第七話 狂乱
癒依と藍香を病院から救いだし、羽嶋の家へと戻った僕と蔵田と稲見。僕たちは怪我が全くない彼女達の姿に安心したが、彼女達は羽嶋の家に戻るまでは変わり果てた冴川市の異様な姿に震えるばかりだった。羽嶋の家の近くにあった花屋から漂う麗しき香りは悪魔によって痛めつけられた人間から出る忌まわしき腐臭に変わり果て、レンガの壁に“冴川市役所”から許可を得たアーティストが書いた美しい絵は狂人が血濡れた手で描いた様な名状しがたき絵に変異されてしまい ――それらの様な物を見る度に僕たちは心が痛めつけられたのだ。
「突然で悪いが――お前達が病院にいる間は何があった」
「聞いていて狂いそうになるフルートの音と嘲笑う様な声に誘われる夢を見た後に気が付いたら暗い部屋の中にいて――扉の奥から聞こえる呻き声がずっと怖かったんです――」
藍香の様子は前よりは落ち着いていたが、それでもとても強く恐怖に対して震えていた。そんな状態でも事情を話している彼女を心配に思ったかのように癒依は彼女を見守るばかりだ。にしても、聞くだけでも狂いそうなフルートの音に嘲笑う様な声――彼女達を夢の中で誘き寄せたその声の主はどういう意図で彼女達を病院まで誘き寄せたかは分からないが、断言しよう――その声の主は想像を絶する程に残酷な性格であることを。もし、もう少しでも助け出すのが遅かったら、彼女達は本当に狂っていた筈だろう。
「葉月、病院から例の物は持ってきたか?市川さんの足はそろそろ大丈夫だが、用心しておかないと命がいくつあっても足りないからな」
「ああ、それなら俺が持っているぜ。ほらよっ」
そう言いながら蔵田は羽嶋に包帯とギプスと軟膏を手渡した。中田によって見せつけられた圧倒的な力の差によって生み出された恐怖と自分の妹を救いだす事が出来た嬉しさ――その交わる二つの感情によって市川さんの足を治療する事を忘れそうになったが、病院を出た所にある庭で包帯とギプスと軟膏が同じ所に落ちてあるのを見つけた途端にそれを思い出したのだ。恐らく、あの男が置いておいたのだろう。中央病棟への扉の前で彼に初めて会った時には恐怖ばかり感じていたが、今では一種の好意すら持てた。それが本来の性格であるのかは定かではないが――
市川の足を治療している羽嶋が口を開いたのはその時だった。
「これは夢――そして、この悪夢を醒ますのを妨げるは旧支配者か――俺も今すぐこんな夢から逃れたいが、親父を救いだすまではここから逃げる訳にはいかん。鬼原組の在り処が分かればいいんだがな――」
その言葉を聞いた癒依は何か思い返したかのように立ち上がった。
「鬼原組!?この中に入っている時にそういう組織が"金岡区の工場街"にあるのを聞きました!」
金岡区といえば、唯一海に面している街であるが故に色んなメーカーの工場が集まっており、その為に冴川市の中では下台区と肩を並べるほどの重要な地域と言われている。その中にある中小工場が密集している部分が"金岡工場街"と呼ばれていて、それは期待の工場群とも呼ばれているが、まさかそこを縄張りにしてあるとは――となると、もしかしたら坂東淳子が探していた実の弟である坂東彰人もそこにいるのではないか?
――とりあえず訪れる必要は有りそうだ。
「そうか――そこにいるのだな。だが、もしも中田とお前達が言っていた男ほどの実力を持つ敵と戦うとなると――ああ、流石にこれは俺も自ら行かなければならない。白河、お前はそこら辺にいる悪魔を倒せる自信はあるか?」
羽嶋が質問したにもかかわらず、白河はそっぽを向いて彼を完全に無視した。
「返事をしないという事は別に倒せる自信があるという事だ――いいだろう。俺も同行するぞ」
「おいおいっ、本当にそれでいいのかよ?確かにアイツは結構強いかもしれねぇけどよ――」
「いや、俺はアイツを信じよう。それにこんな状況で『自信はあるか?』と聞かれて否定しないという事は自分が強い力を持っている事の裏付けへとなるからな。それにアイツの他に市川さんと5人の生き残りだっている」
「――行っている最中に悪い事が起こらなければいいんですけどね」
 
会話の最後に躊躇った口調でそう言ったのは稲見だった。
――◇――
冴川市金岡区にある、海の傍にある屈強な男に占領された工場街――その入口の前に一台のオートバイが停まった。ちょうど、見張りとして銃器を持ちながら立っていた屈強な面をした男はオートバイの運転手が敵の兵装をした故か、それを警戒したがそのオートバイの運転手が腰につけている刀を見せつけるかのように軽く振るわせると、途端にその男は銃を下げた後に「すいませんでした」と頭を下げながら、オートバイの運転手だった男をみすみすと通す――
沢山の屈強な男達がビシッとした姿勢で見守る中で彼は他の工場よりも一回り大きい工場に入り、その工場のとある一室に入った。
「待たせたな。"風間"」
"風間"と呼ばれたその男は少し馴れ馴れしくも、凛々しい態度で男を迎え「若、例のターゲットは見付かりましたか?」と待ち兼ねたかのように質問する。男は「そいつらの兄が丁度来たからな――渡しておいたよ」と何気ない口調で答え、それを聞いた風間は少し驚いた様な表情をした。
「渡したって、そんなんでいいんですか。彼女達の兄を装った天羽教会の回し者かもしれねぇですし――それに仮に本物だとしても旧支配者の連中なんかが来たら明らかにやられると思いますぜ。まぁ、グラーキは若が倒しに行く前に誰かによって倒されたらしいですがね。“坂東彰人”副組長」
その言葉をまるで聞き流したかのように彰人と呼ばれた男はヘルメットを脱いだ。そのヘルメットの下に隠されていた顔は一見荒々しく見えていたが、同時に真っ直ぐな眼差しを常に突き通している。
「確かにアイツらは未熟だったな――でもよ、決して弱そうには見えなかったぞ。それに本当に天羽教会の回し者――いや、鷺月京谷の回し者だったら俺なんかに決してビビりはしなかった筈だ。案外グラーキを倒せたのもアイツらかもしれないな」
そんな言葉を聞いた風間は呆れる様に彰人から目を逸らした。すると一本の受話器が鳴りだし、それをダルそうに手を取り「こちら風間将十だ。どうした?」と彼が言ってから暫く立った時の事だった。彼は表情をしかめながら「くそッ――面倒な事になりやがった――」と言い放ち、気になった彰人は「どうした、風間」とききかえした。
「"例の奇病"のせいで厄介な事になっちまいました。皮肉な事に例の奇病で狂っちまった収容所の看守が、例の奇病に掛かった奴らの檻の鍵を全て開けちまったらしいんです」
それを聞いた坂東は一気に驚いた表情を見せて焦りながら「おい!それは、"金沢光行"も含めてか――!」と聞いたが、その答えは結局彼らにとっては不都合な物だった。
「あぁ、その様ですぜ」
「チッ!」と舌打ちをしながら壁を強く叩いた彰人は風間に「お前は入り口にアイツらが出るのを防げ!俺は仲間を助ける。いいか!親父の待機命令とかには従うんじゃねぇぞ――部下共の責任くらい俺が全部取ってやるさ」と指示し、足早に部屋を出た。風間も溜息をついた後「仕方ない、俺も行くか」と言い、落ち着いた様子で部屋から出て行った。
――◇――
蔵田、稲見、羽嶋――そして僕が金岡工場街の入り口の前まで辿りつくと、二本のタガーナイフを構えた長身の男性が狂った様に襲いかかってくる屈強な男をその刃を用いて軽々となぎ倒している姿が見えた。
「おいおい、一体何が起こってんだよ?」
蔵田の声に反応した長身の男性は狂乱に陥った全ての男を片付けた途端に「誰だ」と小さい声で叫びながらタガーナイフを静かに僕たちの方へ構える。暫くは僕たちと男との真剣な睨めっこになっていたが、それが馬鹿らしく感じたのか男はナイフを回した後に気だるそうな表情で「お前達は一体何しにここに来た。天羽教会の連中だったら速攻で斬り伏せてやるぞ」と質問と脅迫を交えながら言い放った。命の危険を感じた稲見はすぐに「わっ、私達は坂東彰人さんと羽嶋博文さんへ会いに――」と半分パニック状態になりながら答えたが、それを聞いた彼は少し驚いた表情を見せ、「お前ら――博文はともかく何処で若の名前を聞いた?」と警戒を交えながら返事を返す。それに対して羽嶋は淳子から貰った坂東彰人の写真を見せながら「これは彰人の姉である淳子先輩から貰った物だが―― これで信じてもらえるか?俺は彼女から彰人を探すように言われた」と、この先を通して貰えるように長身の男を促すことを試みた。
その途端に長身の男性は考える。僕達を通すか、通さないか――その思考の先に出てきた答えがこれだ。
「実はある"奇病"によって狂ってしまった奴らが全員脱出して暴れ回ったんだが、その中にとてつもなく厄介なのが混ざっている。そいつは鬼原組の三大幹部の一人である"金沢光行"だ。そいつを黙らせたら、若にあわせてやろう」
鬼原組三大幹部――京崎ショッピングホールで淳子が言っていた。『敵に回したら厄介』だと――しかし、ここで博文さんを連れて帰れば後はもう下台総合通信塔へ行けばいい。ここは彼に従っておこう。その僕の決定に対して蔵田が「おい、大丈夫かよ?先輩でさえも言ってただろ?『鬼原組はとんでもない奴ら』だって」とそれを止める様に言い放ったが、それを聞いた長身の男性は「確かに俺の言う事を信じるも信じないも勝手だが――それ以外に条件は出せないな。と言ったらどうする?力ずくで行ったら若や“俺達”三大幹部まで敵に回す事になるぞ。それでもいいなら俺と戦ってから通れ」
彼が三大幹部の一人だったのを知ると、蔵田は口の動きをピタリと止めた。また沈黙の時間が始まったが、羽嶋が前に出て「分かった。あんた達に従っておこう」と彼に答える。すると、男はニヤリとしながら「ということは、条件を呑んだとしてみてもいいんだな?」と聞くと、羽嶋は躊躇もせずに頷いた。
「いいだろう。ならまずは金沢の現在の居場所を教えてやる。奴はこの入り組んだ工場街の中央にある倉庫で俺の舎弟共に取り押さえられている筈だ」
「質問がある。その金沢光行とか言う奴の持っている悪魔はどんな能力を持っているんだ。それを聞きたい」
「アイツの使う悪魔は特に特別な能力とかは持ってない。だが、アイツの使う悪魔はダイアモンドの様に硬くて山の様にでかい。だからアイツの悪魔を止めるのは若でも結構手間取るぞ」
羽嶋は「分かった。では、そいつを倒しに行こう」と言い残し、後は無言で先へ進もうとした。僕たちも彼を追うように先へ進んだが、微かに僅かな殺気が遥か遠い場所から届いた様な気がするのだ。少なくともあの男からの殺気とは到底思えないが――気のせいであって欲しい。
――◇――
僕たちは己の方向感覚を頼りにして地図も何もない工場街の中央にある倉庫まで向かった。坂東彰人に会う為に――金沢光行を倒す為に――。
「にしても、坂東彰人か――あの男がこの異変にどんな関係性を持っているのかが知りたいものだ。親父を何故保護するかという点も含めてな」
そういえば、そもそも何で博文が九頭精神病院に連れてこられたのか――『実はここはコンピューター上の仮想空間』だったならば技術者として利用できるかもしれないが、なにしろこれは仮想空間どころか人が眠る時に見る“夢”だ。プログラムで何とかなる物ではない。だが、個人的に何よりも謎なのが『春山が博文の仕事部屋の鍵を持っている』と言う事だ。あんな小物臭い男と博文にどんな関係があるのだろうか?
それに旧支配者――分からない事ばかりだ。
「おいッ!前から敵が来るぞ!」
蔵田の呼びかけによって僕たちは身構えた。そう、前から屈強な男が狂った様な顔つきをして襲ってくるからだ!武器を持たない羽嶋はそこら辺にあった鉄パイプを拾い、それで屈強な男の腹を槍の様に強く着いた。しかし、それで強く吹っ飛ばされても男はまだ襲いかかってくる。
「仕方ない」
羽嶋は「来い――"オモイカネ"」と静かに呟きながら、自分の正面に全身に様々な文字が書かれてある巻物を包帯の様に巻き、そして古い書物を黙々と読んでいる悪魔を召喚した。
「知恵有りし者よ――汝に夢求めし力があるならば、我はその力を持ちて汝に力を貸そう」
オモイカネと思われるその悪魔が重みのある声で呟いた途端に、彼は呪文を唱えた。すると、男は何も触れていないのにも拘らず、壁まで吹き飛ばされて唾を吐きながらその場で倒れ込んだ。羽嶋がオモイカネを自身へ還した後に彼は「どうやら俺の悪魔は気流を変えることができるらしいな――」と呟く。僕たちは彼の力に感心した様だ。これなら中田も倒せるかもしれない――
――◇――
あの時から結構歩いた後の事だった。狂乱に陥った男の相手をしながらも、退屈になった僕はこれまでの出来事を振り返る事を彼らに提案する――
「そういや、俺達って何からこんな事になったんだっけな――」
「確か、朝に先輩達と一緒に九頭公園で待ち合わせしていた時です。冴川市があんな事になってすぐに私は死にそうでしたけど、先輩達のおかげで助かりました」
「本当に稲見ちゃん危なかったよなぁ――もう少しでゾンビ共の仲間入りする所だったぜ。俺だってもう気が狂っていると思うんだけど、よくここまで保てたよな。正直、自分でも結構驚いているんだぜ」
「敵や悪魔も沢山いたが、お前達を助けてくれた人だって結構いた筈だ。気が保てたのはその人たちのおかげではないのか?」
「市川さんに、淳子先輩に、見張りの兵士に紛れた人――誰も私の中では輝いて見えました」
「その内の一人の弟さんにもこれから会うんだろ?そう、暴れている奴を止めてな――」
蔵田はそれを言い終えたと同時に立ち止まった。そう、正面に見える中央倉庫の前から沢山の死体と、金沢と思われる荒々しい表情をした屈強な男が立っていたからだ。
「殺す――何もかも殺す――」
羽嶋は「来るぞ。気を付けろ」と言いながらさっさと身構えた。僕たちも金沢の荒々しい瞳をじっと見つめながら、強く身構える――その途端に僕の脳裏にはある光景が見えていた。
――◇――
どこかで見た事がある様な病院の庭にて、両生類の様な肌を所々に露出させた頑丈な鎧を着た3m位はある人型の悪魔が一人の兵士の顔を強く握っている姿と、周りにとてもこの世にあるとは思えない程酷い殺され方をされた死体が沢山転がっている光景が見えていた――
「何処だ――憎き"クタニド"の魂を宿す女は――」
その声は怨念がこもった様に低く、そして震えるほどに威圧感がある声だった。そして、その声は顔を掴まれている兵士へと呼びかける
「だっ、誰だよ――そいつ――葉月癒依と葉月藍香というガキの女なら――さっき連れてかれ――グバゥ」
兵士の首は悪魔によって握りつぶされた。そう、グシャッという音を大きく立てながら。最後に悪魔は「ああ、大いなるクトゥルーよ――私は貴方の騎士として生きる"オトゥーム"の名にかけ、必ずやクタニドをこの手で永劫の狂気へと陥れてみせましょう」と言い残し、九頭病院を去って行った――僕はある程度分かっていた。これがこの夢を取り巻く真の恐怖が僕たちの元へと訪れる前兆である事を――
イア、ダゴン――イア、ハイドラ――イア、イア、クトゥルー――