だ。


「来るの? 来ないの?」


「い、行くけど。行くよ」


「眠たいなら無理しなくていいから」


「大丈夫だよ」動画作成の疲労はあるけれど、困憊ってわけじゃない。「……少しお邪魔させてもらうね」


「うん。四階だから」


「はは……まだ歩くんだね」と僕は笑って見せるが穂坂さんはもちろん笑わない。僕に背中を向けてアパートへと入っていく。


 学生用の手頃なアパートなので建物自体の出入り口に鍵があったりはしない。普通に中に入り、階段を使って四階まで行く。上がってすぐのところに穂坂さんの部屋がある。ドアの方には当然鍵穴がついている。それを開けて入室する。


 穂坂さんの部屋は天園さんのそれと違って落ち着いた色合いだった。白と黒……と木製家具が目につく。匂いもあんまりしない。こうして他の女子の部屋を訪れると、天園さんの部屋ってけっこうな香り付けがされていたんだなと気付く。いつも甘ったるい。


「どこでもどうぞ」と穂坂さんは言う。


「失礼します」と僕は白いカーペットに腰を下ろす。


「エナドリしか飲まないんだっけ?」


「あ、全然。なんでも飲めるけど……お構いなく」


「構うために呼んだんだから」と穂坂さんはガラスのコップにリンゴジュースかな?を出してくれる。


「ありがとう……」

 で、僕は穂坂さんと何の話をすればいいんだろう。穂坂さんの部屋は必要最低限といったふうで、ゲームやフィギュアはもちろん、漫画すらも置いていない。天園さんの部屋に置かれていた、なんかすごい化粧台みたいなものもない……。


「はあ」と穂坂さんはかったるそうに息をつき、「着替えていい?」とどこからかスウェットを持ってくる。


「あ、じゃあ僕は部屋の外で待機しとくね……!」


「いればいいから」穂坂さんはブラウスのボタンを外しつつチラリと僕を見る。「あっち向いててはほしいけど」


「あっ、もちろん!」僕は座ったまま穂坂さんに背を向け、ついでに目も瞑る。


 ぱさぱさぱさと布っぽい音が聞こえてきたあとに「いいよ」と声をかけられる。


 僕は念のため五秒間余分に待ってから振り返る。灰色のスウェットに身を包んだ穂坂さんがリンゴジュースを飲んでいる。ミニテーブルの上にはリンゴジュースの他にスマホ。スマホは気持ち程度のデコレーションが施されているけれど、それよりも稲妻のようなヒビが入ったディスプレイの方が目を引く。ダメージスマホだ。スマホがこんな状態になってしまったら僕なら泣き叫びそう。


 さて、お着替えで少し時間を稼いだけど、いよいよ僕は穂坂さんと何の話をすればいいんだろう? もう気になることを尋ねるしかないよね……。

「穂坂さんはどうして芳日高校に来たの?」


「……興味ないのかと思った」と言われる。


「いや、そんなことはないけど、尋ねるタイミングもなかったし。尋ねていいことなのかもわからないし」


「ま、微妙だよね」


「そうだよね」

 微妙だとは思う。何もなければ県外の高校へ編入したりしないだろう。


「話そうか話すまいか迷ってる」穂坂さんは少しも迷っていなさそうな無機質な調子で言う。「バカみたいな話だから。本当に」


「話したくなければ話さなくって大丈夫だよ。全然」


「うん」


「興味は……ないわけじゃないんだ。穂坂さんに嫌々話してほしくないだけ」


「…………」穂坂さんは頬杖をつき、指でぺんぺんと顔を叩く。「……もともとの生まれはここなんだ、あたし」


「あ、そうなんだ? 芳日町?」


「うん」


「そういえば……」昨日の夜、『高校一年生のときに芳日町へ戻ってきた』みたいなニュアンスの台詞があったかも? なんか違和感のある言い回しだなあとひっそり気になっていたのだが、以前にここで暮らしていたのなら納得できる。「それだったらもしかすると、小学校とか中学校でいっしょだったかもしれないね。いつ引っ越したのかによるけど」


「幼稚園の頃に引っ越してるから」


「あ、そっか。じゃあ幼稚園の頃は」いっしょだった、のか?


「……まだ聞きたい?この話」


「え? えっと……まとめると、穂坂さんは幼稚園の頃まで住んでた芳日町が恋しくて戻ってきたってこと?」


 穂坂さんはじとーっと僕を見てから「ホントにあたしバカだから」と前置きする。「幼稚園の頃にメチャクチャ仲良くなった子がいて、あたしその子のことメチャクチャ好きだったのね」


「あ、その子を探しに来たのか」


 穂坂さんは頷く。「バカでしょ」


「そうかな。別にいいと思うけど」漫画とかでもよくある。僕が漫画脳なだけ? 「で、その子には会えたの?」


「会えた」


「え、すごい」


「自宅も知ってたけど、運よく芳日高校にいたから」


「運命的すぎるね」僕はそういう展開が好きだ。


「……でも全然冴えない奴になってた」


「ああ……」


「あたしが思い出を美化してただけなのかもしれないけど、見る影もないくらい落ちぶれてた」


「それは……悲しいね」


「あたしのことも覚えてなかったし。バカじゃん。あたしはこんな気持ちになるためにわざわざ芳日町に戻ってきたのかな」


「…………」


「……って、思いました」


「なるほど」

 心中お察しします。そういうことならあんまり話したくないのも理解できる。幼少期の輝かしい思い出を辿ったら、面影すらない残念な出来損ないがそこには待っていて、しかもそいつは自分のことなんて微塵も覚えていなかったと。話だけ聞くとちょっと面白くすらあるけど、実体験となると悲惨すぎる。親元を離れて単身で引っ越すという思いきった行動も無価値だった上に、大事にしていた思い出すらもが腐り果てる結果になったのだから。しかし、芳日高校というそこそこな進学校に入学できているというのにそこまで落ちぶれているヤツってどんな人なんだろう。穂坂さんに一発で見限られるほどの没落ぶりだなんて、そんなレベルの生徒、僕以外にもいるんだなあ。


「逆に嫌いになった」


「そりゃそうだよね」反転アンチ理論。


「二度と関わらないでおこうとしてたのに、友達がそいつと仲良くなってさ……」


「最悪だね」


「最悪だよ。もう二度と顔も見たくないのに、なんであたしの前にそいつを連れてくるのかと思ってさ」


「うん」


「あたしのことを思い出すわけでもないし」


「そんなに大昔の記憶、一度忘れたんだったら二度と思い出さないだろうね」


「死ねと思ったよ」


「うん、言っちゃなんだけど、死んだ方がいいくらい罪深いね」


「で、あたしは絶対にそいつと話さないでおこうと思ってたのにさ、やっぱり……やっぱり心のどっかには情みたいなものがあるんだろうね」


「あるのかな。僕だったら許せないかもしれないよ」


「で、そいつもあたしのこと忘れてるクセにさ、なんか微妙に優しくしてくるんだよね。そうなるとあたしも期待しちゃうじゃん? もしかしたら昔みたいに仲良くできるかも、って。もう変わり果てた全然ダメなヤツなのに」


「難しいね」難しい問題だ。「でも、そいつはどんなふうに穂坂さんに優しいの? 例えば、ほら、穂坂さんがさっき言ってたみたいに、もしかしたら、か、か、体目当てなのかもしれないし……」


「ううん」と穂坂さんは首をゆるゆると振る。「そんなんじゃない」


「そうなんだ。だったら……」


「そんなんじゃないんでしょ?」


「へ?」


「あたしがバイト終わる頃を見計らってわざわざ迎えに来てくれたりしてるけど、純粋な親切心なんでしょ?」


「!?!?!?」え、それ誰? 誰の話? 僕? 僕以外にも穂坂さんをバイト後に送ってあげている人がいるってこと? 違う。やばい。何がやばいのかわからないけどやばい。わかった。穂坂さんが僕を睨んでいたのは、だからか。僕が穂坂さんのことを思い出せないばかりか、穂坂さんに落ちぶれた愚鈍な姿を見せつけ続けていたから、穂坂さんは僕を睨みつけていたのだ。僕か! やばい! それしか言葉が出てこない。穂坂さんの話にメチャクチャ同情して同調していたのに! 僕は自分で自分を蔑んでいたのだ。それより。それよりだ。「ごめんなさい」僕は戸惑っていたが可能な限り素早く謝罪する。「全然覚えてない……ごめんなさい」


「いいよ」


「あと、情けなくなっててごめんなさい」


「いいって」


「会いに来てくれたのに、がっかりさせてごめんなさい……」


「いいって」穂坂さんが口調を少しだけ荒らげ、僕の上半身を起こす。僕は本能的にこうべを垂れていた。「謝ってほしくて話したんじゃない」


「…………」

 すごい惨めで死んだ方がいいってのはまさにこれだ。生きてて知らない間に誰かを傷つけ続けていたなんて。


「嫌いなままだったら、こんな話ししないし」


「…………」


「あたしすごいバカなんだ。痛々しいバカ」


「……そんなことないよ」

 バカなのは僕だ。穂坂さんは幼稚園時代のことを何から何まで覚えていて、それを高校生になるまで大切にしていてくれたのに。


「バカだから……まだあんたともしかしたら仲良くできるかもって思ってるし」


「そんなの……!」僕は顔を上げて穂坂さんを見据える。「僕だって、許してもらえるなら穂坂さんと仲良くしたいよ」


「……これ、アマゾンがハマるのもなんかわかる」


「え、なに……?」


「名前で呼んでよ」


「え、な、名前で……?」


「あたしの名前、知ってる?」


「名前、名前……」昨日ははっきり覚えていたのに、今はテンパっているからか咄嗟(とっさ)に出てない。穂坂さん穂坂さんと呼びすぎたのもある。なんだっけ?


 不甲斐なさすぎる。「久兎(くう)」と先に言われてしまう。


「そうだった……! 穂坂久兎さん……! なんかすごい可愛らしい名前だったんだった……」


 直近のことすら思い出せなかった。僕が苦々しくつぶやくと、しかし穂坂さんは珍しく目を見開いたあと、座ったまま僕の上半身をぎゅっとしてくる。


「うえ……!?」


「すごい可愛らしい名前って、それ、初めて会ったときにも言ったから。本介」


「っ……」

 不意打ちで抱きつかれ、不意打ちで名前を呼ばれて、僕はもうまったく身動きが取れない。


「もしかしたら、本介は全然変わってないのかもしれない。あたしのことは忘れちゃったみたいだけど、本介は本介のままなのかもね」


「そ、それは自信ないけど……」


「あたしも人のこと言っといて、けっこう変わっちゃってるかもだし」


「うん……」


「うんって」


「…………」たぶん僕は覚えていないわけじゃない。自分にとって現実なのか妄想なのかが曖昧で断定できなかっただけで、たぶんあのイマジナリー思い出の中に登場するイマジナリー幼女は穂坂さんなんだろう。今更そんな負け惜しみみたいなことを穂坂さんに伝えたりはしないが。「……幼稚園の頃の僕は変わり果てちゃってもういないから、新しい僕として穂坂さんと仲良くなりたい」


「……じゃ、あたしも新しいあたしとして、よろ」


「よろしくお願いします」

 そしてごめんなさい。僕は天園さんにようやく謝罪できたというのに、今度は穂坂さんに対して非常に後ろめたいのだった。穂坂さんが失ったものの穴埋めをやってのけられる自信なんてまるでないが、少しでも穂坂さんが芳日町に戻ってきてよかった、僕に会いに来てよかったと思えるよう、僕は何かをしたい。何をすればいいのかはわからないけれど。


「あたし達、付き合う?」と穂坂さんが訊いてくる。


「ええっ……それは」電撃すぎる。


「天園のことが気になる?」


「と、といいますか……僕はまだ天園さんのことも今の穂坂さんのことも全然知らなくて、つ、つ、付き合うっていう段階には達してないと思ってて……思います」


「ふうん」


「ほ、穂坂さんは」


「名前」


「く、久兎ちゃんは……僕のこと、好きなの?」


「今は別に好きじゃないけど」


「だったら」


「今から好きになる」


「む、無理矢理ならなくても……」

 僕はもう、穂坂さんの好きだった僕じゃないし。


「無理矢理じゃないし」


「…………」


「あたしも女子だから。この気持ちがどうなるか、わかってる」


「…………」


「あんな打ち明け方で、ごめん。また会えて嬉しかった」


「……僕の方こそ、ごめん」

 罪悪感がすさまじいけど、でも知らなければよかったとは思えない。知れてよかったのだ。昔、僕を好きでいてくれた子がいて、今、僕に怒っていた子がいたということ。

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