第十一話 忠義
中田忠義――奴は天羽教会の連中の中で最も狡猾で最も強い男だ。というのは、奴は並外れた運動神経を持ち、10mの銃弾を後ろから撃たれてもすぐに避けられる男だからだ。おまけに、奴は疾風の様な速さと身のこなしで二本のブレードを操れる。まず、並の地球上の兵士や夢見る者では、奴の殺人的要求を満たす為だけのエサにしかならないだろう。だったら、それを上回る戦闘技術でこっちも奴に対応するしかない。どうやら、ここに行くまで体力を温存する為に戦闘をなるべく控えたという俺の判断は正しかったようだ。というのは、勿論ここで俺が中田忠義と遭遇したからである。
さて、今の俺のパフォーマンスは最高――とまでは行かないが、いつもの9割程度は発揮できる筈だ。その9割のパフォーマンスの中で俺ができる事――それはもう、刀で中田とまともにやりあうか、悪魔を召喚して戦うかのどちらかだ。前者については、スタミナについては俺の方が上だというのは目に見えていたが、身のこなしやスピードは圧倒的に向こうが上回るだろう。
だが、悪魔を召喚して戦う方法――これは前者よりも大きくリスクを伴う選択だ。俺の悪魔の名前は"ツクヨミ"――日本神話で月に当たる神だ。ツクヨミの持っている固有の能力――それは"視界に入っている物体を斬る"ということだ。だが、一見万能そうに見えるその能力にも欠点がある。それは異様に体力を消耗するということだが、いま残っている体力でも精々五回が限度だろう。それ以上やれば、確実に動けなくなるか気を失ってしまう。だが、それよりも更に恐ろしい事があって、俺がこの選択に計りしれない程のリスクを感じたのも恐らくはそれが原因だろう。というのは、いままでずっと刃だけで勝負していたから、俺が中田の持つ悪魔がどんな者であるかを知らないからだ。
だが、一つだけ言える事がある。それは、奴の性格上、俺が悪魔を召喚すれば向こうも確実に悪魔を召喚してくるだろう、ということだ。もしかしたら、どこかで情報が漏れて俺の悪魔の能力が中田に気付かれているかもしれない。そうなれば、俺は明らかに不利な状況の中にある。
しかも、奴から逃げる事は不可能だというのは目に見えていて、俺も奴に対する因縁としてここから逃げる訳にはいかない。おまけに舎弟は全滅か、まさに背水の陣、だな。いいだろう、まずは俺のこの刃でお前のその狡猾な刃を断ってやろうじゃないか。
俺が刀を中田の方へ構えると、奴は俺の言いたい事が分かったかの様に、二つのブレードを俺の方へ構えた。不敵な笑みを浮かべながら ――
――◇――
地下駐車場からここまで登った時に使ったエレベーターの向こう側にあるエレベーターに、僕たちは乗り、そこから三十階まで辿りついた。そこへ辿り着くと、あの酷かった腐臭は3階の時よりも酷くは無かった。が、収まらない腐臭に僕は気絶するかと思った。
次のエレベーターは辺りを探しても見付からなかったので、それを見つけ出す為にこの階の案内板を探したが、どうやらそれは天羽教会の兵士に本当の意味で粉々に粉砕されたようだった。というのは、壁の傍に透明の一つ一つがとても小さい粒が大量に散らばっていたからである。その透明色とやや硬めの材質から、その粒の正体がガラスだというのが分かった。所々に黒い粒も混じっているが、それはガラスの案内板に使われた塗料だとすれば説明が付く。
ということは、次のエレベーターを探すのには少し手間がかかりそうだ。こればかりは流石に勘を頼りにするしかない。
――◇――
ただ、道に沿って鼻を手で覆いながら歩いていると羽嶋はある一つのイタリア料理店の跡の前で立ち止まった。どうしたのだろうか、と思い僕もそこで立ち止まると彼は呟いた。
「このレストランはよく家族と一緒に行った事がある――」
辺りの空気が一変したのはその時だった。というのは、急に沢山の人が現れて、楽しく喋りながらあちらこちらを歩いている光景が視界全体に広がったのだ。しかし、そんな雰囲気に場違いとも言える程、服を汚した僕たちに少しも眼が行ってないのを感じるとそれはヴィジョン(幻覚)だというのを理解した。
そう確認した後、前方を見渡すと羽嶋と似ている顔をした小学生くらいの子供の姿が見える――そう気付いた時は目を疑ったが、その男の子の傍に居る二人の大人が彼の父親である博文と母親であることから、これは羽嶋の少年時代を映したものだと推測した。
彼らの会話だけが何かを思い出させるかのように僕たちの耳に響く――
「今日もここで夜ごはん食べるの?」
「ああ、そうだ。孝治も好きだろう?外で食べる時は基本的に此処にしようと決めていたからね」
「へぇ、そうだったのか――」
「ふふふ――気に入ってくれてありがとう。お母さんの友達が開いたレストランだからおいしく食べてね」
「うん――」
博文や母親の穏やかで優しい性格は相変わらずだったが、羽嶋浩二の喋り方やいつもの表情は現在と違う表情の様だった。今の羽嶋が冷静なのに対し、この羽嶋はとても穏やかな表情で、おっとりとしていた。それに、口調もそれを思わせる――ふと、羽嶋の方を振り向くと、彼は汗を流していた。行っておくが、彼は下台カラムに入ってから少しも走ってないし、僕たちも含めて少しも敵と接触しなかったので戦ってなかった。しかも、今の季節は冬だ。なのに彼が汗を掻くのはおかしい。彼は明らかに何かに動揺しているようだった。
と、それに呼応するように少年時代の羽嶋が少し暗い表情をしたのはそれからだ。
「じつは俺――また告白されたんだけど、振っちゃったんだ。告白される度に僕は悩んで、それで振って、明日から話しかけられなくなって――そうやって友達が減るんだったら学校に行きたくない――」
「孝治――」
「お前の気持ちは父さんも分かるよ。だから私は孝治にアドバイスできる――昔の父さんの様に本当に、本当に好きな人を探し出しなさい。そうすればいい」
「そうか――じゃあ、それで試してみるよ」
幻覚が消え去ったのはその時だ。よくみると、彼は困惑した様子で頭を押さえていた。彼に話しかけようとすると、彼は「いや、もう大丈夫だ――何か忘れている気がしただけだ」と言い、額の汗を拭きとる――しかし、蔵田はあの幻覚の内容に気になったのか、彼にそのことを問いかけた。すると、羽嶋はこれから話す内容を整理してからゆっくりと口を開く。
「今まで黙っていたが、俺は女子から沢山の告白を受けていた。というのは小学生までだな。自分で言うのも気が引けるが、恐らくは顔とあの性格がその理由だろう。だが、俺はどうしても告白を受けた女子と友達の関係を保っていきたかった。だから、俺は告白される度にその女子を不器用なやり口で振ったが、その日以降は振った女子は話しかけてこない。俺はその女子を見る度に罪悪感が心に湧き出た。
そこで親父からあのアドバイスを貰い、好きな女子を苦労して探し出して、告白して、それで俺は学校で罪悪感が湧き出る事は無くなったが――卒業文集を見た後から、俺はこんな口調になったのだろうな。女子の卒業文は殆どが遠回しに、本気で羽嶋が好きだ、みたいな事が書いてあった。俺は自分があの性格であった故に、物凄い罪悪感が生まれたのだろうな――もう、見るに耐えなかった。なので、俺は付き合ってた女子とも別れて、二度とあんな罪悪感を湧きださない為にこんな変人とも思われる口調にした。そしたら、告白は二度と来なくなったし、誰とでも友達の関係を保てた。だが――
でも――実際は今でも後悔してるよ。それに、俺もあんな喋り方は全然好きじゃないんだ。あんな喋り方をしていると知った途端の俺の親は凄く悲しそうだった。でも、いつもこの口調で話すと、またあの罪悪感が生まれるから――」
彼の口から出るとは思わない口調で喋った時に、僕は目を丸くした。というのは、初めて出会った時から、彼の口調には何らかの不器用さを感じていたが、そこまでの理由があるとは思わなかったからだ。話を終えた羽嶋は「ありがとう。俺も少し気が軽くなった」と、いつもの口調で呟いた。
――ここまでして僕らを弄ぶのは一体誰なのだろうか?彼女の悲しい顔を見てから、良い様に踊らされている気がする――
――◇――
俺が中田と刃を交えてから十分経ったころだろうか――互いにまだ傷が一つもついてなかった。だが、現状は俺の方が圧倒的に有利だ。その決定的な理由としてはスタミナがどれだけ残っているか、という点だが――というのは、もちろん俺と中田の元々のスタミナの差にもあった。だが――俺と奴の最大の相違点は、その戦い方だ。奴は常人では目にも止まらない速さで動き、かつ、身こなしも完璧だが――それを常に使いこなした戦い方で長い間、体力が持てる筈がない。それに対して俺は、なるべく動かずに奴から来るのを待った。その結果がこれだ。奴の息は確実に上がっていた。
奴も今になってそれに気付いたようだが、もう遅い。お前はもう俺に勝てない――
「ここで私を逃しても良いのですか?」
その一言で俺の中にあった余裕は完全に消えた。目が丸くなった俺を見て、今度は中田が笑みを浮かべながら俺を弄ぶように口を開き出す――
「『今は俺の方が有利だ』あなたはそう考えて、余裕な笑みを浮かべていたのでしょう?確かにそうだ。今の状況は貴方の方が圧倒的に有利――つまり、貴方はまだ体力の方は大丈夫なのでしょう?しかし、私は疲れていても貴方から逃げ切れる余裕は有ります。
もう一度言いましょうか――ここで"坂東彰人の女を殺した"私を逃してもいいのですか?」
その途端に俺の中の全てが爆発しそうだった――駄目だ!奴の口車に乗せられたら俺は圧倒的に不利に追い込まれる!中田忠義は、その狡猾な口で他人を踊らす名人だ。奴の言葉を聞くな!
「あなたは過去に天羽教会の交渉人である私と何度も戦い、互いに引き分けになった。しかし、その戦いの中に一回だけ――ただ一回だけ、貴方が私によって殺された筈の戦いがあった。それは、私が完全にあなたの懐を突く事ができた時ですかね。その時に貴方の愛人にも近しい女が庇い、その女は内臓ごと切り裂かれて命を落とした。
いやいや、あの時の私は危うく笑いをこぼす所でしたよ。だって、二人っきりの時に貴方が「お前の事は俺が守ってやる」とあの女に誓ったのに、その女に命を守られて、挙句の果てには彼女を亡くした――なんて面白いジョークなんでしょうかね。
つまりは私の言いたい事――分かりましたか?貴方は結局、それ程の力でしかないという事ですよ!すぐに崩れ去る愛しか持てないという点も含めてですかね!」
「そのふざけた口も大概にしろ!」
その怒鳴り声と共に遂に俺は全ての冷静さを全て失った。俺は夜を現す黒い衣と、満月の様に丸くて明るい仮面を着けた神――ツクヨミを召喚し、その視界に映える中田を刀で斬り伏せようとしたが、それすらも中田に避けられた。実際に両断されたのは、大理石でできた壁だ。
「それがあなたの全力ですか!?確かにそれでは、貴方は私に勝てない訳ですね!」
最早、怒りがこれ以上暴発する気配もなかった。俺は中田からある程度の距離を置いた後に、視界の下の方を斬り、それが避けられたのを悟るとすぐに奴の方へ向って斜めに刀を振った。すると、見事に奴の両足がブレードと共に斬り落とされた。
「くっ――!まさか、貴方の悪魔がここまでの能力を持っていたとは――!」
「俺はこれでも鬼原組の若頭の役割を背負っている輩だ。踊らせる事ができたつもりが残念だったな――!」
この階に俺と中田以外の人間が入ってきたのはその時だった。それは、この廊下に姿を現した途端に驚きながらこちらに掛け付けた六人組の青年だ。こいつらは白河と、姉貴に俺を探す様に言われたガキ共か――いや、癒依も居るぞ。ということは、奴らはオトゥームを倒す事ができたという訳か――
――◇――
その時に中田はまるで狂ったかのように大爆笑した。その笑いはまるでこちらに吐き気や恐怖すらを与えさせる程だ。すると彼は最早、別人のものとしか思えないほど枯れ、そして大きな声で喋り出した。
「バッドタイミングで来てしまいましたね――いいでしょう!あの人からは口止めされてますが、私は言いましょう!創造神ですらも驚愕する程の恐ろしさを持ったあの人の掟を破って、言ってやろうじゃありませんか!何を言ってやろうかって!?そりゃ、決まってるじゃないか!わたしがなんで、坂東彰人が女に誓った事を知っているかっていう事だよ!
いいか!あの男はなぁ!空間や時間、そして次元の本質などを全て理解しきっているから、どの空間!時間!次元!にも同時に存在出来るんだよ!その事が一体何を現しているかは知っているだろうなッ!?つまりはあの男にとって、見ず知らずの者の行動を探知するなんて、簡単だってことなんだよ!どうして、そんな事ができるかって!?愚問だなァ!?ああ!教えてやるさ!それはなぁ、あの男――"鷺月京谷"の悪魔こそが、かの恐るべき邪神である"ナイアルラトホテップ"だからだよ!おい!?聞いているのかッ!?わたしは勇気を出して、あの男の事を喋ってやったんだぞ!
だがこれはまだいい!ナイアルラトホテップがゆいいつ恐れる炎の旧支配者の筆頭である"クトゥグア"の事は知っているか?そういえば、あいつは紅い髪の女に宿って鷺月京谷に接触してたっけ!確か、そいつの名はなぁ――しっ、しまった!壁の中から沢山のネズミの足音がする!いいか!これからのわたしの有様を絶対に見るなッ!わたしはもうすぐ"壁の中のねずみ"に貪り食われる!絶対に私を見るんじゃないぞ!
だがこれだけは教えてやる!鷺月京谷は23つのフルートを持って最上階の" 音楽堂"に絶対に居る!これだけは絶対に確かだ!イアッッッッッ!ナイアルラトホテップ!イアッッッッッッッ!アスモデウス!」
狂った様に中田が口を開いた果てに、急に辺りの大理石の壁がなんらかの力で全て砕かれ、骨組みの部分が剥き出しになった。と同時に、その中から無数のグレー色の異様な悪臭を運ぶ何かが中田の方へ凄い速さで這い寄ってくるのが見えた。それの正体について分かった時に僕は思わず声を上げた。そう、這い寄るグレー色の影の正体は大量のねずみだ。そのねずみは汚物塗れで、かわいらしいと感じる所は何もなかった。更には、このねずみの一匹一匹から、今までに見たどの悪魔よりも禍々しい気配を感じ――そして、圧倒的な恐怖を感じた。ねずみは中田の全身に飛びかかった途端に、彼をライオンの様に貪り食った。それが数え切れないほど彼の全身に飛びかかり――彼はねずみから必死にもがきながら金切り声をあげた。ねずみたちが去っていった頃に、そこに残っていたのは、半分の身体を失った中田の姿だ。僕はその姿を見て、何度も吐きそうになったし、鼻を突く様な悪臭と共に気を失いそうにもなった。
これが鷺月京谷に関わった者の末路なのか――?こんなの嫌だ。こんなに酷い死に様を晒す位なら、ここから飛び降りて死んだ方がまだマシだと思った。そこで、白河が一人だけ、悪臭が漂う中田の屍に近づいた。
「どうして、てめぇらはあいつの有様を最後まで見届けた。せっかく、敵が警告してやったのにおまえらはそれを無視したんだ。もし見なかったら、お前らは恐怖せずに済んだ筈だ。
――いいか、これが最後の警告だ。もし、俺の過去を教えて欲しければ、俺と一緒にこの先のエレベーターに乗れ。だが、これ以上呪われた運命にあいたくなければ、悪い事は言わねぇ。今すぐ引き返せ」
僕はどうすればいいのだろうか?ここで下手な選択をすれば間違いなく、呪われた運命に一生憑かれるだろう。こういう時に自分の非力さを呪うものだ。その悩みの時に一人だけ前に出た者が居た。それは、蔵田だった。
「俺はもう友達が酷い目に会う所を見たくねぇんだ。だから、俺は白河と一緒にその元凶を叩きのめしに行くぜ」
僕は彼のその勇気に感服した。よく、あんな判断が出せたものだと――羽嶋と稲見も向こうへ行く中で、僕はふと藍香や博文の事を考えた。もし、ここで彼らを連れ戻さなかったら僕は一生後悔する毎日を過ごすだろう。あの話が本当だとすれば、恐らく帰った後も僕は呪われた生涯を送る事に――だったら前へ進もう。恐怖に立ち向かう為に――
僕たちが前へ進んだ途端に、彰人に呼び止められた。
「俺は癒依と一緒にここで姉貴と風間を待っている。大丈夫だ、俺なら心配は無い。それに白河の話なら既に聞いたからな。最初から、あいつと同じ気持ちでいたつもりだ。俺だって悔いは残したくないからな」
そういえば、彰人はやけに何かに後悔しているようだった。それが何を示すのかは分からないが――
ヒントが出た謎
* 鷺月京谷について
* 紅い髪の女に着いて
新しく出来た謎
* 幻覚を見せたのは誰か?