03.カースト
僕にとって怒濤の四月が終わり、五月を迎え、高校二年生の新しい環境にもようやく慣れてきた頃、天園さんは相変わらずちょくちょく僕に話しかけてくれていたけれど、危惧していたことが起こる。危惧というと大袈裟か。単純な話で、最底辺である陰キャの僕に、どうして最高峰の陽キャたる天園さんが親しく話しかけているんだ?というミステリーが学年中を駆け抜けてしまう。しかも天園さんはたぶん美人なので、僕は多くの男子からやっかみの視線を浴びているような気になる。静かな敵意を感じる。天園さんはその辺りのことをどう思っているんだろう?
本日の三時間目は体育で、クラスメイト達はみんな更衣室の方へ行ってしまったが、天園さんだけ机に突っ伏して寝ている。僕も出遅れてしまっているけれど、天園さんが気になって教室を出られない。天園さんの友達は起こしてくれなかったんだろうか。まあギャル仲間はその辺けっこうドライな印象があるからなあ、お互い。偏見?
一応声をかける。「天園さん、体育始まっちゃいますよ……」
すぐ返事がある。「無理。サボろ」
「…………」一人でサボるのではなく共犯を要請してくるところがすごい。「体調悪いんですか? だったら保健室に……」
「ねみーの」と天園さんは姿勢を変えず呻く。「昨日の生配信調子乗ったー。みんなアゲで超盛り上がったから無駄に駄弁っちった。三時間くらいぶっ続け? のど痛ぇ~」
「四時間です」と僕は訂正する。
天園さんがガバリと上半身を起こす。「……見てくれてたん?」
「途中からですけど。生配信してたのは知ってたんですが、一時間経ってもやめてなかったので、まだやってるなあって思って……」
「コメントしろし!」
「や、コメントしてもわからないでしょう……」
僕のアカウントもわかっていないようだし。それに昨日の配信はコメントがけっこう流れていたので拾われる確率は低そうだった。
「猫村でーすって言ってくれれば拾うよ」
「そんなオープンな……」
「えーでも見てくれてたのマジ嬉しい。でも喋ってるの見られんの恥ずい……」
「いや、立派でしたよ」
話は人を飽きさせないし、途中から美容とはまったく関係なくなっていたけど、同接が減らないってのはそういうことなんじゃないだろうか。四時間経ってもトーンが落ちたりもしないし、配信者として純粋にすごいなと思う。
「もー嬉しいんだが」天園さんは照れ臭そうに僕を見遣り、手招きする。「こっちおいで。もっと近く来て。のど死んでっから声届かん」
「声は充分届いてますし……じゃなくって、次の授業体育なんですって。僕行かないと……」
「もう過ぎてんじゃん」と指摘される。
たしかに休み時間はもう終わってしまった。「それでも出席はしないと」
「んー……猫村くんマジメだからな」天園さんは再び机と両腕に顔を埋める。「キョーヨーしたらダメだもんね。キョーヨー魔になっちゃう」
「…………」
「ばいばーい。いってら」
「…………」たしかに僕は授業をサボったことがないし、それ以前にサボる度胸もないヤツだが、この状況……天園さんを置いていくのも気が引ける。天園さんの背中が普段よりも小さく見える。肩も細い。「……天園さん、本当に体は大丈夫なんですか?」
ビクッと天園さんが揺れる。「……うお、いま落ちてたー。こんなんもう気絶じゃね?」
「保健室で寝てください」
「いいよメンドい。ここで寝てるし。猫村くんいてくれたら超安眠できっし。大丈夫」
「えぇ……」やっぱり僕はここにいなくちゃいけないのか……などと思いながらも、ぶっちゃけ、今さら遅れて授業に参加するような勇気も僕にはないのだった。遅刻していって注目を浴びるくらいなら最初からいなかったことにしておいた方がマシだ。僕はあきらめて天園さんの正面に回る。「……配信お疲れ様でした。でもあんまり授業をサボると卒業できなくなるから気をつけてください」
「よゆー」天園さんは顔を伏せたまま言う。
「この前みたいに午後からまるごとサボるのも、控えないと……」
「お仕事だから……仕方なくね? ネタの調達マストっしょ」
「……そういえば天園さんのチャンネルって収益化してるんですか?」訊いてみる。
「いちおね。パパ名義だけど」
「それはそうですよね」僕も親の名義になっている。
「お小遣いがちょっと貰えるかなーぐらいだよ」
「次の動画のために使っちゃって、残らないんですけどね」
僕の場合、ガチャ課金とか、新作フィギュアとか。
「それな。マジそう」天園さんは寝たままで僕を指差す。「……ま、好きなもの買ってるから別にいいんだけど。好きなものを買って、それを動画にしてみんなに見てもらってるって考えた方がポジティブじゃね?」
「ですね……」
「ウチいいこと言う~。ねえ、これメモっといて。次の配信で言う」
「いや、メモるほどの名言ではないような……」わりと普通にみんな言っていそうだが。「……天園さんは、メモとかナシで喋った方が面白いんじゃないですか? いつもそうしてるんでしょう……?」
「うん」両腕の中で頷く天園さん。「よく知ってんじゃん……」
「同業者目線です」
「今度コラボしよ」
「ジャンルが違うし、僕は音声読み上げソフトです」
「猫村くんも喋ったらよくね? 生配信とかもしてさー」
「絶対キモいしつまらない……」
「何事もやってみないとわかんなくね? あ、またいいこと言ったわ」
「いいことのハードルも下がってきてるし……」
「ウチは猫村くんと喋ってんの好きだよ」
「うーん……じゃあ配信者として僕の声、どう思いますか?」
「まあー……ボサボサしてるし聞き取りづらいし、なんか説明するときは超早口になるけど滑舌悪いし何言ってっかわかんないときあるけど」
「全否定じゃないですか……」
「でも味じゃね?」
「それ、別にいいこと言ってないですからね……」
「あれ? 言ってるくね?」天園さんは顔を上げて笑う。
僕はそもそもで自覚があるので、天園さんの評価は順当だと感じている。だから天園さんの笑顔に対して、自然と笑みを返せる。「悪口ですよ」
「アハハ! でも配信者がみんな聞き取りやすい声で明るげに喋ってたらつまらんくね? いろんな人がいた方が楽しいし」
「いろんな人はいると思いますけどね……」
徹頭徹尾テンションが高い人、落ち着いていて抑揚のない人、声の質がとにかく変わっている人。僕の場合はそれ以前の話というわけだ。声の届きが悪い。そもそも配信に自分の声を乗せるなんて恥ずかしすぎてできない。あとで見直せなくなってしまうじゃないか。もともとあまり見直さないけど。
「それでもウチは猫村くんと喋ってると元気出るよ。配信も頑張っかーって思えるし。猫村くんと知り合ってからウチマジ配信の頻度急上昇してっからね! 稼ぎは全っ然増えてねーけど。でもモチベは爆上がり。なんでかな。同業者だから? 同業者に会えて嬉しいからかな?」
「……他の人は配信してないんですか?」
「他の人?」
「あの……天園さんの友達の人とか」
「ああ……ショートとかやってる子はいるよ。でもガッツリ編集してとかはないな。踊ったり、おもろいことあったら撮ってポイってショート投稿して。手軽~なヤツ。ウチもよくやる」
「なるほど」
「猫村くんの動画も見してよ」
「や、ぼ、僕のはつまらないゲームの攻略動画だから……。何度も言うけど読み上げソフトだし」
「猫村くんが作ったヤツが見たいんだよー。猫村くんのクセとかコダワリとか? そーゆうのが見たいの」
「いやいやいや……」
そういう目線で見られるのが一番恥ずかしいから。さすがに同業者は視点がいやらしい。
「畦道も猫村くんのことあんま教えてくれなくなったしなー」
「うん……?」桐哉? 「桐哉とよく話すんですか?」
話しているところはほとんど見たことがないけれど、今の言い方だと進級してからも交流があるようなニュアンスだ。
「え、話さんし」と天園さんは明らかに胡散臭い。
「いいですけど……桐哉をあんまり質問攻めにしないでくださいね……」
「そ、そっちこそ、ウチのこと畦道に訊くの禁止!」
「訊きませんよ」
からかわれそうだし。しかしどうやら天園さんは桐哉から僕のチャンネルを聞き出そうとしており、それってつまり他の方法で僕を追跡する気がないという証左だし、その点では安心できた。桐哉も僕の個人情報は守ってくれているみたいで助かる。
そのあとは動画配信と関係のない話をする。話というか、いつものように天園さんが一方的に喋る。友達のこととか、遊びのこととか。僕とは違って輝かしい青春を歩まれているようだったが、羨ましいとは感じなかった。それぞれが身の丈にあった生き方をすればいいし、僕は僕で、今のままでいい。『今のままでいい』というのは、でも……僕は天園さんを見つめる。天園さんは半ば突っ伏した体勢のまま視線をやや下に落としていて、僕の位置からだと髪の分け目ばかりが見えていて目が合うことはない。今現在、僕の学校生活には天園さんがかなり入り込んでいて、僕はそれを含めて現状に不満がなくて、満足していて、その自覚が僕をより戸惑わせる。僕は天園さんとどうなりたいんだろう? 恋人なんて想像もつかないし、僕のキャパシティでは受け持ちきれないし発狂してしまいそうだ。友達だとしても、僕に天園さんの友達である資格なんてあるんだろうか?と思ってしまう。僕は自分から進んで天園さんに喋りかけたり遊びに誘ったりなんて絶対しない。できない。天園さんは友達も多いし予定も盛りだくさんなので僕は邪魔になるだろうし、そう思い込んで一線を引いてしまっている時点で僕はやっぱり友達じゃないのだ。でも……と思っていると天園さんが口を開く。「もうそろ三時間目も終わりかー」
「え」
本当だ。いつの間にか時間が進んでいて、あと十分ほどで休み時間になる。
「みんな戻ってくんねー。せっかくチル空間だったのに」
まずい。「そうだ。僕、別の場所に隠れてますね」
「へ、隠れる? なぜに?」
「や、だって、体育の間中、僕とずっといっしょにいたんだってみんなに思われちゃいますよ」
「よくね?別に」
「よくないでしょ。天園さんみたいなカーストの頂点に君臨してる人が、地べたを這いつくばってる僕と一時間ずっといっしょにいたんだって思われたら、いろいろ評判とかに傷がつくでしょ」
「カーストとかウケる」
「ウケてる場合じゃないです」
「カーストなんて、猫村くんが勝手にクラスメイトをランキングしてるだけじゃん」
「いや、みんな言ってますし……」
「じゃあ、言ってるヤツらがそれぞれで勝手にランキングしてるだけだよ。そんなランキング掲示板にも貼り出されてないし、ウチは知らん」
「そんな……」
「どーでもいい。ウチと猫村くんで何が違うん?」
「や、天園さんは明るいし、僕は暗い……」
「そーだね。猫村くんは落ち着きがあって、ウチはうるさい」
「いや、そうじゃなくて……」
「そーなんだよ。どっちが上とか下とかじゃないっしょ。それにウチらは二人揃って動画投稿してるし。オソロじゃん?」
「僕はオタクコンテンツだし……」
「ウチも美容に関してはオタク!」天園さんが席から立ち上がり、爪を見せてくる。「しかも校則違反! 猫村くんはマジメに学生やってる!」
「ぼ、僕だって授業中にこっそりイベントのクエスト周回やります……!」
「ぷっ」と天園さんはすぐ吹き出す。「アハハハハ! 不良じゃね?それ。だったらウチも猫村くんもマジいっしょだ!」
「……ふ」と僕も少し笑ってしまう。
「アハハ! 上も下もナシ! みんな好きなことして生きてるだけ。そんでいいっしょ」
「それは、その通りなんですけど……」
「少なくともウチらは誰が下だとかそんな暇なランキングつけてねーし。勝手に自分を下にして傷つくなし」
「でも」と僕はまだ抵抗する。「僕自体がクラスで浮いてて、みんなからの風当たりもよくないんですって……! それは事実です。天園さんがどう考えてるかとは関係ありません……! だからそういう風評に天園さんを巻き込みたくなくて……!」
「だる」天園さんは僕の前に立ち、僕をしゃがませる。自分もしゃがむ。「猫村くんはねー……素朴だし、奥ゆかしいし、素直だし、よく周り見てるし気遣い上手だし、慎重だし癒しだし、チルだし、えーっと……」
「い、いや、捻り出さなくていいですから……!」
「可愛いし……!」言うと同時に天園さんが真っ赤になる。「みんなが知らなくても、ウチは知ってっから……!」
「そんなに深い付き合いでもないでしょうに……」
無視される。「ウチがどう考えてるかなんだよ。みんなの評判なんてそれこそ関係ないし! ウチは猫村くんといっしょに堂々としてたいの! 自分の評判なんかを気にしてさー、好きな人をどっかに隠すようなウチでなんていたくねーのよ!」
「…………っ!」そうだった。何度失念するんだって話だけど、天園さん、僕のこと好きなんだったか。いや、そんなバカなモノローグはもういらなさすぎる。「天園さん、ごめん! この間の告白……僕、失礼な態度で」
「えっ……」
あれ? タイミング、ここじゃなかったかな? なんか、天園さんが僕を大事に思ってくれていることに気付いて感極まって謝罪を切り出したんだけど、微妙に会話の本筋と違った? 違ったかもしれないけど、もうこれでいいのだ。僕はようやく謝るための勇気を、他でもない天園さんにもらえたんだから。本当に愚図なヤツだなと思うが、それこそ、天園さんにそこまで褒めてもらえる僕が謝罪もできないようじゃ恥ずかしいと思えたのだ。そんな僕ではいたくないと。今。この瞬間で。
「天園さん、ごめん。あのとき僕、天園さんのことを信じられなくて。本当にごめんなさい」
天園さんは案の定「謝るの遅……」とつぶやく。「でも全然おっけー」
「か、軽い……!」
「だってあの日、猫村くん家来てくれたじゃん? あれだけで気持ち伝わったし、あのときにもう許してたよ」
「…………」
「そんなの謝りに来てくれたんだってわかってたよ。当たり前じゃね? でもそれで充分だったから、猫村くん謝りたそうにしてたのわかってたけど、別に謝ってもらいたいとかじゃないし、謝らせないようにしてた。ウチが」
「…………」
「謝られても仕方ないじゃん? あそこで謝られたら今度こそガチフラれするし? だからウチは、とりま猫村くんにウチのこと知ってもらおうと思って」
「まあ、それなりに知れたけど……」
この一ヶ月とちょっとの間で。
「待った待った」天園さんはこちらに手の平を向けて僕を制する。「猫村くんがウチとどうなりたいかは、もっとあとで考えて。まだ答えなくていいから」
「それは答えないけども……」というか、僕もまだ答えを知らない。
「今んところはこんなふうにいっしょにいられたら、って思ってるよ」
「…………」
「……ぎゃー何これ! 恥ず! 死、死死、死ぬるんだけど」
天園さんは窓の方へ走っていき、しばらく身悶える。ギャルで、態度が小さいとは言いがたいと思うんだけれど、ああしてしょっちゅう恥ずかしがっているのはただただ素直に可愛いなと思ってしまう。
「…………」
この『可愛い』はどういう感情なんだろう? 二次元のキャラクターに対する『可愛い』とはまた違うんだろうか? などと考えている時点で僕は自身の心を理解していないし、これについてもゆっくり探っていくしかない。
天園さんが言う『いっしょにいる』ってのは友達として過ごすってことなんだろうけど、とりあえず手始めに、僕と天園さんは体育の授業から戻ってくるクラスメイト達を二人で迎えなければならない。どこかに隠れることはできない。天園さんといっしょにいるなら、自分を卑下している暇はない。