ヴァイオレットと新天地(1)
王都から乗り合い馬車を乗り継ぎ、馬車で行けるクレパ砦から一番近いイゼルの街まで何日もかけて移動する。少しずつ移り変わっていく馬車からの景色と肌で感じる空気の違いに、私は否が応にも遠くまで来たことを実感する。
そして、ようやくイゼルの街にたどり着いてからも、クレパ砦まで徒歩二~三時間ほどかかると聞き絶望しかけてしまったが、偶然クレパ砦の近くにあるノーグ村から荷馬車で買い出しに来ているという人と出会い、事なきを得た。ちなみにノーグ村はクレパ砦から徒歩二十分ほどの場所にあるらしいが、荷馬車の人が親切でわざわざクレパ砦の前まで送ってくれたので大変助かった。
頭を下げ、小さくなっていく荷馬車を見送った私は、改めて目の前にそびえる砦を見上げる。
乾いた大地が無限に広がる場所にただひとつ建つ、飾り気ひとつない無骨な印象を受ける石造りの砦。
高い防壁が、まるでこれから私を閉じ込める牢獄のように感じてしまうのは、私の気分が沈んでいるためだろうか。
すぅーと大きく息を吸い込むと、砂混じりの乾いた空気が肺に入り、思わず咳き込んでしまった。
王都とは全く違う環境に早くも不安を感じるが、それでもこのまま王都に逃げ帰るわけにはいかない。
私は意を決して、砦の入口へと歩を進めた。
◇ ◇ ◇
「王都から参りました上級治癒師のヴァイオレットです。どうぞよろしくお願いします」
入口の兵に案内されたクレパ砦の隊長の執務室で、私は執務机に向かったまま手を止め、こちらを見ている軍服を着た金髪の男性に挨拶をする。
執務机の上には山のように積み重なった書類が置かれており、この男性が先程まで書類仕事をしていたことが窺えた。
「遠路はるばるご苦労だったな。この砦の全権を任されている隊長のシュロだ。歓迎する、治癒師の先生」
椅子に座ったままニカッと笑顔で差し出された右手を、私も笑顔を作りながら握り返す。
砦をひとつ任されるくらいだから、直接対面するまではそれなりに年配の方を想像していたのだけど、シュロと名乗った隊長さんはどう見ても三十代後半くらいだ。わりと整った顔立ちに快活そうな様子は、見る者に好感を抱かせる。
それでも、隠しきれない獣のような鋭い金色の目や他者を圧倒するような存在感が、その地位は伊達ではないことを告げている。
「この砦では大半の兵士が二十代と若いせいか血気盛んな奴らが多くて先生には苦労をかけると思うが、根は悪い奴らじゃないから追々慣れていってくれ」
少し困ったような表情で微笑すると、隊長さんが立ち上がり私のほうへ歩いてくる。座っている時はわからなかったけど、かなり背が高い。それに近くで見ると、服の上からでも相当鍛えられていることがわかる。
「まずは先生の部屋へ案内しよう。荷物を置いて身支度を整えたら、再度この部屋まで来てくれ。砦の案内と兵達に先生のことを紹介しないといけないからな」
そう言うと、挨拶の際に床に置いた私の旅行鞄を片手でひょいと持ち上げた。
「荷物はこれだけか?」
「はい。あの、自分で持ちますからっ」
さすがに着任早々、上司に荷物持ちをさせるなんて心証が悪すぎると、焦って旅行鞄に手を伸ばす。
だが、隊長さんは朗らかに笑ってそれを制止した。
「遠慮するな。この部屋に入って来た時、両手で重そうに持ってただろ。それとも取り扱いに注意が必要な物でも入ってるのか?」
「いえ! そんな物は全く」
「それなら構わないだろ。行くぞ、ついて来てくれ」
強引に話を終わらせると、さっさと執務室から出て行く隊長さんの後を慌てて追いかける。途中、何人かの兵士の人とすれ違ったけど、先を歩く隊長さんを見失わないように立ち止まらず、軽く頭を下げるだけでやり過ごした。
そうして案内された先は、砦の端にある突き当たりの部屋だった。その部屋に繋がる廊下の少し手前にトイレとシャワー室があるだけで他に個室はなく、なんだかこの辺りだけ周囲から切り離されているかのようだ。当然、私達の他に人影はない。
「ここだ。一応掃除をして最低限の家具は置いてあるが、他に必要な物があれば言ってくれ」
ドアを片手で開けながら隊長さんが中に入っていく。
「荷物はクローゼットの前に置けばいいか?」
「あっ、はい。お願いします」
隊長さんに続いて入室した私は返事をした後で、室内の様子を眺める。
部屋の大きさは、私が王都で住んでいた所と同じくらいか少し広いくらいで、私一人が生活するには十分過ぎる広さだ。窓からの光で部屋の中の明るさも申し分ない。それに鎧戸もついているので、防犯面もばっちりだ。
家具は隊長さんが言った通り、クローゼットとベッドと小さな書き物机と椅子といった最低限の物だけが置いてある。しかも、その家具はすべて年季もので明らかに急ごしらえで用意したものだとわかる。
まあ、それに関しては私の異動自体が急な話だったし、仕方がないとは思う。むしろ、あの短期間で個室を用意してくれたことに感謝しよう。
「先生。これがこの部屋の鍵だ。これ一本しかないからなくさないように注意してくれ」
隊長さんから差し出された小さな黒い鉄の鍵を手のひらで受け取る。
「これ一本って……。予備の鍵はないんですか?」
「あったら鍵の意味がないだろ?」
『大事な鍵なら逆に予備も用意しておくものなのでは?』と意味がわからず首をひねる私に、隊長さんが言葉を足してくれる。
「先生の留守中、予備の鍵で誰かが侵入してるかもとか不安にならずにすむだろ?」
ああ。そういうことか。
私の安全を考えての処置なのね。
「そこまで気を遣って頂いて、ありがとうございます」
「いや。それより先生も戸締まりには十分注意してくれよ。外出時はもちろん、室内にいる時や就寝時にも必ず内鍵をするように心掛けて欲しい。不埒なことをしでかすような大馬鹿野郎はこの砦にはいないと思うが、自衛するに越したことはないからな」
「わかりました。気をつけます」
隊長さんの言葉に一抹の不安が胸をよぎるが、それを悟られないように平然と答える。
「それと、この部屋の手前にトイレとシャワー室があるのは気がついたか? そこは先生専用にするし、内鍵もついているから気兼ねなく使ってくれ。ただし、掃除は自分で頼む」
「それはもちろん。……だけど、本当に私一人で使ってもいいんでしょうか?」
「共用だと、先生も兵達も互いに気を遣うだろ? それにもともとこの一角は砦に駐在する治癒師のために兵達と生活空間を分けて作られているから心配ない。最も、こんな不便で何もない場所に来てくれるような物好きは早々いないから、長らく治癒師不在の状態が続いてたんだけどな」
からからと笑う隊長さんに私は愛想笑いでその場を適当にごまかす。
なるほど。基本的に砦の設備は男性が使うことを前提として作られているけど、治癒師は大半が女性だからそれを考慮した造りになってるのね。
つまり最初この部屋に案内された時、周りと切り離されていると感じたのは間違いじゃなかったのか。
「それじゃ、俺は執務室に戻ってるから、身支度が済んだら来てくれ。あっ、俺が出たら忘れずにすぐ鍵を閉めるようにな」
再度、戸締まりについて注意をしてから、隊長さんが部屋を出て行く。私は言われた通り、すぐに内鍵を閉めて、ようやくホッとひと息ついた。
「疲れたぁー」
思わず気持ちが口から漏れ出る。
長旅での疲れもあるけど、それよりも精神的に疲れた。初めての場所で上司と二人きりでの会話。緊張しすぎて喉がカラカラだ。
できればこのままベッドで横になってしまいたいところだけど、あまり隊長さんを待たせるわけにはいかないので、しぶしぶクローゼットの前に置かれた旅行鞄の前に座りこむ。
とりあえず、まずは旅装を解いて普段着に着替えよう。
そう思って、旅行鞄から普段着を取り出そうとしたところで、ふと手が止まる。
さっき隊長さんが、このあと私を兵達に紹介するって言ってたよね?
もしかして、紹介の場に普段着で行ったら印象悪い?
だけど、改まった場に着ていくような服なんて持ってきてないし……。
しばし頭を悩ませて出した結論は『仕事着を着ていこう』だった。
さすがに今日は仕事をすることはないと思うけど、第一印象は大事だ。
それに、着替えたら汗と砂でボサボサになった髪をきちんと櫛で整えないと。
一応、隊長さんに挨拶する前に手櫛で簡単に整えてはいたけど、やっぱりその場しのぎの方法だと限度があるしね。
髪を梳かして、仕事の時のように一つにまとめる。
仕事着にも、砂や埃やシワがついていないか腕や前面を目視で確認して、背面のチェックをしようと姿見を探すが、どうやらこの部屋には姿見どころか小さな鏡すら置いていないようだ。
さすがに鏡一枚ないのは不便なので、あとで隊長さんに余っている鏡はないか訊いてみようと、脳内にメモしておく。
今はどうしようもないので、背面には問題がないことを祈っておこう。
「よしっ!」
パンパンと両手で軽く頬を叩いて気合いを入れると、今後の自分を大きく左右する戦場の場へ向かった。




