04.夜道
小学校入学以来、女子とコミュニケーションを取ったことがないと豪語する僕だが、だったら幼稚園の頃はどうだ?と問われると、ちょっと曖昧になる。記憶がほとんどないのだ。女の子と楽しく会話しながら仲良く過ごしたきらびやかなビジョンが浮かんでくるような錯覚にも見舞われるけれど、それは僕の悲しい孤独感が無意識の内に創り上げた憐れな妄想って線も強い。だからときおり脳内にちらつく可愛らしい幼女は架空のキャラクターなのかもしれない。イマジナリー思い出の中で楽しそうに笑うイマジナリー幼女。まあ現実であっても非現実であっても、どちらでも構わないんだけど。今の僕にとってはすこぶる関係のない話だ。
片寄っていたコミュニケーションの帳尻合わせみたいなものが押し寄せてくる。
天園さんが良くしてくれているからに決まっているのだが、僕は他のよく知らないギャル達にもそれなりに話しかけられるようになり、悪いようにはされず学校生活を送り続ける。天園さんがいなければ他のギャル達なんて僕を忌避するばかりだっただろうから、そう考えるとグループメンバーのおのおのの交遊関係ってのは、しかしグループ構成自体にも小さくない影響を与えるのかもしれないなと思った。ナマケモノが片手で数えられるくらいしか友達のいない僕にとってそれは発見だった。もちろん僕がギャルグループに加入したという話では断じてない。ギャル達が僕を天園さんの知り合いだと認識するようになったといった程度の話だ。人見知りが克服されたわけでは無論ないので名前も人柄もわからないギャル達のことは無批判的に恐ろしいが、まあ向こうも僕にそこまで興味津々というわけではないから過剰に絡まれることもなく、ほどほどだ。それにしてもギャルメイクが画一的すぎて顔の見分けがつかない。天園さんはギャルだけどメイクは比較的ナチュラルな感じなので、そういう点でも僕の目には優しい。
一人だけ、天園さん以外にはっきり見分けのつくギャルがいて、それはそもそもギャルなのかどうかすらよくわからないんだけど、少なくとも天園さん達のグループに所属している以上ギャルなんだろう。名前を穂坂久兎さんという。なんで見分けがつくかというと、メイクが天園さん以上にあっさりしていることもそうなのだが、髪が真っ黒。キンキン髪しかいない天園さん達のグループにおいて、セミロングの艶やかな黒髪はメチャクチャ目立った。そりゃ嫌でも覚えちゃうでしょというくらいに存在感を放っていた。
まあその程度だったら見分けがつくくらいの認識で済んでいたんだけど、僕が穂坂久兎さんと名前まで覚えざるを得なかったことには別の理由があって、恐い恐いギャル達の中でも穂坂さんは別格の恐さがあった。なんか睨んでくる。睨まれているような気がする。別に暴言を吐かれたり手出しをされるとかではないし実害は皆無なのだが、やたらと睨まれる。睨みつけられているような気がする。被害妄想で気のせいならばそれでいいんだけど、僕の長年培われてきた敏感なセンサーが穂坂さんからの敵意を明確にキャッチしているのだ。
天園さんに訊いてみる。「穂坂さんっているでしょ」
「ホサコな。いるよ」
「え、あれってホサコって読むの……?」
「読むわけねーし。アダ名じゃん」天園さんはアハハと笑う。「猫村くんてなんでも信じそう。可愛すぎんだけど」
「天園さんを信じてるだけだよ」
「はっ!?」すぐ赤くなる天園さん。「は、反撃するなし! や、やば……バカじゃん……うう」
「天園さんのことは絶対信じるって決めたから」
「きゅ、キュン死させる気かよ。殺人鬼じゃん」
「ふふ」
僕にも少しだけ天園さんをからかう余裕が出来た。他のギャルに見られるとキモがられてしまうけど、僕はそれでいいのだ。こういう僕で。
「……何の話ししてたっけ?」天園さんが気を取り直す。
「忘れた?」
「忘れた。ウチバカだから」
「穂坂さんの話」
「あーホサコね。ホサコがどしたん? なんか嫌なことされた?」
「そうじゃないけど……」必ずしも絶対違うとは言えないけれど。まだ天園さんに話すべきときじゃない。「どんな人なのかなと思って」
「ふーん」と目を細められる。「猫村くんあーゆうのが好きなんだ? まあ猫村くんオタクだから絶対あーゆうのタイプじゃんね」
「そういう話じゃなくて……」
「髪黒いし。見た目清楚だし」
「うん……だからどうして穂坂さんみたいな子がグループにいるのかなと思って。雰囲気が他の子とは違うよね……?」
「ダチだからじゃね?」
「え」
「気が合うからいっしょにいるだけ。そんだけじゃね?」
「まあ、そうだね……」どんな人かを聞きたかったんだけど。でもあんまり知りたがる素振りを見せると天園さんを不機嫌にさせてしまうかもしれない。「天園さんと趣味が似てるの? 例えばネイルとか……」
「アイツはデコったりしないし。オシャン度低いし」
「…………」
まあそれは実際に見ていればわかる。穂坂さんの爪は天園さんみたいにとんでもないものが装着されていないし、極めて普通だ。趣味は共通していなさそう。じゃあ本当に気が合うだけで、穂坂さんはギャルじゃないのか?
ギャルかどうかはどうでもいい。僕も別にギャルではないし、天園さんといっしょにいる人間がギャルでなければならない規則なんてないのだ。僕が知りたいのは穂坂さんの性格とか、人柄とか、人間性だ。男が嫌いだとかオタクが嫌いだとかそういうのがわかれば、僕も穂坂さんが教室に遊びに来たときには気を利かせてさりげなく天園さんから離れたりと善処できるのに。
本人と直接話してみた方がいいのかもしれない、なんて自分が自分ではないかのような積極的な気持ちになれるのは天園さんのおかげなんだろうか? 天園さんの何かを見習っているわけでもないんだけど、僕はいつの間にやら、去年の僕だったら浮かばないような発想を持つようになってしまっている。しかしそれは、穂坂さんの胸中を解き明かしたいという思いの強さのせいである部分も大きい。だって恐いし気になるし。毎度会うたびに睨まれていてはたまらない。やりづらすぎる。穂坂さんにとって僕が邪魔ならばそれでいい。僕は穂坂さんと距離を取るようにする。だけど、実際のところがどうなのかはっきりしないと僕も対応ができない。天園さんの様子から察するに、穂坂さんが僕に関するあれこれを誰かに打ち明けている感じはしない。
夜の九時前にコンビニへ行く。スマホアプリのプリペイドカードを買わなくてはならない。天園さんに負けないように僕も動画配信の準備をする。今回はガチャで新キャラを当てて、そのままの流れでそのキャラの性能解説をやるつもりだ。本来ならライブでやるべき内容かもしれないが、僕にそれは不可能なので編集して投稿させてもらう。手持ちのガチャ石を鑑みるに、最悪でも五千円くらいの援護があれば新キャラは確実にゲットできる算段だ。
「らっしゃせー」という女性店員さんの気だるげな挨拶を聞きながら入店し、僕は無数にあるプリペイドカードの中からいつものヤツを手に取り、それからエナジードリンクもいくつか選ぶ。天園さんちに行っていただいてばかりだから、今度機会があったらお返ししよう。天園さんを僕の部屋に上げることは永劫ないかもしれないが、別に学校へ持っていって手渡したっていい。
レジで会計を済ましコンビニを出ようとすると、「お客さん」と店員さんに呼び止められる。
あれ? プリペイドカード落としたかな?と焦るがちゃんと手元にある。「はい……?」
「君は本当に人の顔を見ないよね」と言われてようやく僕はしっかりとその店員さんを見とめるんだけど、なんとレジで働いているのは穂坂さんだ。コンビニの制服だからよくよく見ないと全然誰だかわからなかった。僕はもともと他人の目を見て話さない人間だけれど、正直、見ていてもわからなかったかもしれない。お小言をもらったからこそ、その店員さんが知り合いかもしれないと思えたのだ。失礼な話だけども。
まともに話すのは初めてだ。「こんばんは……」
「ばんは」と穂坂さんはだるそうに挨拶を返してくる。
「バイトしてるんだね……」
僕は見たまんまのことを言う。一応、天園さんの友達にはもう敬語を使わないようにしているので、穂坂さんに対しても普段通り話す。
「…………」
穂坂さんはじとっとした目で僕を眺めている。今に限っては睨まれている感覚はない。だけどなんか、何かを思われているような、そんな気配はする。
ここで穂坂さんの胸の内を解明することはできないだろうか?
「……あんまり夜遅いと危ないんじゃない?」
「…………」
「…………」
全然喋ってくれない。なんというか、くだらないものを見るような目線を向けられている。
まあ仕事中だから客と話し込んだりしてもいけないんだろうと僕があきらめかけると「九時で上がりだから」と言われる。
「え? あ」夜遅いと危ないんじゃないかと僕が言ったことに対して、もう仕事も終わりだから問題ないと答えてくれたのか。あるいはもう一歩進んで、危ないと思うなら送っていけというニュアンスまで含んでいるんだろうか。「……あの、じゃあ家まで送るよ」
「え、いらない」と真顔で拒否される。
「ぐ……」
読み違えた。だけど、家まで送るほどの時間があればもう少し穂坂さんと深い話ができるかもしれない。口に出してしまった以上、もう少し粘ってみる価値はありそう。
僕が考えをまとめている間に穂坂さんは気だるそうに奥へ引っ込んでいったので、とりあえず僕はコンビニを出て外で穂坂さんを待つ。
穂坂さんは学校の制服に着替えており、いかにも待っていたっぽい僕を見るなり「そういうのいいから」と嘆息する。
「や、でも危ないし……」
「あんたと二人きりの方が危ないし」
「…………」
たしかに……って僕は別に下心なんて何もないけど、反射的にたしかにと思う。僕は陰キャだけれど、今まではわきまえてひっそりと生活していたので他人から直接的に拒絶の言葉を浴びせられた経験がない。実際に浴びせられると……これすごい堪えるなあ。僕は心が折れて穂坂さんのことなんてすぐにどうでもよくなる。コミュ力オバケの天園さんと喋ってばかりいたから麻痺していたけれど、やっぱり人と関わっていくのは強い痛みを伴う。
僕は帰ろうとするが、そんな僕の顔がよほど悲惨だったのか「あーもう。わかったから」と先に穂坂さんが折れる。「送れば?」
「や、穂坂さんが迷惑ならやめておくけど……」
「うざ」
「…………」
天園さんもすぐに『ウザ』って言うけど、穂坂さんのは感情がこもっておらず冷え冷えする。
「送るのか送らないのか。どっち」
「お、送ります……」
「送るの?」
「はい……」
「ふうん」
「いいですか?」
「じゃ、よろ」
「はい」
で、僕と穂坂さんは二人並んでコンビニから離れていく。会話はない。穂坂さん、ワイワイ騒がしいギャルグループの一員にしてはかなりアンニュイな雰囲気だった。感情の起伏はあるんだろうけど、声色が平坦。何を考えているのかわからないというか、何も考えたくないと思っていそう、というか……。
本来なら僕なんかとは話もしたくないし、隣を歩くのも嫌といったご様子だ。ん? でも待てよ。もしも僕とできる限り関わりたくないんだったら、レジで声をかけなければよかったのだ。黙って放っておけば僕は買い物を済ませてそのまま帰宅していたはずだ。あるいは、嫌味を言うことの方を優先させた? 関わらないことよりも一言嫌味をぶつける方を選んだ? どちらにせよ悲しいな。
穂坂さんから喋ってくれることを期待して願っていたけど叶わなさそうだったので「だんだん暑くなってきたね」と気候の話をする。
「そ?」
「うん」でも今は夜だからそこまで気温は上がっていない。「……その前に梅雨だから、雨の日も多くなるかもね」
会話が難しい。天園さんがなんでも拾って広げて返してくれていたから僕もそこそこ会話ができるような気になっていたけど、それも麻痺で錯覚だった。ただただ天園さんがその場限りで僕のポテンシャルを引き上げてくれているだけだったのだ。
穂坂さんが僕をどんなふうに思っているかだけでも知りたい。既にどう考えても好かれていないであろうことは垣間見えるんだが、決めつけてはダメだ。天園さんのときの反省を活かして、僕はできるだけ他人を信じてみたい。
「てかさ」と穂坂さんが口を開く。「猫村、あたしが誰かわかってる?」
「え……」穂坂さんだよね? 改めて問われると不安になる。「天園さん達のグループの穂坂さんでしょ?」
「違う」
「え」
「そうだけど、違う」
「どういうこと……?」
なぞなぞ? とんち? でも考えてみても気の利いた回答は浮かばなかった。
しばらくして穂坂さんが「嘘。合ってるよ」と言う。謎。僕を撹乱している? いや意味がない。
だけど意味があるとしたら、それは僕を睨んだりすることと関係あるんだろうか? なんでもかんでも繋がっていると考えるのは愚かだろうか? 穂坂さんにただからかわれているだけかもしれないのに?
悩みながら歩いていると、やがて家に到着する。ようやく着いた……とため息混じりに帰ろうとするが、ここは僕の家じゃないか。バカか。ぼんやり歩いていたら自分の家へ来てしまった。ひどい。
「ここ、猫村の家じゃん」と穂坂さんにも無感動的に指摘される。
「僕んちだってわかるの?」
「わからなくても、そうでしょ」ピシャリと言われる。「ぼーっとしたままいつも通りに歩いてたんでしょ」
「ご、ごめん……」送るなんて言っておいて、僕は無心で帰宅してしまった。なんてバカなんだろう。さすがに自分が心配になってくる。穂坂さんも黙っていないで僕に声をかけてくれればいいのにと少し思ったが、どちらかというなら僕の方が悪いので何も言えなかった。
「帰るね」と穂坂さんは僕に背を向ける。
僕はまだ踏ん張る。「いや、送るよ……」
「いいから。もう帰りな。危ないし」
「危ないっていうなら、穂坂さんの方が危ないでしょ。女子なんだし」
「じゃ、猫村はあたしがバイトのたびに送ってくれるの?」
「えっ」まあそれはそうだよな。バイトは今日だけじゃないし、危ないんだったら毎回危ない。ごもっともだ。バイトのたびに僕が九時だかに駆けつけて穂坂さんを送り届けるなんて現実的じゃないし普通にちょっと面倒な気もするが、そう訊かれた以上「いいよ」と返す他ない。それは難しいよ、と拒否ができない僕だった。夜道が危なすぎるのは本当にその通りだし。
穂坂さんもさすがに面食らったようで、三秒ほど呆然としたあと「バカじゃん」とコメントする。「冗談だから」
「でもとりあえず今日は送るよ」と僕は頑なだ。この失敗だけは挽回したい。「自分の家に帰ってごめんなさい。送らせてください」
「……わかった」穂坂さんも根負けする。「お願いします」
「どっちに行ったらいい?」今度はしっかり道を訊かないと。
「こっち」と穂坂さんも教えてくれる。
で、たどり着いたのはアパートだった。四階建ての、そこそこ小綺麗なアパート。
僕はすぐ尋ねる。「穂坂さん、一人暮らしなの?」
「うん」
「た、大変なんだね……」
だからバイトをしているのか。本当に大変そうなやつだ……。
「親は宇羽県にいて、高一んときこっち戻ってきた」
「へえ……」僕にはとても真似できない。
穂坂さんは少し僕を窺うようにしてから「じゃ、帰る」とアパートの方へ一歩踏み出す。
「この辺り、メチャクチャ暗いね……」
大通りから二本ほど入った路地で、住宅街だから家は多いものの街灯が少なすぎる。夜に出歩くのは相当危険そうだ。
「送っていく?」とため息混じりに穂坂さんが首を傾げるので僕は思わず笑ってしまうが穂坂さんは特に笑わない。本気で言っていそうだ。いや、本気で言うわけないか。わからない。
「僕の話じゃないよ」と僕は首を振る。「穂坂さんが毎晩毎晩この道を通るのは危ない」
「学生街だから案外平気。そこに鳥山大学あるじゃん? 大学生がいっぱいいるから、けっこう人通りはあるし。このアパートに住んでるのも学生ばっかりだから」
「…………」
そういう問題なのか。僕は大学生のことも恐いが。
「じゃ、今度こそ帰るね」
「あ、うん……」
「おつ。ありがと」
「うん。おやすみなさい……」
「すみ」
「…………」
穂坂さんの部屋が何階にあるのかはわからないけど、とりあえず穂坂さんが見えなくなるまでは見守るか……と突っ立っていると振り返られて「早く帰りな」と言われる。
「うん……」
なんだろう。穂坂さんに睨まれる理由はわからないままだったが、本当に睨まれていたっけ?と思えるほどに普通だった。最初は心も折れかけたけど、後半はそれなりに会話も続いた。もしかして穂坂さんも人見知りなだけなんだったりして。僕と同じで、知り合った初期段階でつまずくタイプの人種なのでは。ただ、表情があまり変わらないし声の抑揚も緩やかだから感情が全然読めない。僕に気を遣ってくれているのか面倒臭がっているのかすら判断しがたい。
まあ明日学校で睨まれることがあれば、そのときにどうして睨むのか訊いてみよう。それくらいの関係値は今日で築けた気がする。天園さんのグループメンバーとして穂坂さんと顔を合わせる機会はこれから先何度となくあるだろうから、やはりわだかまりは消しておきたい。気後れなく過ごしたい。